第二章  -06









白く細い指がすっと、たまたま近くを通りかかったウエイターが載せていた銀のトレイの上のグラスを取る。
泉が礼代わりににっこりと笑むと若いウエイターは驚いたように照れて顔を赤くした。

彼女は無意識の内にそうやって異性を誘惑しているのだろうか。だとしたら余計に怖い、と二人のやり取りを少し離れた、人気の無い低緑の傍らのベンチに腰掛けながら日和は内心苦笑した。
更に泉はウエイターと二言三言少ない言葉を交わしてから別れた。

「お待たせしてごめんなさい」
「それ、ワインですか?」
「まさか」

ぷっと吹き出して笑う泉の顔は、さっきの表面上だけの笑顔とは違うと直感した。
日和の考えを知っているのか知らないのか、濃いラベンダー色のドレスの裾を丁寧に持ち上げて、泉は日和の隣へ腰掛ける。

―――流石にわたくしのことは覚えていらっしゃらないでしょう?

先程の泉の言葉が頭の片隅を通り過ぎる。あの言葉の真意が分からなかったほど愚かではない。
泉は先客である二人の少女に嫉妬した訳でも、ましてや自分の記憶力を侮った訳でもない。

「確かにお会いするのは久し振りですね」
「ええ。たまには息抜きも、と……」

一瞬、話しながら泉の表情に翳りが差した。
瞳を伏せてどこかを漠然と見詰める彼女の瞳の奥は、焦点も定めずゆらゆらと不規則に揺れている。

何となくだが、薄らとだけ理由が飲み込めた。
今思い出したのだが、確か泉は宵宮家の後継者になるべく、連日教養を磨くために勉学や習い事のため並の人間以上に多忙らしい。

確か数年前までは幾つか歳の離れた彼女の兄が跡継ぎとして有望視されていたが、彼は既にこの世の人ではない。
泉の兄は何年か前に海外の留学先で不慮の事故により帰らぬ人となった、故人だ。
泉はいったいどれほどの努力を今に注ぎ込んでいるのだろう。今夜の彼女の表情からは過酷な日々を窺うことは出来なさそうだ。

「そう言えば、転校なさったんですって?」

突然夜の闇の中に響いた高い声に我を取り戻した。
ちらと隣を横目で見ると、泉がこちらを見据えてふわりと天使のように笑んでいた。

「明英学園になさればよかったのに。貴方なら歓迎されますわ」
「いや、諸事情で受け入れ先を変えなくてはならなくなってしまって……」
「それでも今の学校、あそこは公立校でしょう?きっと後々無理が生じないかしら。その時はいつでもいらして下さい」

泉は日和の顔を真っ直ぐ見詰めて言った。日和も泉の顔を真っ直ぐ見詰めた。
一瞬の沈黙が二人の間に割って入った。瞳と瞳が何かを探り合うかのように出会う。

泉の手にしているグラスの中の液体が、空を実物よりも濃く深く映し出している。
何か、何かが来る、と思った。日和の勘の正しさを示すように、すっと、泉の瞳が細くなった。

「こちらと手を組みません?」

ゆっくりと紡がれた言葉に、彼女は何が言いたいのかと初めは意味を測り兼ねた。
日和は今のところ栄之助の仕事関連には首を突っ込んだことが無い。それは勿論、泉も知っている筈だ。

尚も日和が黙っていると泉はふいと視線を逸らし、ふうと浅い溜め息を付いて賑やかなパーティ会場に視線を移した。
この辺りは広大な庭の隅の比較的人気が感じられない場所のためなのか、会場に流れていた音楽も今は遠くに聞こえる。

「驚きましたのよ。まさか貴方という方が、『例の力』を持ってらっしゃるなんて」

どくんと、見えない場所で心臓が大きく跳ねた。しばらくしてから背中にじわりと嫌な汗を感じる。
どこからこの話が漏れたのか、最初は焦った。

何故泉がそのことを知っているのだろう。
前世や神の力のことは両親にさえ話していない。今のところ音色以外の誰にも話してはいない。
これらの事実に気付く可能性があるのは、自分と音色以外に力を持つであろう他の力を持つ者二人だ。そう結論付けた時、思考が止まった。

(まさか、彼女が……?)

