第二章 -12 やはり音色に少しでも他の神の力を持つ者のことを告げておくべきだったのだろうか。 ここ何日か、ずっとそのことばかり考えている所為で妙に気分が重い。 あの物事を正直にズバリと言う雫にもついさっき、「眉間に皺が寄っている」と指摘を受けたほどだ。 ここは早くに何かの解決策を打ち出さない限り、この歯痒い状況はどうにもならないのだろう。 日和は昇降口を出てから、すっかり夕日が橙色に染め上げた空を見上げた。風が生温い。 ―――心配しなくても音色は今頃とっくに家に着いてるわよ。 先程の雫の言葉が蘇る。 彼女の真剣な表情からして嘘を付いている、ということは先ず無さそうだが、どうにも落ち着かない。 本当に今頃、音色は無事家に着くことが出来たのだろうか。一抹の不安がさっきから胸の中に居座っている。 『随分と、しけた顔してるな』 唐突に現れた聞き覚えのある低い声。 ふと横を見てみれば、いつの間に現れたのか、サーンがそこに立って日和と同じく空を見上げていた。 まさに神出鬼没とはこのことだろう。 ちらとサーンの足元を見る。彼の身体は歩くことを忘れてしまったのだとでも言うように地上から数センチ離れて浮いている。 日和は、はあと深い溜め息を一つ付いてから学生鞄を持ち直して歩き出した。 「また勝手に出てきたのか……」 『別に構わないだろ。誰に見られてる訳でもない』 日和たちの近くを一人の女子生徒が昇降口から飛び出したその勢いのまま小走りで追い越す。 しかし彼女は日和の横にいる派手な出で立ちのサーンを気に留めることもなく去っていった。 分かっている。サーンやリーネ、守護霊は他人には見えない。 どうやら神の力を持つ者には見えるらしいのだが、それも音色が認識したことから弾き出した結果に過ぎない。 だが恐らく他の「二人」にも、前世の彼らの姿は見ることが出来るのだろう。 『彼女に言わないのか?』 今まで考えていたことを雫と同様、サーンに難なく見透かされて心臓がずきりと痛む。 まったく、どうして自分の周りにはこう心情を読むことを得意とする人間が多いのだか。 「言った方が、よかったと思うか?」 『さあな。お前たちのことはお前たちで考えろよ』 「……だな」 二人の間に少しの沈黙が流れた。耳の傍で唸る風の音がいつもより強く聞こえる。 『にしても、お前はなんでそこまで落ち込んでるんだ?ああ、あれか。ここ何日か音色に避けられてるからだろ?お前、振られたんじゃないか?』 何やら楽しそうに笑いを噛み締めているサーンに、またかと思う。 サーンはどうやら他人を挑発することが好きらしい。サーンの過去を見た時は良心が多少なりとも痛んだものだった。 日和はただ疲れたようにやる気無く小さく首を横に振った。 「……リーネと会ったその日に結婚を申し込んだ奴の言葉は聞きたくない」 『最終的には落としただろう。結果だ結果』 「途中かなり嫌そうだったじゃないか」 『……ったく、これだから若造は手がかかる』 「サーンもだろ」 しかしサーンは日和の言葉など聞いていなかったような素振りで、呆れた顔をして肩を竦めて見せた。 『いいか、恋愛は押しだ。引きなんて知るものか、怯まずに押してけ。だいたいな日和、お前は悠長に構えすぎなんだよ。幾ら国の宝と謳われたこの俺の後世だと言ってもだ』 「なんだそれ」 国の宝とは少し自分を過大評価し過ぎではないだろうか、と日和は心の中で思った。 確かにサーンはその類稀なる容姿からエターリアの民に敬われていたようだが、このどこか国王とは思えない国王であるサーンを目の前にすると、どうも威厳と言うものが感じられなくなってしまうのは気のせいであろうか。 校門に向かって歩く日和の横を、滑らかに空を浮かんで付いてくるサーンは辺りにすっと視線を動かした。 何か興味の種となるものでもあったのだろうか。 しかしサーンはどこかに焦点を定めると言ったことはせずに口を開いた。 『ま、お前の将来はお前が創るものだから俺がどうこう言う筋合いはない。けどな、肝心な時に大事なものを手放したままにしておくと、いつか本当に足をすくわれ―――』 サーンが言葉を切るのと、その違和感が辺りを一瞬で氷付けにしたのと、いったいどちらが早かったのだろう。 日和とサーンは同時に驚いて顔を上げた。 空が大地が、瞬く間に凍り付いていく。いや、これはただ止まっているだけなのだ。 やはり勘は間違ってはいなかった。 時間が故意に止められている。その証拠に空を飛んでいる鳥が浮かんだままの姿でさっきから微動だにしない。 『時間を止められたな』 危機感を含んだサーンの呟きを聞きながら日和もまた辺りを見回した。 時間を止められると言うことは経験上、大抵いい事態になってはいない。誰が時間を操っているのだろうか。 「力を持つ残りの二人か?それとも、ウィリネグロスが?」 『いや、違う。これは……』 サーンは鋭く右から左へと視線を動かして、チッと舌打ちした。 『音色だ』 冷静な言葉に日和は逆に訳が分からなくなった。 顔を上げる。この世界のどこかで今、音色が時間を止めているのだと、とても信じられなかった。 「音色!?まだ時間の制御方法は知らない筈だ!」 『知るか。とにかく彼女を捜せ』 どおん、とサーンの最後の言葉にかかるようにして爆音がどこからか響いてきた。 地面が激しく縦に揺れた。砂煙が前方の少し離れた場所で上がっているのが見える。 封印されていた筈の歴史が、残酷に微笑みながら動き始める。 『走れ!日和!!』 サーンの言葉が早いか、日和は既に砂煙の上がった方向へと駆け出していた。 自分の心臓の鼓動が焦りを反映して嫌なほど速い。さっきまで耳元で唸っていた風も時間の停止によりどこにあるのか分からなかった。 まさか、まさかそんなことは在り得ない。 もしかしたら「彼」が現れて音色を懐柔しようとしているのでは、と考えてしまった自分を心の中で強く諫めた。 強く地面を蹴る日和の脳裏に数ヶ月前の記憶が急に浮かんできた。 あれは忘れもしない。あれが発端となり、今こうしてサーンと行動を共にすることになったのだ、忘れられる訳が無い。 今ではすっかり時期外れとなった桜の花びらが記憶の中で舞っている。それがあまりに目の前をチラつくので、日和は走りながら思わず目蓋を押さえた。 BACK/TOP/NEXT 06/04/20 |