第二章 -03 空と地の際が次第に茜色に染まっていく。 窓越しにその穏やかな色が目の奥へとじんわり染み込んでいく気がして、ぎゅっと少しだけ目を細めた。 音漏れの無いようにしっかりと部屋の扉を閉めたことを確認して、音色はたった今帰宅したばかりの学生鞄をベッドの上に放り投げる。 ぼすり、と鞄は枕の傍の布団に沈んだ、その後に続いて音色自身もまたベッドの上に飛び込むようにして倒れ込んだ。 疲れた、と言う訳ではないのだが身体が重い。少し寄り道するのでさえ遠慮してしまう。 最近やたらと訳の分からない騒動に巻き込まれ続けているからなのだろうか。 突然現れた守護霊に前世の記憶。そして前世で最も関係があった、サーンの生まれ変わりである日和。 (どうやって、呼び出すんだっけ……?) 思えばリーネを初めて会った時以来まだ呼び出していない。 彼女はいつでも呼び出していいと言ってはいたものの、意味もなく呼び出したりしたらやはり怒るだろうか。サーンの別れ際の言葉が蘇る。 「……リーネ?」 試しにこっそりと小声で彼女の名を呼んでみる。 だがまさか、こんな簡単に現れる筈は無いだろう。日和が言っていた、あの複雑な呪文を持ってして始めてリーネと対面できたのだから。 それまで真珠のネックレスはただ身に付けているだけの装飾品に過ぎず、日常生活においてこれと言って変化も何も見受けられなかった。 しかし途端に、ぱちんと弾けるような軽やかな音が耳元に響いた。 聞き慣れない音に音色は枕に埋めていた顔を慌てて持ち上げる。 音色が突っ伏すベッドの横には、いつの間に現れたのか微笑麗しいリーネが静かに立って笑んでいた。 『また、お会いできましたね』 どうやら言葉一つで本当に呼び出せてしまうらしい。 「お、怒って、ない?」 『ええ、怒る筈がありません。どちらかと言うと、またこの世界を見ることが出来て嬉しいのですよ』 大きく開いた純白のドレスから覗く、白い肩の上から流れ落ちる長い銀髪。澄んだ淡い青の瞳。 普段あまり見かけることの無い珍しい容姿と類稀なる美貌。あのサーンがリーネにお熱なのにも頷ける。 『彼とは、どうですか?』 急に紡がれたリーネの言葉に、音色は困惑を覚えると共に思わず数回瞬きをした。 「彼って?」 『勿論、日和のことです』 音色は一瞬返答に躊躇ってから、もう一度手元の枕に顔を無理矢理押し付けた。 「あ……うん。ちょっと驚いた」 質問と返答の趣旨が噛みあっていないと自覚するが、この場合何と答えていいのか非常に迷ったのであえて深く考えないでおいた。 微妙な心境に加えて、今はあまり日和のことを考えたくはなかった。 日和が国内トップを突っ走る名家の子息だったから?それとも彼と前世に関係があると分かったから? だがどれも違う気がした。もっと心の奥の深い場所で、噛み合って初めて正常に働く筈の幾つかの歯車がずれているような。 前世現世という人間の作った括りは卑怯だ。どうして日和はその関係を受け入れることが出来るのだろう。 「そう言えば、緑木君の引っ越してきた今の家って『別邸』なんだって」 場の空気が予想以上にしんみりしてしまったので、音色は話題を切り替えて最近の新たな発見を口にした。 勿論、リーネも分かる話でなければ仕方が無い。 「本邸も別にあるらしいんだけど、どうしよう何着て行けばいいのかな……ドレス、とか?」 リーネはぷっと思わず吹き出して苦笑した。 こういった時に見せる彼女の意外な表情が好きだった。リーネに哀しみは似合わない。 『無理……してませんか?』 「え?」 『前世で私たちに関係があったからと言って、今の音色と彼に関係がある訳ではないのですよ』 今まで悩んでいたことをそのまま差されて思わず硬直する。 