日和は泉の横顔を睨み付けるようにして盗み見た。
まさか、いや、在り得ない話ではない。

仮に泉が神の力を持つとなると、音色はリーネの魂を継いだのだから当然泉はサラの魂を継承したことになる。
サラは前世でサーンにとって敵側人物だ。万が一の危険を回避するためにも泉と多少の距離を取りたかったが、不自然に動けばこちらが不利な状況になることもある。
ここは努めて冷静を装うのが良策だろう。日和はそれとなくブレスレットがかかる右手に力を込めた。

「手を組む……とは?」
「貴方も過去をご覧になったのでしょう?わたくしも『彼』も、あのような過去を悔いているのです」

間違いない。彼女は、泉もまた、神の力を持っているのだ。同時に話が例の方向へ転んでいることに気付く。
飲み込まれるな、頭の中で誰かの警告にも似た声が響く。

「簡単です。わたくしたちは同じ力を持つ者同士、協力することが出来ます。ただ貴方にはこちらの意向に従って頂きたく思いますの。あのような悲惨な事態は二度と起こしたくありません」
「協力するのに大人しく従うんですか?矛盾してますね」

盲点を突いた、と思った。だが泉はそれにすら臆さずに尚、語調を強めながら言葉を続けた。

「ええ、矛盾するでしょう。ですがメリットの方が大きいと考えられませんか?わたくしたちの力は莫大です、どうして利用しないことがありましょう」

力を使って大成する未来などとてもではないが描けそうに無かった。
そこに神の力と言う人智を超えた存在がある限り、良いことにはならない気がした。過去の栄華はもはや塵と化しているのだから。

恐らく泉は神の力を用いてなにかを成そうとしているのだろう。
気付いた時には既に、日和は首を横に振っていた。

「……残念ながら、貴女の期待には応えられそうにありません」
「守護霊に唆されてはなりません」

凛とした、最初と幾らも変わらない強い口調に驚く。
そこまでして、いったい彼女と「彼」は何を成し遂げたいと言うのだろう。

「貴方の守護霊から何を吹き込まれたかは存じませんが、力を、このままでは宝の持ち腐れも同然ですわ。答えを急ぐ訳ではありません。もう一度、考え直してください」

セルガの封印が解かれた。悠久の時を超えた守護霊は、再びこの世界に降り立った。
これらの点から導かれる答えは一つ、達成することの出来なかった過去を再び実現させること。

胸に嫌悪感が膨れ上がってどうしようもなく息苦しくなった。
今の考えは自分の中で勝手に推測して出した一つの答えだ。だがもしも、その通りであったならば。
過去と同じ道を辿ることになる現在、その先には言わずもがな前世と同じ結果が両手を広げて待っている。

幾ら問われても出す答えは決まりきっている。
ここで自分が折れたら、彼らを止めるものは文字通り何も無くなってしまうだろう。

「いえ。何も吹き込まれてはいません。僕の意思ですよ」
「あら、まあ……」

はっきりと、それでもやや懐柔するような口調で答える。
すると泉はわざと驚いたように口元に手を当てて、それからふっと悲しそうに笑んだ。

「本当に惜しいこと、ですが仕方ありません。くれぐれもお気を付け下さい。力を持つ者は世界の中で異端なのです」

まだ中身が残るグラスを手に立ち上がろうとした泉の姿勢が、途中でぴたりと止まる。

「ああ、そう言えば」

泉は方向を変えてゆっくりと日和の身体の上に身を乗り出した。
すっと、グラスを持つ方とは反対の彼女の人差し指が、第一ボタンを外した白いワイシャツから覗く首筋に触れた。

「これはほんの風の噂に過ぎませんが、貴方の傍にもう一人、力を持つ方がいらっしゃるとかいらっしゃらないとか……」

細く白い指はそのままワイシャツ越しに首から胸をゆっくりとなぞる。
強い冷気が身体の心まで届いて全身が粟立った。日和は覆い被さる泉の身体を退けようとしたが、全身が硬直したように動かなかった。

