第二章  -08









なにかがおかしい。
それはもちろん自分などではなく、他でもない日和のことである。

音色はなんでもない風を装って、肩越しにちらりとうしろを覗き見た。
今音色のクラスの三の五の生徒たちは、移動教室だった音楽の授業を終え、足早に自分の教室へと戻り始めている。しかしなぜ自分のすぐうしろにぴったりと日和がついてきているのかは、最近の疑問が代弁するところである。
音色はたいていの移動教室では雫と行動を共にするから、雫に纏わりつく光之に数珠繋ぎ的に日和も随行しているのかと当初は思っていたのだが、どうもそうではないらしいのだ。雫と光之の存在を抜きにしても、日和の取るポジションは、かなり、近い。

以前は、日和はこんなにも自分の半径数メートル以内に立つ人間ではなかった。
なにが言いたいのかと言うと、この頃の日和はかなり変なのだ。中でも学校にいる間の日和の行動は特筆するに値する。
今日のような移動教室のときもはたまたちょっとした休み時間のときさえも、なにか警戒染みた視線を感じて音色が振り向いてみれば、そこには必ずと言っていいほど日和の姿があるくらいだ。

最近なにか彼の注意を引くような馬鹿なことを仕出かしただろうか。
何日前からか、日和は朝流水家前まで迎えに来たりするようになった。これも不審行動に含めるとその前になにか粗相をしたと言うことになる。
そう思って一応あれやこれやと心当たりを考えてみたのだが、音色にはさっぱり見当がつかなかった。

「うわ、雨降ってきた!」
「えー今日傘持ってないのにー」

音色の前を歩いていた数人の生徒が急に素っ頓狂な声を上げる。日和本人に直接わけを聞いてみようか、どうしようか。と、熟考していた音色も、その声につられて窓の外に目をやった。
広い校庭と校舎とを隔てるように、突然のにわか雨が作り出した白いカーテンは轟音を立てながら規則正しく並ぶ廊下一面のガラス窓に降りかかる。
ほどなくして、うしろから歩いてきた他の生徒も気づいたように騒ぎ出した。

「雫は傘持ってきた?」
「ううん、持ってないわ。今日の天気予報では晴れって言ってたのにねえ……すぐ止むといいけど」

眉を顰める雫に、そうだねえ、と、適当に相槌を打ちながら、音色はこのときぽつりとあることを考えた。

(雨……)

目蓋を閉じれば、エターリアでのリーネの視点が瞬時に自分の視点にすり替わる。灰色の雲から大地に降り注ぐ雨粒、城壁に当たっては跳ね返る静かな音、地面から湧き立つ水の匂い。それをかつての自分は確かに身近に感じていた。
そう言えば前世ではリーネが雨のコントロールをするのを嫌がっていたっけ、自然現象に介入したくないからと言って。
それはその通りだと、音色も思う。しかし――。

(水、だよね……)

先日の、風呂場での出来事が蘇ってきた。
あのときはなにを考えていたらあんな水球ができあがっていたのだろう。もしかしたらあれは自分が水をコントロールしようと思った結果できあがった産物ではなかったか。
もしそうであったならば、今自分は同じ水からなるこの雨さえも意のままに操れるはずだった。

風呂場の水量とこの雨の水量を比べると、やはり雨のほうが大変そうな気はする。が、不思議と不安はない。
音色は周囲の時間がじわりじわりと停止していくような感覚に苛まれた。
このまま雨が降り続いて、下校時間にまで及べばきっと大勢が足止めを食って嘆くだろう。だから少しだけだ。ほんの少しだけ、少しだけこの雨が止めば、きっと皆喜ぶ。

「……やめばいいのに」

雨が上がる場面を想像しながら音色は、ぽつり、と、呟いた。
分厚い灰色の雲間から覗く太陽の光、葉先から零れる大きな雫、ぬかるんだ校庭、辺りに立ち込める土の匂い、そんな空気の中、水溜りの上を何人もの生徒が笑顔で駆けて行く。さっきのエターリアとはまるで違うイメージが脳内を支配する。
やめばいいのに。雨が。音色は再び、今度は心の中で、けれど強く強く念じるように呟いた。

廊下を歩いていた三の五全員の話し声がふっと掻き消える。
いつもは耳が痛いはずなのにどこか心地よくさえ感じる静寂の中で、音色はゆっくりと閉じていた目蓋を持ち上げた。

「……えっ」

目を開いた直後、真っ先に音色の五感に訴えてきたのは、隣を歩く雫の驚いたような一声だった。

「なんで……雨が……?」

三の五の生徒、そして休み時間と言うことで廊下に出ていた生徒が、今起こった珍事を確かめようと我先にと窓際に詰め寄る。
まるでスコールのごとく降り注いでいた天からの雨は、音色が目蓋を閉じたその短い間にその姿を消滅させていた。
地上には、まるで新世界の誕生とも描出できるであろう、眩いほどの陽光が差し込み、雨が上がったばかりの大地を照らし出している。

まさか、いやしかし、本当に自分の思い通りになったのだ。この力は本物なのだ。
窓辺に集中する生徒たちを見つめながら、彼らのうしろで音色はふうと長い息を吐いた。達成感にも似た興奮が音色の胸の内で踊っていた。

「ね、雫」
「……なにこれ」

よかったね。これで傘がなくても帰れるね。音色はそう言おうと思って雫のほうを振り返った。
しかし雫の顔を見て音色はすぐに理解した。これは、今は、とてもそんな言葉をかけられる状況ではないのだと。

「なにこれ! ねえ、見た? 見た?」
「見たよ! やばいって、これなにかの天変地異だって!」

遅れ馳せながら、音色はここにきてようやく周囲に上がっている歓声の意味を知った。
音色の耳に飛び込んでくるのはどれもがこの不思議な現象を訝しがる声ばかりだった。雨が上がったことに、誰一人として喜んでなどいなかった。

「うわ、気持ち悪っ!」

そんな中、どこからか聞こえてきた言葉に、音色は咄嗟に口元を両手で押さえた。押さえないと吐き戻してしまいそうだった。
先程まで昂っていた心の奥が、今度は悩ましげにぐるぐると渦巻いている感覚に襲われる。
「気持ち悪い」――それはいったいなにを指して言ったのか。この現象か、それともそれを引き起こした、私の、この私の。

「音色? どうかしたの?」

雫の顔が心配そうに覗き込んでくる。音色ははっとして居住まいを正した。

「ごめ、ちょっと……私……」

言いわけをしようとして、しかしそれは言葉にならなかった。咄嗟に繕った笑顔も不格好なまま顔に貼りついてしまったなと感じた。
けれど言葉にならないまま、音色はその場を離れた。音楽の教科書類を胸に抱えていたのに、音楽室とは正反対の場所へ向かうことしか考えられなかった。

誰かに自分のことを心配されるのも、この現象に関して疑いを持たれるのも、今後事態がどう転ぼうと音色にとってはもうどうでもよかった。
「気持ち悪い」――きっとそれは、私のことだ。私の力、私の考え、私の存在、それが誰かの口を借りてそう言わせたに違いない。
その結論に至ったとき、音色はふと、頬をなにかが濡らしていることに気がついた。

音色はいつの間にか、校舎の一番上の階の、屋上に通じる重い扉の前に立っていた。この扉の向こうで、音色は、出会ったばかりの日和に神の力を引き出されたのだった。
けれど今、扉は押しても引いてもびくともしなかった。それでも音色は、夢中で数回扉を揺すった。そのあとで音色は急にたまらくなって、ドアノブを掴んだままその場に膝から崩れ落ちた。













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2011/12/01