第二章 -10 「日和!」 音色はわなわなと肩を震わせ、思わず大声を上げていた。 我慢が限界にきた所為か思わず下の名で彼を呼びつけてしまったが、問題はそこではない。 案の定、日和はさっと視線を逸らして素知らぬ振りをしている、が、最近の彼の行動からして間違いない。彼はここで自分を待っていたのだ。 もしここが家の前や通学路の途中などであったらどんなによかったことか。 しかし今音色と日和が対峙しているのは、こともあろうか学校の、しかも女子トイレの前である。 「あの、さすがに幼馴染はここまでしないと思うんだけど。気持ちだけはありがたいと言うか……」 羽目を外したフォローをするわけではないが、音色はやや語調を柔らかくして言い直した。 再度見上げた日和の顔はやはりここ何日間と同様、少々憂いを帯びているような気もする。 先日の、音色が引き起こした事件で少し丸くなったかと思えば、彼の不審な動きは既にその次の日から普通に再開、むしろ悪化していた。 いったいなんだと言うのだ。朝学校に来てから帰宅するまで、同じクラスだと言うことを勘定に入れずとも、彼の姿が視界に入る回数と言ったらこの上なかった。 最初の何日かは自分になにか責任があるのかと自問自答を繰り返していた。しかしこうなればもはや自分だけの問題ではないはずだ。 ゆえについさっき、日和にそれとなく理由を聞いたのだが、彼はなんでもないと言って首を横に振るばかりだった。 だがなんでもないことではないのは彼の表情、そして言った傍からのこのストーカーじみた行動を見れば一目瞭然だ。彼には、絶対に自分を見張らなければならない理由があるに違いなかった。 「……ねえ、なにか私に隠してる?」 日和がぷっつりと黙ってしまったので、音色はどうにかして真実を聞きだそうと思案した挙句、当てずっぽうで言ってみた。 しかしこのとき、日和の顔色は途端にこちらが驚いてしまうほど急激に変わった。音色は思わずその変化に心がぐらと揺らいだ。 いつも冷静なはずの彼の瞳が今、大きく見開かれている。音色は唖然として、次に聞こうと思っていたことさえもこの衝撃で忘れてしまって、どうにも思い出せなかった。 廊下の上を数人の生徒が、女子トイレの前で面と向かい合う音色と日和を不思議そうな目で見ながら素通りしていく。 もうすぐ休み時間終了の鐘が鳴るだろう。できればその前にこの話に終止符を打ちたかったのだが、どうやら今日も失敗に終わりそうだなと、音色は思った。 また根負けしてしまった。音色はややあってから日和から視線を逸らした。 「えっと……じゃあ今度ちゃんと話して」 妥協案じみたものを口にしながら、音色は自分の心臓の音が大きく拍動するのを間近に感じた。 高鳴っているわけではない。日和の不安そうな顔を見た影響なのか、自分の心臓の鼓動までもが不規則になっているようだった。 「音色、放課後に用事ないよな?」 「……うん。特にないけど」 日和が微動だにしようとしなかったので、仕方なく音色がその場から去ろうとしたとき、ようやく日和が口を開いた。 しかし彼が話題にしたのは、さっきの問いの答えでもなんでもなかった。 そんなあくまで真剣な顔で聞いてくる日和が、音色は少し怖くなった。 「家まで送るから、放課後、少し待っててくれないか」 いったい日和はなにをそんなに焦っているのだろう。 疑問を抱きつつも、有無を言わせない日和の強張った雰囲気に、音色はいつの間にか曖昧に頷いていた。 辺りの空気にじわりじわりと夕方の橙色が溶け込んでくる。 校庭から野球部のボールを打つ乾いた音と、運動部のかけ声が途切れ途切れに飛んでくる。きっと他の部活も今は部活動中だろう。 どこからか少し眠気がやってきて音色の頬を撫でた。