第二章  -14









音色はぐっと学生鞄を持つ手に力を込めて、少しの間躊躇ってからちら、と背後を振り返った。
振り返った先の後ろにどこまでも一直線に伸びているのは、いつも通りの学校の帰り道。

今は下校時間とずれているためなのか、下校中の生徒の姿はあまり見られない。
気のせいか普通に道行く人の交通量さえ少ないようにも思える。
そうやってしばらく人気の無い閑散とした道を眺めた後で、音色はふうと深い溜め息をついた。

(やっぱり、悪いような気が……)

数分前の確固たる決意はどこへやら、胸中には早くも日和への罪悪感が溢れんばかりに溜まっていた。
明日彼に会ったらなんと弁解すればいいのだろう。いや、顔を合わせること自体気まずい。

(痛い……)

ずきり、と良心が痛んだのと、突風が急に吹き付けてきたのとで心も身体も荒んだように思えた。
どうして今日に限ってこんなにも風が痛く感じるのだろう。そろそろ五月も終わる頃だ、冷風ではない。
直感的なのかそれとも本当に理解しているのか、いつもの頬を撫でる風が好きだったのだが、今日の風はピリピリと辺りの空気を張り詰めさせるような神経が尖るような痛い風。

それはまるで耳元で警戒の文句を囁いているよう。
初夏の棘を持った風は身体にしつこく纏わり付いて、ひらりふわりと宙を舞い続ける。

「あー、あの」

不意に呼び止められて音色は驚いて足を止めた。
背中越しに聞こえた若い男の声。今までの自分の行動に何ら呼び止められる心当たりが無いまま振り返る、その途端、頭の天辺から爪先までを真っ直ぐに衝撃が一気に突き抜けた。

「すいません、地元の人?道訪ねてもいい?」
「あ、はい」

今の尋常ではない感覚はいったい何だったのだろう。
だが頭に浮かんだどこか引っ掛かるその疑問は、すぐに跡形もなく掻き消えた。

音色は自分を呼び止めた人間、声の主の服装を見ただけで身体が強張った。
クリーム色の制服と深緑色と紺のストライプのネクタイ、それと胸ポケットに付けられているいかにも気品を感じさせる入り組んだ形の校章は、間違いなく明英学園中等部の制服だ。

明英学園は県内外問わず越境入学してくる有名子息や社長令嬢で溢れ返っていると噂の名高い私立学校である。
そんなご大層な人間がいったいこの凡人に何用なのか。音色は少し身構えた。
例の名高い学校の制服を少し着崩している、日和並みに背が高い黒髪の少年はふっと微笑んで胸ポケットから一枚の紙切れを取り出した。

「ここなんだけど。分かる?」
「ええと……あ、分かります」

彼が取り出したのは、紙切れに描かれている市内の広大な緑地公園までの地図だ。今はさっぱりだが、小さい時には何回も遊びに行った経験がある。

「なんなら、案内しましょうか?」
「あ、本当?助かるよ」

行き方を説明しようにも、ここからその緑地公園までの道程は結構複雑だ。
それにこれから大した用事も入っていないのだし、彼を目的地まで案内してから帰途に着いても時間は十分余るだろう。

音色は彼を案内しようとしてふと、視線を感じて少年の顔を見上げた。
彼は何故かこちらを不思議そうに見ている。そして数回宙を見詰めながら瞬きした後で、軽く考え込みながら言った。

「な、俺らどこかで前に会った?」

唐突なその言葉に焦って、音色は再度彼の顔をじっと見詰める。
しかし名前は出てこない。見たことはあるような顔立ちや背丈なのだが、喉の手前で突っかかっている感じだ。

「多分……ないです」
「そ?だよな。ま、他人の空似ってヤツかな」

少年は学生鞄を持ったままの手を頭の後ろで組んで苦笑した。
誰かに似ているのかもしれない。彼の顔立ちは羨ましいくらい整っている、もしかしたらテレビか何かに出ている有名人とかモデルとか。
だが先程から心の奥に黒点のような、もやもやとしたスッキリしない疑問が残っている。

(どこだったっけ?)

恐らく彼と会ったことはない。しかしどこかで会ったような気もする。
彼と並んで歩き始めて一瞬、彼の持つ独特の雰囲気に既視感を覚えた。辺りの風景が自分の足元を基点として勢いよくすべて銀色に染まる。

いや、そんなことはない。
銀色で反射的に思い出したのは夢の中の異空間だったが、あの場所で出会ったのは日和だ。彼ではない。

この時、音色は気付かなかった。気付けなかった。
次第に辺りには朝でも無いのに、どこから現れたのか霧が立ち込めてきたことに。
隣で歩幅を合わせて歩く黒髪の少年の口元に、薄らと微笑が浮かんだことに。













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06/04/20