リーネは守護霊であると同時に、人の心の中までをも見透かす能力を備えているのだろうか。 日和の存在を否定する訳ではなく、ただ現実にある日和の姿が、最近夢で見ていた金髪の少年と過去のサーンの姿両方と被って奇妙に思えてしまうのだ。 本当の今手に届く彼の姿とは一切関係無いと、頭では分かっているつもりなのだが。心の整理がまだ付いていないのだろうか。 『まあ、間接的にはありますが』 窓の外を見ながら思い付いたように付け足されたリーネの言葉に、肩の上に圧し掛かっていた重荷がその重量を増す。 音色は自嘲気味に薄く笑ってから、首を軽く横に振った。 「ううん、こっちこそ。私あんなに任せてとか言っておいて、今も全然手掛かり見つけられなくて」 音色は枕を抱えたまま仰向けに再度ベッドの中へ倒れ込んだ。 ぎしり、と嫌な音を立ててベッドが軋む。部屋の白い天井が橙色を反射してゆっくりと笑っている。 「日和が一人で頑張ってるみたいだから、手伝えたらいいと思うけど」 『では彼の家に行ってみては?本が凄い量あると訊きましたが』 「うん約束してきた、今度行くって。その本を絶対見つけるよ、絶対」 言い終えてから、また性懲りも無く約束を取り付けてしまったと後悔した。 だが傍らに立つリーネの表情は穏やかだ。きっと彼女はこんな自分でも信じてくれているのだろう。 ぐいと両手の甲で目頭を抑えると、身体の中に蔓延していた疲れが吹っ飛んでいくような気がした。 ふと気付いた、指と指の隙間からリーネの姿が見える。 また部屋の中から窓の外の風景を眺めては、時々何かを見つけたように瞳が輝く。 「きれい?」 唐突に放った音色の言葉を、リーネは格別驚きもせず冷静に受け取った。 『場所は違っても色は同じなのですね。エターリアの空も綺麗でした』 「そうなの?」 『ええ、気持ちのいい空です』 茜色に染まってしまった空は、次第に色を変えて群青色に変わっていく。 空に浮かぶ雲も空を静かに這うだけになった。 リーネは何が吹っ切れたのかしばらくして外から目線を逸らし、疲れに負けて今にも眠りに落ちそうな音色へと向き合う。 『日和は、彼はサーンと違って賢明ですね』 「そう?そこまで完璧かな」 眠気が勝った、あまり回転の早くない頭で日和を思い浮かべる。 確かに時々一般常識からずれた行動や発言をすることはあるが、それも常識の範囲内だ。 もし前世で何も起こることが無かったのなら、日和をこれほどまでに気にはかけなかっただろう。 同じ学校で同じクラスになっていたかさえ分からない。 ああ、いつどこでこんな数奇な運命を引き当ててしまったのか、音色は天井に向かって問いかけた。 『彼が気になりますか?』 突然紡がれたその言葉は珍しく音色を驚かせた。 音色は少し考えた後、ゆっくり寝返りを打って、そして何かを口にしようとしたまま目蓋を閉じた。 『音色?』 どこから来るのか、ゆったりとした眠気が意識を奪う。 駄目だ。やはり疲れている。 リーネには悪いが明日のためにも今日は眠ってしまおう。永遠にではなく、一時の休息を。 『お休みなさい』 リーネの手が頬に触れた感覚。その後すぐに額の上に彼女の口付けがあって、小さな温もりを感じた。 不思議だ。リーネは実体を無くした霊であると言うのに。 空ろな情景の中、リーネが穏やかに笑みながら弾け光る金色の粒と共に消え行く残像だけが目蓋の裏に残った。 日和、一緒にいるとどこか落ち着く存在。音色は眠りに付くほんの一瞬の間にそう思った。 前世の影響なのだろうか、安心できる場所が彼の隣にはあった。彼のその独特の雰囲気に慣れている気もする。 だがそれは過去であり現在ではない。 今はどう足掻いてでも今を創らなければ。「今」という時間はこの一瞬しか在り得ないのだから。 BACK/TOP/NEXT 06/04/20 |