第二章  -04









思い余って、この一杯に湛えられた水の中に頭から突っ伏してみようかと思った。
ゆらゆらと漂う透明な、浴槽に張られた湯は変わらぬ姿でそこに在り続けている。

肩までゆっくりと湯船の中に浸かりながら、音色は思わずいつもは気にかけないそれらを凝視した。
もしかしたら寝惚けているのかもしれない。リーネと幾つか言葉を交わした後眠りに落ちて、さっき目覚めたためまだ意識が定かではない。
だがやはり起きてすぐに行動するものではない。頭がぼうっとしている。

「水……」

音色は水の滴る手のひらを顔の前に持ち上げて、何度も表と裏を返しては眺めた。
神が元々持っていた水の力を今は自分が持つと言う、だがいまいち実感が無い。

胸元には外そうとしても外れることの無いネックレスが今も光っている。
ウィリネグロスからこのネックレスを手渡された日以来、決して外れることが無いネックレスのチェーンにはあるべき筈の途切れ目が無い。
聞けば天性とこの装飾品が神の力の源らしいので、入浴に際して銀色のチェーンが錆びてしまわないかが一応心配ではある。だが数ヶ月が過ぎた今となっては、そんな疑問を抱くことも無くなり慣れてしまった。

リーネはこの力を使うことが出来たのだろうか。と音色は宙を見詰めながら考える。
もし前世から引き継がれて自分も力を使えるのなら、今だってこの浴槽一杯に湛えられた水を何とか操れる筈ではないだろうか。
例えば、そうだ、どうやって水を操ってみよう。

(この水を手を使わないで持ち上げてみる、とか)

大体そんなことを考えて、やめた。
一人で超能力者のように水を持ち上げようと奮闘する場面を頭に思い描いて、けれどそれがあまりに空しかったので、音色ははあと溜め息を付いて首までもを湯の中へ沈めた。

別に力さえ使わなければ今までの普通の毎日が訪れる、それだけだ。
神が示唆した本を見つければ身体のどこかに眠る力も消えるだろう。そしてリーネとサーンも消える。普遍の日々の幕開けだ。
勢いそこまで考えて、自分でも何故か分からないが少し悲しくなった。

『然らば、成しましょう』

低い優雅な、男の人の声。
どこからともなく現れた声に、頭の隅に辛うじて残っていた僅かな眠気さえ消え失せた。

音色は驚いて飛び上がり、ぐるりと湯気の立ち上る周囲を見回した。しかし前後左右を見回しても何も無い。
手近にあったシャンプーとコンディショナーのボトルを持ち上げてみても異常なし。
窓の外は石垣だ。その向こうにはまた民家が建っている。人間がそんな場所にいる訳が無い。

音色は中腰になった姿勢をぴたりと止めて恐る恐る窓の外を窺った。
外は夜も深まり薄暗い上に、窓一面が水蒸気で曇っているためよく分からない。

しんと静まり返った浴室に、誰かの会話や効果音が途切れ途切れに飛び込んでくる。
どうやらリビングのテレビの音がここまで届いてくる、その音が耳に入ったらしい。
恐らくさっきの男の声もテレビの音だったに違いない。そう結論付いた時、身体からようやく緊張が解けて行った。

(駄目だ、神経質になってる……)

音色は軽く手のひらで額を叩くと、再度湯船の中に身を沈めた。
あれはテレビの音だ文明の利器だ。幻聴でもない。不審者でもない。

「ひい!?」

冷静を取り戻した矢先、異常事態は目と鼻の先で起こっていたのだとようやく知った。
さっきとは打って変わって、ふわふわと丸い透明な何かが今も目の前で宙を浮遊しているのだ。

宇宙人の襲来か。脳が驚いた拍子にそんな突拍子も無いことを導き出してくれた。
いつの間に現れたのだろう、さっきまではこんな物体皆無だったと言うのに。
漂うだけで何の危害も加えようとはしない水の玉を、音色は繁々と眺めた。手をその玉の上下に潜らせてみたのだが、どこから吊っている訳でもないらしい。

「音色?」

遠くから聞こえてきた声に、音色の肩はびくりと反応した。
近付いてくる足音。間違いない、温子がさっきの悲鳴を聞きつけてしまったらしい。咄嗟にしろあんな悲鳴だ、驚くのも無理は無い。

音色は慌てて目の前の水の玉を引っ掴んで浴槽の中へと押し込むようにして一気に沈めた。
玉は再び浮かび上がってくることは無く、湯船の中の湯と同化して消えていく。
この時の姿勢を誰か見ていようものなら、とてもではないが数日は恥ずかしくて表を歩くことさえ出来ない。

「音色?どうかしたの?」
「なっなんでもない!えっと、シャワーの温度調節間違っただけ!」

浴室と脱衣所を隔てる一枚の扉越しに温子の訝しがる声が聞こえて、音色は慌てて適当な理由を取り繕った。

「あまり近所迷惑になるような悲鳴はやめなさいよ」
「う、うん。そうする」

いったい今の現象は何だったのだろう。
温子の足音が遠ざかって、やっと入浴に専念できる状態まで戻ったはいいものの、先程の宙に浮かぶ水の玉が脳裏に蘇る。

掴むことができた。害を及ぼす訳ではなかった。あれは確かに「水」だった。
けれど水は浮遊したりしない。ましてや球体のままその形を維持出来る筈が無い。
どうしてこんな事態になったのだろうかと、音色は湯を両手に掬い上げて指の間から流れ落ちるそれを見詰めながら漠然と考えた。

「水を手を使わないで持ち上げてみる」

確かにそんなことを考えてはみた。だが現実には在り得ないことだ。
普通なら。水を操る力を持たないなら、そんなこと出来やしないし実行しようとも思わない。
しかし水を操る力を偶然持ってしまった自分なら―――。瞬間、音色は背筋に何か冷たいものが駆け上がる不気味な感覚を覚えて怖くなった。

リーネの言葉が蘇って、ふと日和の顔が水面に映ってすぐに掻き消えた気がした。
彼も神の力を持っている。日和はその力にどう対処しているのだろう、明日訊いてみようか。

(今頃、何してるんだろう……)

テレビの華やかな音が今も小さく小刻みに聞こえてくる。窓の外では風が民家の間をすり抜けていく音がする。
だがきっと日和の生活など、どんなに考えても想像できないに決まっている。

いつ決心したのだろう、我に返った時、既に辺りは水温四十度前後の世界へと変化していた。
不思議と息苦しさは感じなかった。ただ暖かかった。













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06/04/20