初め、この空気を震わせる異様な感覚はなんだろうと思った。
けれど、それが「誰か」が神の力を使った所為だと思い当たるのに大した時間はかからなかった。

その力を行使したのが誰なのかを特定しかけたとき、集団からぱっと離れてどこかへ駆けていく彼女の姿に同情を覚えたのは、同じ神の力の保持者たる所以だろうか。それとも。









第二章  -09









――うわ、気持ち悪っ!

飲み込み切れなかった粉薬のように、胸のところでもやもやとした嫌悪感が燻っている。
二度と思い出したくないと言うのに、そう考えれば考えるほどさっきの言葉ばかりが浮かび上がってくる。

気持ち悪いって、なぜ、どうして、なにがいけなかったの。
音色は座り込んだまま、ドアノブを握りしめている手とは反対の、空いているほうの手で目頭を覆った。
既にやってしまったことではあるが、きっと自分があの場から逃げたことはクラスの皆にもすぐに分かる。自分がなにかしたのではないかと疑われるだろう。そうなったらもう戻れない。どこにも、自分が安心してすごせる場所など、なくなってしまう。

「音色!」

そうして俯いていた音色の耳に、突然聞き覚えのある声が飛び込んできた。
音色はびくりと肩を震わせた。声は確実にこの場へと近づいてくる。

「音色!」

音色が恐る恐る顔を上げると同時に、息を切らして階段を上がってきた日和と目が合った。
日和は音色の姿を認めると、途端にほっとした表情になって足を止めた。

「今の、使ったのか?」

大事な部分が抜けていたが、その言葉の意味はすぐに理解できた。静かに問うてくる日和に、音色は弁解の余地がなかった。
あまりの自分の不甲斐なさに、いっそこの世界から消えてしまえればどんなにいいことかと思った。
けれど音色がどんなに消えたいと願っても、音色の視界はブラックアウトするでもホワイトアウトするでもなく、ただ数秒前と変わらず同じ廊下の床の染みを捉えるだけだった。
音色はしゃくりあげながら、涙声になるのを覚悟して口を開いた。

「……ごめんなさい」

涙で歪む視界の端で、日和がこちらに向かって膝を折る姿が見える。

「誰も、音色のことは責めてないよ?」
「でも……私は……」

――気持ち悪っ!
再び、先刻のあの言葉が音色の脳裏に響いた。きっとこれは拭おうとしても拭えないだろう。どんなに強力な洗剤を使っても、永遠にこの染みは取れない。
この年季の入った床と同じだ。元から剥がし取って、替えてしまわない限りは。

「私……気持ち悪い?」

音色は無意識のうちに口を開いていた。
けれどその言葉を言ってしまってから、それは同じ神の力を持つ日和に対して、「自身は気持ち悪いか」と質問しているのと同種だと言うことに気がついた。

慰めようとしたのだろうか、今にも音色の身体のどこかに触れようとしていた日和の手が寸前でぴたりと止まった。
彼の顔は見えない、が、いったい自分のこの場当たり的な問いをどう思っただろうか。やはり軽蔑しただろうか。
だが音色がひとしきり後悔していくらか経った頃、音色の頭上で、日和が小さく苦笑を洩らすのが聞こえた。

「気持ち悪くなんかないよ。俺だって同じだよ、音色と」

呆れたに違いない。些細なことで、我儘だけで天候を左右させて、それなのに勝手に泣き崩れている自分を馬鹿だと思ったに違いない。
しかし、それにもかかわらず音色に向けられた日和の一言はひどく優しかった。その言葉のあとで躊躇いがちに肩に触れた日和の手の感触も、本当に自分を慰めているかのようだった。
音色は自身の仕出かしたことがどうしようもなく情けなくなった。

「ごめん……。迷惑かけて、ごめんなさい……」
「迷惑なんてかかってないよ」
「嘘。かけたもの」

日和はそれきりなにも言わなかった。けれど音色にとってはそれが逆にありがたかった。
下手な嘘をつかれるよりも、こうして受け入れてくれたほうが、今の何事にもネガティヴな姿勢を取ってしまう気分にはちょうどよかった。
それでも日和は、逡巡したあとで思い出したように言った。

「でも、これはやっぱり表に出すべきものじゃないんだ。だから、しばらくはこれは秘密にしておこう」
「……うん」
「大丈夫。この力を持ってるのは音色だけじゃない。一人じゃない」
「……うん」

それは換言すると、神の力は「本当は気持ち悪いものだ」と言うことだ。
しかしそれはほぼ真実だろう。もし自分がこの現象を第三者の視点から見ていたとしたら、恐らく同じことを考えていたと思う。一瞬で天候ががらりと変われば、あり得ない、天変地異だと、現実に疑いの目を向けただろう。それくらい、神の力は莫大すぎるのだ。
だからこそ自分たちはこの力を秘密にしなければならない。公にすれば、今度こそ居場所を失う羽目になる。

なにに感化されたのか、突然音色の瞳から涙がどっとあふれて、覆おうとした手の間を縫って流れては床に零れ落ちた。
理由は知っている。けれど音色はそれを言葉にはしたくなかった。
この綺麗な感情は綺麗なまま、そっと心の奥に閉じ込めておきたかった。

音色はあと少しだけ泣かせてほしいと思った。
もう数分でいい、数分だけでいいから、数分後には泣き止むから、だからそれまでは自由にさせてほしいと思った。それは今までの浅はかな考えの自分と決別するために。これからは神の力の意味を考えて、責任を持って行動できるように。
日和はなにも言わなかった。音色がなにも言わずとも、したいようにさせてくれた。

ふと、音色は、サーンの後世が彼で本当によかったと感じた。
他人の痛みを自分に置き換えて、さらに他人のことを考えて行動できる温かい人が日和と言う人間でよかったと、音色は心の底から思った。













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2011/12/01