第二章  -07









騒がしい朝の、胸を膨らませるような暖かい匂いが辺りに充満している。
いつも微妙に手放し難いのだが時間は遠慮なく駆け足で過ぎ去ってしまう。
部屋の掛け時計は既に七時五十分を指している、そろそろ家を出ないとまた学校に遅刻することになるだろう。

手際よく揃えた教科書とノートを鞄に詰め込んで、音色は階段の上から下までを一気に駆け下りた。
居間では温子が食器の消えたテーブルを拭きながら顔を上げた。

「音色、時間はいいの?」
「もう行く!行ってきます!」

階段を駆け下りた勢いでそのままローファーを履く。
忘れ物は無いかと鞄の中身を思い出しながら玄関の扉を開けた、その先には青空が空一杯に広がっていた。
どうやら今日は快晴らしい。とすると、今日の体育は外での授業になりそうだ。

家の前の道を学生や会社員が歩幅それぞれに行き来している。
音色も玄関先の数段の階段を駆け下りて、その人々の群れに加わろうと身体の向きを学校方面へと向けた。
しかしすぐに目の前に立ちはだかった人壁に間一髪で立ち止まる。

(わ……っと、危ない危ない)

咄嗟に急に道に飛び出したことを謝ろうと思ったが、視線が自然とその相手の首から上に移動して言葉を失った。
初めは見慣れた制服だと思った。黒の学生服に胸の校章、だがその制服は間違いなく咲が丘中学校のものだった。

どさ、と手にしていた学生鞄が鈍い音を立てて地面に落ちた。
呆気に取られたあまり、一瞬空の青色が見事な真っ白へと変化して見えた。

「ひっ!?」
「お早う」

お早う、ではない。悠長な彼の言葉に絆されるところだった。
混乱した頭を落ち着かせようと、音色は一歩後退りしてから何度も何度も食い入るようにその姿を注視した。

だが間違える筈がない。間違いようがない。
今目の前に立っているのは正真正銘、本物の日和だ。

「なっななななんで……っ!?」
「ああ。家、ここだって聞いたから」
「そうじゃなくて!なんで緑木君が私の家まで来てるの!?」

確か彼の家は反対方向にある筈だ。その彼が何故この場にいるのだろう。
音色が強く問いかけると、返事に窮したのか日和は目線を明後日の方へと逸らせた。

「……いや、偶然」

嘘だ。だいたいさっき、家を聞いて来たと言ったではないか。
日和は余程焦っているのか、視線が泳いでいる。

音色は鞄を拾い上げて埃を払いながら小首を傾げた。
彼が国内トップに入る名家の御曹司だとは、出会いこそは多少驚きもしたが、今の表情からはとてもそうだとは思えない。

「音色、家の前で何してるの?」

突然現れた声に振り返ると、ちょうど温子が玄関の扉を開けて表に出てくるところだった。

「い、行ってきます!」

温子にこの状況を見られでもしたら、後で日和との関係を散々追求されることになってしまうだろう。
音色は日和の腕を強引に掴んだそのまま学校方面へ駆け出した。

住宅街の角を曲がり、家の姿も温子の姿も見受けられなくなったところでようやくほっと一息つく。
来られてしまったものは仕方ない。別に日和がいることで大して迷惑ではないのだし、このまま学校に行っても何ら支障は無いのだ。
ポジティブシンキング万歳。一人合点した音色は足早に先に進もうとしたが、その腕を後ろからぐいと強い力で引かれて面食らった。

「何か変わったこと無いか?」
「え?」

振り返れば、神妙な顔付きで日和がこちらを見ている。
まずは何よりも彼に腕を放して欲しかったが、きっと今の問いに答えなければ放してくれなさそうな雰囲気が嫌と言うほど漂っている。

変わったことと訊かれて、咄嗟にこの前に見た黒髪の少年が出てきた夢が浮かんだ。
その夢の内容を話そうかとも思ったが、他人に話すほど重要なことでもない。場所は日和と最初に出会ったあの異空間に似ていたが、きっと夢の断片が再度現れただけに過ぎないのだろう。

「……別に、これと言っては無いけど」
「そうか」

それきり日和は黙って、腕もすんなりと放してくれた。音色はそんな彼の横顔を見上げる。

(どうしたんだろう……)

どこかが変、だろうか。
何となくだが、はっきりとした確信はまったく無いのだが、そんな気がした。

冷静沈着な面持ちはいつも通りなのだが、身に纏っている雰囲気がピリピリしている。例えるならそう、テスト前日。
だが次の定期テストまでまだ一ヶ月以上も日はある。今はまだ五月下旬の過ごしやすい季節だ。何をそれほどまでに気にしているのだろう。

どちらからともなく歩き出してから色々と考えを巡らせてみたが、結局日和に訊かない限り分からずじまいだった。
あまり深く考え込むことには慣れない。彼がわざわざ家の前まで迎えに来た理由も不明だが、音色もただ歩くことに専念しようと決めた。

「……そう言えば、音色」

二人とも黙ったまま歩き始めてしばらくの後、日和がふと口を開いた。

「戻した?」

日和から見ても、この時の音色の頭上には大きいハテナマークが浮かんでいるように見えたに違いない。
だが日和の質問こそ、この流れから推測さえできない突拍子も無いものだった。
思考回路を最大限に稼動させて心当たりがある「戻した」ことを思い出そうとしたが、なにも浮かばない。

「え?えーっ、と?なにを?」
「呼び方」
「……あ、うん」

ようやく日和の言いたいことが飲み込めた。
戻すも何も、日和と幼馴染だと言うあれは、咄嗟に付いてしまった嘘に違いない。

しかしもしかしたら、今の言葉からするに呼び方を戻しては何か不都合なことでもあったのだろうか。
それこそ心当たりがまったく無いのだが。
眉間に皺を寄せてどうすればいいのか考えていた音色の難しい顔に気付いたのか、日和はぷっと吹き出して苦笑した。

「俺は構わないよ。下の方でも」
「え、あ、ありがと……」

礼を述べるのも変だと思ったが、いい返答が思い付かなかったのでとりあえず言っておいた。言わないよりはマシだ。

「ね、そう言えば、どうして初めて会った時、学校の屋上の鍵開けられたの?」

気恥ずかしさを紛らわせるために、音色はすぐに思い付いた質問を脳を通さないでそのまま口にした。
前々から聞きたいと思ってはいたのだが、色々な出来事が立て続けにあって何となくタイミングを計り損ねてそのまま胸の奥にしまっていたのだ。

日和は一瞬驚いたように目を見開いて、それから人差し指を口元に持ってきて小さく囁いた。
どきり、と何故かは分からないが心臓が大きく拍動する。

「地の力で」

こっそりと上に翳した日和の手のひらから、ぱきり、と軽く乾いた音がして一本の小枝が姿を見せる。
それは見る見る内に形を変形させていくと小さな鍵穴の形になった。

「すご……」
「前世がサーンだから、ってこともあるけど。まあ地と光のに属するものはほとんど操れる」

日和の言葉で、音色の前世であるリーネと日和の前世であるサーンは婚約者だったことを思い出す。
初めてリーネを呼び出した時に見た前世の記憶が、懐かしい匂いを運んで再びちらちらと現れる。

過去のすべてが今に繋がっている。不思議なものだ、まるで二回目の人生を生きているようなそんな感覚。
あの二人の生まれ変わりなのだと改めて自覚した途端、また気恥ずかしいような照れてしまうような、そんな感情が胸の奥で深くうごめいた。













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06/04/20