今年の春、何をそんなに急いでいるのか、薄桃色の花弁が眩しい桜が呆気なく舞い散る頃だった。

突然引っ越しの話が出てきて、それも悪くないのではないかと考えながら街を歩き回っていた時。
あの日から、すべてが動き出した。









第二章  -13









街はいつものように、どこか冷めた人々の熱気を保ち続けながら賑わっていた。
どこにある風景も毎日その原形を少しも変えることなく泰然と流れていく。時間も感情も何もかもが。

辺りを見回してみても、きっと顔見知りの人間はいないに違いない。
日和はどこを見詰めるでもなくただ歩き続けた。学生鞄を持つ右手が少しだけ痺れていた。

―――お前はここに残ってもいいんだ。だが、自分の道は自分で決めろ。

脳裏にふと、先日なんの前置きもなく告げられた父の言葉が掠め去った。
しかしその提案を自分でも驚くくらいあっさり承諾したのには、それこそ驚いた。

親の仕事の都合で引っ越すことは、今までの経験からして珍しいことではない。
転勤族ほど頻繁な引っ越しを繰り返してきた訳ではないが、これまで二、三回ほど、外国で数年を過ごしたこともある。
だが今回の引っ越しは仕事が理由ではない、母の療養のためだった。

いつもならあまり乗り気では無かった筈だ。それなのに今回は、父の言葉を聞いたその瞬間からどこか不思議な感じを覚えた。
引っ越し先の、別荘として建てられていた東京郊外の家には幼少期に数回行った程度だ。
本当に不思議だった。目蓋を閉じただけで少し離れた郊外の家の様子がありありと浮かんできた。

(……帰るか)

ここで何をすると言う当てもなく歩き回っているのにも大分疲れてきた。
日和はゆっくりと顔を上げた。
そろそろ家に帰ろう。そして恐らく荷造りでごった返している人々の群れに混ざって自分もまた荷造りに励む、そんな未来が容易に想像できた。

いつもに増して人通りが多い街中、雑踏の中を流れに沿って歩くことは簡単だった。
逆はかなり難しそうだが、今にも肩と肩が触れ合いそうな中をあえて逆流しようと思う人はまずいないだろう。
だいたいそんなことを考えていた日和のすぐ横を、誰かが逆流して通り過ぎたと気付いたのはその直後だった。

時間が止まったのかと思った。
ゆっくりと引き延ばされていく時間越しに感じる、視界の端にちらちらと映る黒髪。同じ背丈の人間だと理解するのに大した時間は必要なかった。

振り返る必要は無いと思っていた。
だがあまりにすれ違った人間の姿が気にかかってしまったらしく、いっそ偶然を装って振り返ってもいいような気がした。

「っと、すいません」

余計なことを考えていた所為だろうか、我を取り戻したときには既に前を歩いてた人間の背にぶつかっていた。
日和も背は高い方だと言われているが、前の人間は後ろ姿から判断するに自分より背が高い男、一八〇センチ以上はあるだろう。

日和は咄嗟に軽く頭を下げた。
しかしいつまで経っても男からの反応は無かった。しんと、奇妙なまでの静寂が耳を貫いて初めてぞくりと悪寒がした。

再度、日和はすぐに顔を上げて辺りを何回も見回してみた。
訳が分からなかった。今まで人々の会話が絶えず木霊し、歩く速度も人それぞれだった街の風景は、まるで絵画の中のようにぴたりと止まっていた。
人は皆、一瞬をそこに表した姿のまま停止している。本当に時間が止まったかのようだった。

「……日和様」

静止した世界の中で唯一の声が聞こえて思わず振り返る。
日和の背後には、たった今、宙から現れたと言わんばかりに柔らかく着地する幼い少女の姿があった。彼女が着ている麻のコートの布地が空を舞って広がる。

「早くこれを」

少女の灰色の無機質な瞳が日和の戸惑いを隠せない瞳を射竦めた。
日和の手中にはいつの間にか、強引に少女から親指大の真珠が一つ通してあるブレスレットが手渡されていた。

(……誰だ?)

