第二章  -11









がらり、と教室の後ろの扉が開く音で、雫はようやく手元の本から顔を上げた。
そこには案の定、委員会を終えたであろう日和の姿がある。

音色が教室を去ってから既に二十分が経っている。まったくタイミングがいいんだか悪いんだか。
日和はがらんとした教室内を数回見渡して、ただ一人残っている雫に目を留めた。

「あの、水沢さん」

躊躇いがちに聞いてくる日和の声を背中越しに聞いて、ふっと雫は内心笑ってから振り返った。

「私のことも下の名前で呼んでくれていいのよ?」

ほんの冗談のつもりだったのだが、日和がまともに受け取ってしまったらしく黙り込んでなにやら焦っているようなので、雫は思わず笑った。

「ウソウソ、冗談。好きなように呼んで」
「じゃあ……っと……水沢」

驚いた。不意を突かれたとはこういうことを言うのだろうか。
彼は音色のことは「音色」と呼ぶくせに、一応他人と音色との境界線を持っているらしい。

(……へえ?)

雫は笑うのをやめて、日和から手元の小説に視線を戻した。
この状況で再び読書に没頭することは難しそうだが、考え事をする時は本を読みながらがちょうどいい。

音色と日和は幼馴染ではないと分かっている。だが気付いていない、彼らに騙されたままにしている。
このまま二人のちぐはぐで奇妙な幼馴染ごっこがどこまで続くのか見てみたくもあるし、そもそも自分には彼らに幼馴染かどうかを言及する理由も無い。

気付かない訳がない。むしろ他の生徒がそれで納得しているのが可笑しいくらいだ。
音色と日和は間違いなく初対面。だがそれでもどこか腑に落ちないのは、二人の間にどこか通じているものがあるような気がするからだ。
それは何かの溝を埋めるように、二人の距離の溝をも縮めている。

日和は気付いているのだろうか。
きっと彼が本気を出せば初めて会った異性でさえ簡単に落とせるだろうに、何をそんなに躊躇しているのか。

「音色、知らないか?」

心の中であれやこれやと思いを巡らせる雫に対して、日和は尚も冷静に口を開いた。
来た来た、雫は内心ほくそ笑んだ。

「音色?ああ、帰ったわよ」

まるでそれが別に重要でも何でも無いと言うような口調で返した。

「帰った?」
「何でも用事があったって、音色、思い出したらしいわよ」

外せない用事が理由なら、幾ら日和でも音色に対して怒ることはできないだろう。
元々音色に帰ってはどうかと提案したのは自分なのだし、火の粉が飛び散ることはあまり好きではない。

しかし言ってから数秒辺りがしんと静まり返って、日和がそこに本当にいるのかどうか疑わしくなったので、雫は反射的に顔を上げていた。
確かにさっきと同じく、日和は教室の後ろの扉の前に立っている。
だがそれがさっきまでの彼と違うのは、どこか信じられないというような逆にこちらがぎょっとしてしまうような怖い雰囲気であるからだ。

「そんなに驚くこと?」

どうしてそこまで音色一人を気にかけるのだろう。
教室の窓の外に目をやって唇を噛む今の日和の焦るような表情も、分からない。

「死活問題なんだ」
「まさか」

雫は軽く笑って見せたが、日和の顔は憂いを帯びたままだった。

「考え過ぎよ」

彼をフォローするつもりは毛頭無かったのだが、思わず口に出していた。
日和の姿があまりに痛々しかった、と表現したら大袈裟だろうか。しかしその時の彼の表情はとても厳しいものだった。

「眉間にそんなに皺寄せて、折角の美男子が宜しくないわね。心配しなくても音色は今頃とっくに家に着いてるわよ」
「……だといいけど」

日和は鞄を持ち直すと、目を伏せて背を向けた。
まるで失恋したかのような気の落ち込みようではないか。とても彼に似合いそうにもない姿に雫はまた笑いそうになってしまったが、寸でのところで抑え込んだ。

「水沢」

教室から去ったと思っていた日和の声がしばらくしてから聞こえて、読書を再開していた雫は驚いて振り返った。
扉の前にいる日和はなにかを口にしようとして、眉間に皺を寄せてから飲み込んだ。

「いや、ごめん。何でも無い」
「いいわよ」

何を言いかけたのかも気にはなったが、この時の日和の表情も気になった。
だいたい考えることは分からないでもないが、自分に訊くより本人に直接訊いた方が良策だと思うのは自分だけなのだろうか。

すっかり静かになった教室に、ただ風の吹く音だけが聞こえる。
そろそろ自分も帰る頃だろうか。音色がいた時より空が茜色に染められていて、その暖かな色が教室にまで届いてくる。

二人の共通点はいったいどこにあるのだろう。
日和が転入してきた時の音色のあの不可解な反応、ずっとそれが気になっていた。
雫は過ぎ行く時間も大して気に留めず、また小説を読みながらそんな他愛も無いことを考えた。













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06/04/20