心の奥で何かが小さく、目覚めを知らせるために啼いた。

それはとても小さく、けれど聞き逃すことが出来ないもの。
無視することなど到底叶わない。これは生まれ落ちた時から既に刻まれていた、消すことの出来ない刻印。









第二章  -15









「明英学園……なんですか?」

歩き始めてからしばらくして、音色は俯きながら恐る恐る口を開いた。
聞いてはいけないと思うのだが、確認という意味だけを込めて、遠慮がちに隣を歩く少年の顔を見る。

目的地に着くまでの沈黙に耐えられないということもあった。だがやはり、芽生えてしまった好奇心は抑えることが出来なかった。
彼は本当に明英学園の生徒なのか。どうして下校時間を少し回った時間に緑地公園まで、わざわざ徒歩で行こうとしているのか。
音色が見上げた先の少年は最初、驚いたような呆気に取られたような顔をしていたが、それからややあって可笑しそうに笑んだ。

「ああ、よく分かったな」
「制服が見たことあって……」
「これね。結構目立つよな」

この色、在り得ないだろ?とブレザーの胸元を軽く叩いて彼はうんざりと表情を曇らせた。
音色は彼の思ったよりくるくる変わる表情にぷっと吹き出す。

「あ、やっぱりそれが本当の顔なんだ?」
「え?」
「だって今まで辛気臭いと言うか、オーラが暗かったからさ」

相手が有名子息だと思うと気が引けてしまうのは自分だけなのだろうか。音色は咄嗟にぺこりと頭を下げた。

「す、すみません、緊張してて……」
「別に緊張することなんか無いって。明英の生徒つっても、俺はサボり常習犯だしな」

言われてみれば確かにそんな気もしないではない。
彼は白いワイシャツの第二ボタンまでを余裕で外して、緑と紺のネクタイも比較的緩めに締めている。
これで制服が明英学園のものでなかったなら、どこにでもいる学生の一人に見えただろう。

「じゃあ勉強、大変じゃないですか?明英は進学校だって聞きましたけど」
「勉強?あんなの適当にやっておけば出来るって」
「適当って……どれくらい?」
「前日とか朝とか?他のヤツがどれほどやってるんだか知らないけど、それで次席が取れるから特に興味は無いな」
「じ……っ!?」

音色は素っ頓狂な声を上げた口を慌てて押さえた。
今までの彼の言葉や外見から勘違いしていた。もしかしたら彼はとんでもない天才なのではないだろうか。

明英学園の偏差値ランクは上から数えた方が早い。いや、ほとんど上の位置にある。
そんな進学校において彼が次席。何もかも羨ましい。是非とも爪の垢を煎じて飲みたいくらいだ。
まじまじと見詰める音色に気付いたのか、彼はそんな大層なことでもないけどなと言って軽く笑った。

「そうだ。俺の名前、夜霧空也よぎりくうや
「夜霧空也?」

ひょいと、空也と名乗った彼に顔を覗きこまれて音色は数秒固まる。
今の言葉が彼の名を示しているのだと、聞いてから一瞬遅れて思考が追いつく。

しかし彼のその名前を極普通に舌の上に乗せた途端、若干の違和感があった。
まるで身体の中に何かの回路が組み込まれていて、その回路の中をゼリー状のどろどろとしたものが通り過ぎていくような、例えるならばそんな感覚。
不思議と言うよりは疑問。疑問と言うよりは不可解。

「じゃあそっちは?名前交換しようぜ」
「え?え、えっと……流水。流水音色です」
「ふーん。じゃ、ま、音色って呼ばせてもらうか」
「なっ!?」

突然の自己紹介ならぬ名前交換にも戸惑ったが、呼び捨て宣言などもってのほかだ。驚く以外にどうすることが出来よう。
だが空也は音色の反応こそが度肝を抜かれたというような、意味は違えど音色と同じ驚きをの表情を見せた。

「そんなに驚くことか?アイツもそう呼んでるんだろ?」
「あいつ、って……?」

空也は少しの間口を閉ざして、それからゆっくりと優しく撫でるように言った。

「緑木日和」

まさか、その聞き慣れた名前が空也の口から出るとは思ってもみなかった。
今度こそ完全に言葉を失ったあまり返答が見つからない音色を他所に、空也はふわと欠伸を噛み殺してから面倒そうに髪を掻き上げる。

「俺たち顔見知りなんだよ。色々とな」

成程、と音色は心の中で一人納得した。
やはり彼らは常人には見えない深部で繋がっているらしい。日和の家もそうだ。今は同じ学校に通っていてたまに忘れてしまいそうになるが、一応国内五本指に入るという大富豪である。
そんな彼と、明英学園に通う空也が顔見知りだということに何ら不審な点は無い。