少女は恐らく日本人ではない。だが先程、彼女は自分の名を流暢に呼んだ。
呆気にとられて言葉が出ない日和の心情を察したのか、少女はすっと今まで歩いてきた道の上を指差した。

「躊躇していられません。彼の姿が分かりますか?」
「姿?」
「貴方はすぐお気付きになられたはず。あそこで貴方と同じく時間に左右されることの無い、彼です」

僅かに見覚えのある制服を着て、こちらに背を向けている黒髪の少年。
彼は自分のいる場所から数メートル離れた、何故か周りに人がいない場所で斜め上を向いている。

胸の奥が、ざわと波立った。
さっきすれ違ったのは彼だ。違和感を持ったのも彼だ。そして今、言い表せない恐怖を感じられるのもきっと彼の影響だ。
日和は少年の顔が向く先、彼の斜め上に何か不気味なものがうごめいていることにしばらくしてから気付いた。

目を凝らす、するとそれは実に細かによく動いた。少年の斜め上に浮いていたものは紛れもない、人間だった。
顔付きは黒髪の彼とよく似ている。ただ服装が現代にはとてもそぐわなさそうだった。

中世を思わせる服装の少年は口元を怪しく吊り上げてから、黒髪の少年にすっと顔を近付けて、二言三言囁いた。
何を話しているのかは遠くて良く分からなかった。
しかし何を直感したのか、突然ぴくりと驚いたように反応したのは黒髪の少年ではなく日和の隣の灰色の瞳を持つ少女だった。

「日和様、私の後に続いて『彼』を召喚するための言葉を」
「……は?」

いよいよこの少女の言っていることが分からなくなった。
いったいこの瞬間に何が起きて、そしてこれから先に何が起ころうと言うのか。

「私が補佐します。まずはそのブレスレットの上に手を翳し」
「って、勝手に話を……」
「早く!」

今まで終始冷静沈着だった少女の剣幕に面食らった。
日和は学生服を着た少年の後ろ姿を気にかけながら、渋々と言われたままブレスレットの上に手を翳した。

「では復唱を。……我は日と地を司る者」
「我は日と地を司る、モノ」
「悠久の時間を越えた神の化身よ、我が前に現れ給え」
「……悠久の時間を越えた……神の化身?よ、我が前に現れ給え……」

言い終えた途端、異常は突然現れた。
どこからか吹き出す眩いほどの金色の光が身体を勢いよく取り巻き始める。
日和は反射的に目を硬く瞑った。頬を荒々しい突風が絶えず掠めていた。

しかしすぐにふっとそれらが跡形も無く消えて、日和は恐る恐る目蓋を持ち上げた。
光が風のように消えた後に残ったもの。日和の隣にいたのは少女ではない、日和と似た顔付きのこれまた中世を思わせる服装の金髪碧眼少年だった。

「歴史の再演、か……セルガ」

金髪の少年はそうぽつりと呟いて苦く笑った。
彼の視線の先にいるのは重力など関係ないように、宙に浮かんで不敵な笑みを零す同じく中世風の服を身に纏っている少年。

セルガと呼ばれたのは、恐らくその中世風の服を身に纏った少年のことだろう。
彼の黒いマントが時間の止まった中で吹く筈のない風に穏やかに翻る。そこから垣間見えた、制服を着ている少年の口元も薄く釣り上がっている。
日和の頭の中に不意に彼の名前が現れた。そうだ、彼もまた名家の―――。

「お前を殺すのは今じゃない……もっと、そう、先だ……」

セルガは天を揺るがすような狂った笑い声を辺りに響かせながら、ずるずると爪先から白い霧に揉み消されていく。
黒髪の少年も同時に、嘲ったような眼差しをこちらに向けた。

「許すものか……この世界を、この狂った世界を。何もかも、すべてを手にする!今度こそ潰してやる!」

セルガの呪文めいた言葉が終わるか終わらないかの内に、彼と黒髪の少年の姿は突如現れた炎と共に一瞬にして消え去った。
あまりの唐突な展開に日和は、彼らの存在はもしかしたら白昼夢ではないかと疑ってしまったほどだ。
気が付けば、灰色の瞳の少女も既に姿を眩ましていた。

しかし日和は異様な気配を感じて横を向いた。
夢ではなかった。まだ隣に立っている金髪の少年は、いつまでも経ってもセルガたちの消えた方向を見据えていた。

「日和、話がある」

急に街が動き出した。
今まで停止していた道を急いでいた人々が、何事も無かったかのようにまた忙しく歩き出す。
流れ始めた時間に合わせて、一斉に日和の横を素知らぬ顔で通り過ぎていく。

金髪の少年は、ようやく視線をセルガたちの消えた場所から外して日和に笑んだ。
それはまるで鏡で自分の顔を見ているようだった。

「どうしようもない、俺らの末路だ」

驚くべきことに、自分とよく似た容姿を持つ金髪の少年は他人に見えることがないようだった。
彼の身体の中を街を練り歩く人々は簡単に通り抜けていく、その様は見ていて不思議以外の何物でもなかった。

その後のことだ。彼から数百年前の、彼らの歴史の一部始終の記憶を継いだのは。













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06/04/20