廊下から差し込む微弱な光が、電気のスイッチも入れない広い部屋の辛うじて明かり代わりとなっている。 時計の時を刻む音が、どこからか静かに細かく聞こえる。 日和はちらと前に視線を戻した。そこには鏡に映ったもう一人の自分が立っている。暗闇の中に浮かび上がるいつもとは違った礼服に身を包んだ自分、白のワイシャツに黒のパンツ。面倒だがネクタイも軽く締めておかないといけない。 左右反対に映し出された自分の姿を眺めて、まるで顔も素性も知らない「誰か」に造られたアンドロイドみたいだと思った。 無意識の内に険しくなった自分の顔の横、同じ一枚の大きな鏡越しに気付けば老齢の男性の姿が映っている。 「栄之助さんは今夜もお仕事で、こちらにはお戻りになられないそうです」 「……分かりました」 緑木栄之助、緑木家がより一層栄えるようにと彼の父が付けた名前を持つ日和の父。 その名の示す通り、彼は家を譲り受けた二十代から多くの事業を立ち上げてきた。何代にも渡り受け継がれてきた金融業に加え、今は旅行者向けのリゾート開発等のサービス業にも進出している。 だがそんな偉業を成し遂げた彼は決して厳しい人間ではなかった。後継者である一人息子に期待を掛けることはまったくと言ってもいいほどせず、どちらかと言うと自由に伸び伸び育てた。恵まれた、と思う。 栄之助の父、日和の祖父は反対に厳しかった。物心付く前に既に隣に立っていた何人もの家庭教師は、祖父自らが選んだほどだ。 白のワイシャツのボタンを手際よく留めながら、ふとそんな昔の出来事が走馬灯の如く蘇る。 本来なら厳しく育てられていた筈だ、辛くなかった訳ではない。偉大な父に応えられないままでいいのかと、いつも自分が背負う家名の重圧に押し潰されそうだった。 「そう言えば母さんは?」 許す限り永遠に後を追いかけてくるであろう頭の中にかかる霧を振り払い、日和は辺りを見回した。 いつもなら、パーティに呼ばれたとあっては彼女が甲斐甲斐しく世話を焼いてくる。だが今日は家中が水を打ったように静かだ。 日和の視線に気付いた老人は、一瞬口篭った後でゆっくりと話し出した。 「東京の病院に家政婦の佐々木といらっしゃっております。予定では今夜の九時にはお戻りになられるかと」 「……病院?」 こんな夜に、しかも何故わざわざ東京の病院まで足を運んだのだろう。 確かに前まで東京の本邸に住んでいた頃は主治医は東京の大きな病院だった。だがそこまで何か大病を患っていただろうか。 今住んでいるのは別邸だ。東京からは少し距離があるが、遠くはない。 栄之助も仕事が落ち着くまでは本邸、それか都内の本社で生き生きと指揮を執っていることだろう。 「表に車が待機しております。日和さん、お帰りは?」 「日付が変わるまでには帰ります」 近くに掛けてあった紺の上着を手にすると後ろ手で部屋の扉を閉める。 静かに頭を下げて見送る老人と玄関で別れて、本邸から出された月夜にひっそりと輝く黒の車に乗り込む。 車の中にまで今夜の月明かりが差し込んできて、思わず夜の底に佇んでいるのであろう月の姿を探していた。 この街に引っ越す前と違った行動を取る自分に内心苦笑しながら、喧騒とはかけ離れた街だとつくづく身に染みる。同時にこれから盛大に催されるであろうパーティの風景の骨格が、以前の経験の中から脳で勝手に創り上げられる。 小さい頃はどうしても慣れることができなかった。人々の裏の顔が隠された、あの虚偽の宴に。 第二章 -05 まさに豪華絢爛と言う言葉が似合う邸宅の広い敷地内に多くの人々が集って更に熱気を高め合っている。 オーケストラ団でも呼んだのであろうか、会場のどこからか優雅な音楽が絶え間なく流れてくる。 日和は簡単に受付を済ませて、黒の背広を着込んだ何人もの若い案内係に会釈して会場の中へと足を踏み入れた。 邸宅の一階部分と庭とを合わせて設けられた今宵の場から、この家の持ち主の財力を窺うことが出来る。 緑木家の本邸ほどではないが、それでも感嘆してしまうような広さを有している。 軽く見回してみただけでもこのパーティの招待客も名家の当主や跡取りばかりだ。数え上げればキリがない。 地上には改まった恰好の人々、頭上には都会の光を受けて少しくすんだ色の夜空が広がっている。 ただでさえ賑やかな雰囲気の中で、ちらと少し離れた場所に立つ男性と視線が出会ったような気がした。 白髪混じりの体格のいいその男性は日和に気付くと嬉しそうに振り返る。 一見温和な普通の男性だが、彼がこのパーティの主催者でもありこの世界では有名な人物でもある。 「今晩は、日和君。おや、お父様は?」 「今夜は僕だけでお邪魔させて頂いています。父は今晩も仕事で、申し訳無いと言っていました」 「そうか、それは残念だな。また親子一緒に会える日を楽しみにしているよ。