日和の名を出されて焦ってしまったが、とりあえず空也が日和と知り合いらしいことに少しの親近感を抱く。
安堵した音色の顔を見たのか空也は苦笑した。

「と言う訳で、音色も俺のことは呼び捨てでいいから。それに堅苦しいその敬語も」
「でもそんな」
「大丈夫だって。別に構わない」

敬語はともかく、いきなり相手を呼び捨てにするのは勇気がいる。
日和の時でさえ、彼の名を呼ぶのに何度顔が熱くなって何度呂律が回らなくなったことか、思い出すだけでも恥ずかしい。

音色はちら、と横を歩く空也の顔色を窺った。
やはりこれは絶対条件だろうか。もしかしたら何か見返りを要求されたりでもするのだろうか。

「……それとも、やっぱり日和だけは特別、か?」

いつの間にか二人は目的地である緑地公園の前まで来ていた。
この時間帯、夕日が辺りを穏やかに染め上げている筈なのに、今はどこか霧がかったように視界がよく利かない。
時計が無ければ大体の時刻さえ分からないくらいに朝なのか夕方なのか、はっきりしない。

ぴたりと空也の足が公園の入り口で止まる。
今の空也のどこか自嘲めいて呟かれた言葉のあと、いきなりぐいと彼に強い力で腕を引っ張られる。

「空也君!?」

音色の前をずかずかと、腕を引いたまま公園内に入っていく空也から返答は無い。
目の前のクリーム色のブレザーと黒髪。しばらくそうして彼の後ろ姿を眺めながら腕を引かれたまま歩いて、不意に空也は止まった。
辺りには綺麗に整備された敷地が広がり、鬱蒼と生い茂る緑が天にその枝葉を広げている。

どうやら緑地公園の敷地内に入ってきてしまったらしい。
空也はこの場所に用事があるようだから妥当だが、自分は何も無いのだ。ここまで連れて来られてもどうしようもない。

空也が止まってほっとするも束の間、今度は自分の身体ががくんと仰向けに折れた。
世界が半回転して腰に誰かの手が回されて、そして今、空也の顔が一寸前にある。
霧の中から辛うじて顔を出す陽光。その逆光を浴びた空也の顔が、見開かれた音色の瞳に妖艶に映る。

「く、空也君……」
「なに?」

次第に近付いていた空也の顔が、音色の言葉と同時に止まる。
吐息が聞こえるほどに互いの顔が近い。彼に引き寄せられている所為なのか、思うように身体が動かせない。

しかし音色が彼の名を呼ぶと同時にその現象は現れた。
リーネを呼び出した時と同様、記憶が頭の中で一気にフラッシュバックする。だが今度は自分の、ここ何日かの記憶だ。
いつのことだろう、探せ探せ。記憶の蓋をこじ開けて、何でもいいから、彼にまつわる記憶を。

「空也君、って、誰?」

自分の口が勝手に開いて勝手に言葉を紡いでいる。一方で感覚の隅に引っかかったある記憶を引き上げる。
銀色の虚無な空間。その中で狂ったように燃え盛る炎。その向こうから聞こえた低い声、伸びてきた手、炎をくぐった時に見た、見たことのある衣服と顔立ちの黒髪の少年。

「覚えてるよ。前に一回、夢で、こうやって……。でもあの時着ていた服は、あれは……」

あの少年と出会った時と似たような今の体勢、過去の記憶と現実がほんの一瞬だけシンクロする。
あれは夢でも何でもなかったのだと、音色はこの時になってようやく気付いた。
日和の時と同様、また他人の夢の世界を共有したあの時、そこで出会った少年は空也に驚くほど似ている。

黒髪の少年があの時に着ていた服はまさに、リーネの記憶の中で見たセルガの服と同じものだ。
濡れたような漆黒の黒い髪と自分より頭一つ分以上はあるであろうすらりと高い背丈。空也の姿がセルガの姿とぶれながら重なる。

どくん、と鈍い嫌な音を立てて心臓が唸った。
言って欲しい。彼の口から真実を聞きたい、と思った。
空也は本当にセルガと関わりがあるのか。それとも、これは自分の思い込みに過ぎないのか。

「騙す気は無かったんだけどな」

空也はふうと浅い溜め息を付いて、すっと音色の身体から手を離した。
未だに現状を飲み込めずに放心しながらただ立っているだけの音色を横目に、彼は明後日の方向を見やってから静かに口を開く。

「そうだ。俺は後世、セルガ・スライティの後世だよ」













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06/04/20