鳩尾まで辿り着いた指は不意に停止して、鋭く強い力が加えられたのはそのすぐ後だった。
痛みに顔を顰めることさえ出来ない。
この時の日和に出来たのはただ、真正面にある泉の黒い瞳を驚きと共に見返すことそれだけだった。

「な……」
「では御機嫌よう。失礼しますわ」

ここで別れてはいけない。泉を引き止めなくては、話はまだ終わっていないのだ。
サラの生まれ変わりである泉。幻ではない彼女の姿が今、ここにある。

しかし泉に触れられた時から、どうしてか腕があまりに重くて持ち上がらなかった。
優雅な仕草で去り行く泉の後ろ姿が、ぐるぐると透明なマーブル模様を描く視界の向こうで揺れている。
吐き気がする。どうしてだろう、気持ち悪い。

『……日和』

頭に直接語りかけてくる低い声。
日和が顔を上げると、呼び出してもいないのにまた勝手に現れたサーンが隣の、ベンチの上に立っていた。

サーンは現れたその時から泉の去った方角をじっと見詰めていたが、しばらくしてから思い出したように日和の顔色を窺うと、考えの読み取れない真剣な顔のまま素っ気無く視線をまた元見ていた方へ戻した。

『平気、そうじゃないな』
「その通りだよ」

額に手を当ててみたが時間に比例して増す嫌気は治まらなかったので、日和は思い切ってベンチの背凭れに全身の重心を預けた。
気持ち悪い。頭痛に悪寒、それとやはり吐き気もする。

『無理矢理別の力を流し込まれたな。間違ってもお前の力で相殺しようなんて考えるなよ』
「……何故だ」
『力の属性がもともと違うんだから仕方ない。お前の力で打ち消そうとしたところで力と力は反発して器に影響を及ぼす、つまりはお前の身体が壊れる。悪ければ昏睡状態まで落ち込むだろうな』

畜生、と思い通りにならない結果に怒りをぶつける。
昏睡状態に陥ったことのある人が聞けば怒りを買うことになるだろうが、この際、昏睡状態まで落ち込んだ方が楽だとさえ思った。
それくらい苦しかった。何もかも、この縺れそうな現状も、これからやってくるであろう近い将来のことさえも。

駄目だ、士気を失ってこそ相手の思惑通りになってしまう。
日和は一回大きく深呼吸した。けれどこの薄い都会の空気の中から今必要な量の酸素を取り込めたとは到底思えなかった。

(いた、けど彼女は……)

去り際に垣間見た泉の勝ち誇ったような顔が忘れられない。
どうやら既に彼女はセルガの思惑のままに、そして泉は自らの意思で「彼」の元へ付くことに決めたのだ。

これでは元の木阿弥だ。再度新たな機会に恵まれたというのに、このままでは。
それに恐らく、泉たちは音色の存在を見出したに違いない。
いつどうしてどうやって気付いたのかは知らないが、このままことが進むと、一番危険の淵に立つのは音色になる。

音色に彼女達の存在と考えを伝えた方がいいのだろうか。
今はまだ分からない。ただ、彼女を危険な目にだけは遭わせたくないと言う気持ちが何よりも強かった。

苦しみの中で閉じた目蓋の裏に過去の、前世の記憶が蘇る。
シュラート国軍が夜襲をかけてきたあの時、サーンはリーネを守り切れなかった。守れずに歴史はリーネの手により強制終了した。

音色はその記憶を思い出しただけでも、身体の震えが止まらないほど衝撃を受けていた。
これ以上負担をかければ彼女の留め金は呆気無く外れてしまう。精神が崩壊したら最後、何もかもが戻らなくなってしまう。音色もまたリーネと同じ道を辿らざるを得ないことになってしまう。

神の力を持つ者はこれで三人目、宵宮家の子女、宵宮泉。残り一人はまだ不明だ、「表向き」には。
音色にはまだ話していない。最後の一人の神の力を持つ者を自分は知っているということを。













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06/04/20