お父様にも宜しくと伝えておいてくれないか」 にこやかに話す彼、藤野は栄之助の古い友人であり、金融業において緑木家と同じくトップに名を連ねる家の当主でもある。 彼は今度事業を拡大すると聞く。この宴は表向きは藤野の五十回目の生誕祝いで間違いないだろうが、真の目的は、いわゆる新境地開拓祝いと各界の名家と親睦を深める交流目的と言ったところだろう。 彼の友人だろう、どこからともなく声がかかって、藤野はそちらに手を大きく振って応えた。 主催者は多忙になる。だが彼の顔は昔と変わらず至って楽しそうだ。 「楽しんでくれれば嬉しいよ」 「はい」 日和が藤野と別れると、入れ替わり立ち代り様々な人々が挨拶をと手を差し出してきた。 彼らと軽い握手と他愛もないことを話しながら、同時に日和の脳裏には一人一人の記憶の中にある顔と名前が浮かんでくる。 こればかりは祖父に感謝せざるを得ないだろう。 名のある家の人間と言う人間の顔と名前は、幼少期のまだ知識が十分に吸収できる時期に彼に一気に叩き込まれた。 栄之助は乗り気ではなかったとは言え、それらはこの世界で生き抜いていくために必要なことだと分かっていたはずだ。 ふと、祖父のすっかり白くなってしまった姿が浮かんだ。 今は確か北海道の別宅で静かに暮らしている。家を栄之助に譲ってからは、以前のような威厳はあまり感じられなくなった。 「日和君、お久し振りです」 「まさかこの会場でお会いできるなんて、嬉しいわ」 ようやく人の波が途切れたと思った頃、二人の、大人びた輝かしいドレスをまとった少女が恭しく近付いてきた。 どちらも国内で名のある家の息女だ。やはり藤野家当主の祝い事には多くの名家が呼ばれたらしい。 彼女たちは恥らいつつも互いに目配せしてはちらちらとこちらの様子を窺っている。 緊張しているのだろうか、珍しいことだ。 日和がふっと場を和ませるために笑んで見せると、二人の少女は同時にぽっと顔を赤らめた。 「今度、京都まで遊びにいらして下さい。どの季節でも素晴らしい眺めで」 「私の家にも是非、もちろんご家族全員で。父もきっと喜びます」 「有難う。いつか是非」 大人と話すよりも、こうして歳が同じ頃の人間と言葉を交わす方がまだ気楽だった。 この時だけは自分だけがこの重荷を背負っているのではないと思える。 気休めだろうが、あと何年も経たない内に父の仕事の一部に関わらなくてはならない時が否が応でもやってくる。 それまではまだこの何の気負いもない心地良い空気の中にいたい。そう願ってしまうのは我儘なことだと分かってはいるが、願わずにはいられない。 「……緑木日和」 突然聞き慣れない声が響いて、日和と二人の少女は会話の口を止めた。 日和は目線を上げた。彼女たちの後ろ、少し離れた場所に、また一人の少女がいる。 「今晩は」 だが気のせいだろうか、今、彼女にいくらか低いトーンで話しかけられたような妙な気がしていた。 きっと思い違いだろう。日和が彼女の方へ声をかけた途端に見せられた彼女の美しい笑みは、怖いくらい澄んでいた。 すると今まで話していた二人の少女が、彼女の姿を認めた途端にそそくさと違う場所へ去って行った。 ある意味飲み込みが早いと言うべきだろうか。彼女の家は富豪の中でも「格」が違う。 「ええ今晩は。ああでも、流石にわたくしのことは覚えていらっしゃらないでしょう?」 足早に去った二人の少女を気に留めることもなくどこか試すように話す彼女の声色に、日和は微笑して軽く首を横に振った。 「いえ、宵宮家のご令嬢、宵宮泉さん」 日和がさらりと答えると、途端に泉は流れるように美しい、この夜空よりも艶やかな黒髪を綺麗に後ろで結い上げながら妖艶に笑んだ。 それはシックなドレスも身に付けている宝飾も、ただ彼女を引き立てているに留まるかのごとき笑みだった。 誰が言い出したのかは知らないが、宵宮家は緑木家と同様に国内五大富豪に数えられる名家でもある。 その名を言えば大部分の人間は口を揃えて「知っている」と答えるだろう。彼女の家名から取った「YOIMIYA」というブランドはその業界で歴代一と言われる輝かしい業績を誇り、今や世界に名を馳せるまでに有名だ。藤野家が親交を結びたく考えているのも当然だろう。 滅多に人前に姿を見せることのない宵宮家の人間がこのパーティに出席していることからして、宵宮家と藤野家は互いに友好関係を築きたいと思っているに違いない。 オーケストラ団の演奏していた曲が、不意に激しい曲調のものから静かな調子のものへと変わった。 泉はふっとそちらの方を見やってどこか寂しげな表情を見せて、それから何事もなかったかのように徐に笑んだ。 「どこかでお話できないかしら?久し振りのこの宴を、わたくしも少し楽しんでみたいんですの」 BACK/TOP/NEXT 06/04/20 |