日和はまだ委員会なのだろうか、と、朧な頭で考える。 放課後の人気のない教室のかけ時計は、毎秒を乱れることのない一定のリズムで刻んでいる。今はちょうど午後の五時を回ったところだ。 音色は帰り支度の整った鞄に顔を埋めながら、つい数分前にした質問について、隣の席からの返答を待った。 「ふーん、成程。ま、最近の彼の執着振りは傍目から見ても異常だわ」 異常どころではない。かなり異常だ。 音色はちらりと、音色の隣の席で前を向いたまま文庫本くらいの大きさの小説を読み耽っている雫に視線を移した。 「ねえ、雫。幼馴染ってそんなことまでしたっけ?」 「なんで音色が私にそれを訊くのよ。でも、そうね、普通はしないと思うけど。女子トイレの前って……ねえ」 雫は小さく笑いを噛みしめながら手元の小説のページを一枚捲った。 「理由、訊いてみたら?」 「もう訊いた」 だがいくら問い質してみても、日和はなにも答えてはくれなかった。 ただ曖昧に誤魔化すだけ。それがいつもの彼らしくないことは傍から見てもよく分かる。 いつから彼の行動が変だと思えるようになったのだろう。 転入初日は日和の出現に驚いたあまりよく覚えていないが、それから何日かは普通だった気がする。 日和の視線が厳しくなったのはここ数日のことだ。自分がなにか失態を犯した心当たりはないが、もしかしたら知らないうちに彼の機嫌を損ねていたと言うことは十分に考えられる。 だが、例えそうであったとしても、日和がなにかを隠しているという事実には変わりなかった。 今日の帰り道で強く詰め寄ればさすがに日和も口を開くだろうか。それともここはサーンにこっそり横流しを頼んでみると言う手法でいくべきだろうか。 「それなら、子離れが必要ね」 いろいろな思考を巡らせ、サーンに頼むという案でひとまず決着をつけようとしていた音色の耳に、不意に冷静な言葉が飛び込んできた。 声の主である雫は相変わらずマイペースに手元の小説のページを捲っている。 今いったい彼女はなんと言ったのだろう。 音色はしばらく口を閉ざして雫の横顔を凝視して、今し方耳にしたはずの記憶の中の一単語を引っ張り出した。 「子離れ?」 「そ、子離れ。たまには……そう、例えば今日とか、一人で帰ってみれば? 緑木君もなにか吹っ切れるんじゃない?」 面白そうな雫の言葉が気にかかったが、どこか納得する自分がいることに音色は驚いた。 だがやはり最近の日和は変なのだ。ここで一気にこの霧を振り払うと言う気分転換も、案外悪くないのかもしれない。 音色は雫の席とは真反対にある窓の外を振り返った。 (私が頼りないことは知ってるけど……) それでも心の中で少しの葛藤があった。 無意識的に耳に飛び込んでくる周囲の音が、血液が身体中を駆け巡る音と重なって焦りをもたらした。 しかしここで立ち止まってはいられないのだ。音色は心の中で決意を固めてぐっと鞄を掴んだ。 日和が隠さなければいけないのならそれでいい。ずっと知らない振りをしよう。 その代わり、彼の足枷にならないように自分が強くなればいいだけのことだ。 「雫、ありがと」 「私はなにもしてないわよ」 口元に薄ら微笑を浮かべる雫に別れを告げてから、音色は教室をあとにした。 誰もいない広く長い廊下を歩く自分の足音が、普段より大きく聞こえた。 近頃日和と登下校を共にしていた、と言うよりはそうせざるを得なかったため、こうやって一人で気侭に下校するのは久し振りだった。 まだ空が青い。昇降口から数歩歩いて天を仰いだ音色の瞳に、茜色が少し混じったような青空が映った。 強くなろう、誰にも頼ることなく自分の意思で行動できるように。 音色はその場で立ち止まって胸の前でぐっと拳を強く握ると、再び歩き出した。 BACK/TOP/NEXT 06/04/20 |