風が、ざあと耳元を掠めて去っていった。
空也と会ってからずっと心の隅に引っかかっていたなにかが、彼の一言たったそれだけで解けた気がした。

辺りには生温く煩わしい木の葉のざわめきが今もなお残っている。
過去に終わったはずの歴史が今、現実に蘇ろうとしている。それを感じ取ったとき、音色は背中を勢いよく這い上がる恐ろしく冷たいものを感じた。









第二章  -16









言い表せない恐怖がどこからかやってきて、じり、と音色は思わず一歩後退りする。
目の前にいる、さっきまで他愛ない話をして笑い合っていた空也が、リーネやサーン、それにエターリア国を滅ぼしたセルガの後世と知って、身体が勝手に硬直している。

怖くなった。もう二度と味わうまいと決めていた恐怖が、リーネの記憶を纏って音色の脳裏に訪れた。
自分でも自分の考えが分からないほどに頭の中が真っ白になったのが分かった。
そんな音色の無意識の後退を視界の端に捉えたのか、空也は先程よりもやや語調を柔らかくすると言葉を続けた。

「だが俺はお前たちを殺してまで力を奪おうとは思ってない」

空也は一度は離した手を伸ばして音色の腕を掴んだ。

「音色、俺のところに来ないか?」

いつになく真剣な空也の顔に、音色は未だに事情が呑み込めないながらも戸惑った。
空也はセルガなのだと、さっきから頭の中で誰かの呪文めいた復唱が続いているかのように、ぐるぐると奇妙な感覚が入り混じっている。

「その力は絶大だ。神の力ってのはどうも偏りがあるらしくてな、恐らく音色のところに結構な力が行ってるらしいんだ」

すっ、と空也の指が不意に音色の首元をなぞって、普段は制服の下に隠してあるネックレスのチェーンに触れた。

「日和からはなにも訊かなかっただろ? 俺ならもっと多くを知ってる。アイツより有効にこの力を使える」

彼の指はチェーンに沿ったまま進んで、次に鎖骨近くの肌の上を滑っていく。
途端に音色の身体がびくりと震えた。

なにかを言葉にしなければならないと、音色は咄嗟に思いついた。
このまま話が進んではいけないような気がしたのだ。過去の二の舞になってしまう。ここで歯止めをかけなければ事態はもっと悪くなるとさえ思えた。
だいたいそんな意味のことを呟く可憐な声が、いったい誰なのだろう、どこからともなく音色の脳に直接響いてくる。

「空也君」

音色はようやくのことで口を開き、けれど弱弱しい響きで彼の名を呼び止めた。
だがこのとき初めて音色はしっかりと、それまでどこか朧だった空也の姿を認識することができた。

「空也君も、この力を返すんだよね? 使うって、そう言うことなんだよね?」
「……ははっ」

空也は音色の顔に近いところで突然嘲笑を漏らした。

「それ、誰に言われた?」
「え?」
「俺たちが持つこの力を返さなきゃ、って、誰に吹き込まれた?」

音色が空也の言葉の真意を測りかねて口を噤んでいると、空也はいっそう顔を近づけて言った。

「そんなのはお前の守護霊の詭弁だ。せっかく手にしたこの力を、音色、なにもせず本当にただ返そうなんて考えてるのか? この力でなにができると思う?」
「……空也君?」
「そんな惜しいことできるか。させてたまるか」

故意なのだろうか、ギリリと自分の腕を掴む空也の腕にありったけの力が込められる。
けれどこのときの音色はそんな痛みも感じないくらいに放心していた。
音色は真っ直ぐ空也の瞳を見つめ返しながら、空也の言葉を受けてずっと考えていたことを半ば反射的にぽつりと呟いた。

「空也君、は、この力が欲しいって、こと?」

音色が呆気にとられながらもなんとか振り絞った言葉に、空也はしばらく沈黙した。
だが音色はそれだけはどうしても確認しておきたかったことだった。

セルガは神の力すべてをどうしてか欲していた。
しかし自分が今までリーネという存在を知らなかったように、セルガの後世とは言え、空也が彼と同じ信念を持っているとは限らないと思っていた。セルガのように、彼も神の力を欲しがっているとは限らない。
そうして目を伏せてなにも言わない空也の顔を、音色は淡い期待とともにただじっと見つめた。

「……そうだ」

けれど少しの間をおいてから放たれたたったそれだけの回答に、音色は愕然とした。
空也のその肯定の言葉がどんなにこの身を戦慄させるものなのか、前世の記憶がある今なら十分に理解できた。
再びこの場から逃げ出してしまいたい恐怖が、途端に音色の身を震わせた。

「俺は音色、お前が欲しい。前世がどうだったかなんて関係ない、今は今だ」

それは空也の言葉とほぼ同時だっただろうか。
音色は心のどこかで、ぷつ、とそれまでギリギリまで張りつめていた糸が呆気なく切れたようなそんな感覚を覚えた。それに伴って、なにかがすとんと心の底に落ちる。

いや、違う。落ちたのではない。音色は咄嗟に直感した。
これは開けてはいけないものを開けてしまったのだ。
例えるならば誰かがゆっくりと地の底から這い上がってくる。そんなとてつもない吐き気と頭痛がすぐに身体を蝕んできた。

鈴を軽やかに転がすような、どこか聞き覚えのある声が頭の中で木霊する。
脳味噌が直接第三者の手によって悪戯に優しく不規則に掻き回されているかのようだ。
音色はどこからともなくやってきた胸やけにも似た嫌悪感を覚えた。

――私に、その身体を渡すのです。

リーネのような澄んだ声だが、リーネではない。少し似ている気もするがこれは違う。

「……駄目」

音色は引き寄せられていた空也の腕の中でぽつりと呟いた。
空也は不思議そうに眉間に皺を寄せて、こちらの顔を覗きこんできた。

「音色?」
「あ、頭の中……で、動かないで……」

一定の間隔を置いて、キン、キン、と、鋭い警鐘が絶え間なく鳴らされているような激しい頭痛が襲ってくる。
音色は目の前の空也の身体を向こういっぱいに押しやって、その場にうずくまり頭を抱え込んだ。

抑えなくては抑えなくては。
ふと、これと似たような体験が身に染みていて、思い出そうとしたその前に音色は思い出した。
そうだ。あのときにも今と同じく頭痛もあったし寒気もあった。しかしこの身体に纏わりついてくる異様な声だけが、今とあのときとでは違っていた。

――さあ、早く。早くあなたの身体を……。

駄目だ。決して開けてはいけない。
「彼女」に身体を譲れば最後、この世界が耐え切れずに壊れてしまう。













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06/05/02