どこか深い場所から心の奥深くへ、鋭い音が絶え間なく響いてくる。
ああこれと似た感じは以前どこかで体験したような気がする。だがいったいいつだったろう。

「……まさか!」

思い当たる出来事を思い出すと同時に目が突然開かれた。
何よりもまず最初に視界へ飛び込んできたのは何の変哲も無い灰色一色。それと足の裏に感じるのは水の波紋。

音色は焦る気持ちを抑えて辺りを何回も見回した。
今立っている場所はつい昨日の夢の中で日和と出会った、あの一面銀幕の世界だった。









第二章  -01









「やっぱり……」

確かに間違いない。この場所は日和と初めて会った場所だ。
昨日ここに来たばかりだと言うのに、何故今日もまた来てしまったのだろう。もしかしたら毎日の夢はこの世界へすり替えられてしまうのだろうか。
だとしたらこれからは無防備に寝ていられなさそうだ。

この場所へは、大袈裟に言うと人生二度目の来訪になる。
昨日は日和の姿があった筈だ。音色は急いで辺りを見回した。

だがどんなに目を凝らしても彼の姿は見受けられなかった。
いったいどうしてだろう。幾ら考えても納得の行く理由は見つからない。

「じゃあどうしてここに……。リーネ?」

リーネがいつでも呼び出していいと言っていたことを思い出して、音色は宙に向かって呼びかける。
だが何回彼女の名を呼んでも姿は現れない。
ならば何のためにこの場所まで来たというのだろう。

この世界に来ると自然とリーネと同じ純白のドレスを身に着けてしまうようだ。それを持ち上げてゆっくりと歩き出す。
ぴちゃんと跳ね返る水を裸足の上に受けながら水の上を歩いていく。

「もしかして、緑木君?」

辺りには自分の声だけが空しく木霊し続けている。
リーネがいる訳でも日和と出会う訳でもない。誰もいない空っぽの空間。

色々と考えを巡らせてみて、結局夢が覚める時を待つことにした。
どうせ来てしまったのだ、仕方ない。昨日と同様元の世界に無事帰ることはできるだろう。
唯一心配なのは、また学校に遅刻するかもしれないということだけだ。

そうしてどれくらい時間が過ぎただろう。いや、待ったのはほんの一瞬の間だけだったのかもしれない。
突然音色はじわりじわりと背一面に暑さを覚えた。
何かに間近で照り付けられるような、まるで背中が焼かれているようだ。

「前にこんなのあったっけ?」

鬱陶しく思って、眉間に皺を寄せながら振り返った。
まったく今はまだ多く見積もっても初夏。夢の中でも現実の暑さが伝わってくるとは、なんてことだろう。

ごおと勢い良く燃え盛る炎。いつの間に現れたのか、振り返ったそこには一面炎が遙か彼方の上空まで突き出してごうごうと燃えていた。
音色は振り返ってあまりの意外性に口を半開きにしたまま固まった。
ますます分からない。本当に、以前にこんな炎あっただろうか。

恐る恐る炎の一歩手前まで近付いてみるがそれほど熱くはない。この世界に炎があるとは驚きだ。
音色は水と風の眷属だからこの空間にはほぼ水と風しかないと、昨夜寝る前に気付いた。だが今ここにあるのは、炎。
日和の眷属は地と光だ。ではどうして、炎がここにあるのだろう。

「誰だ?」

低い声が辺りの空気を介して伝わってくる。
音色は驚いて辺りを見回す。銀色の世界には炎以外、何の物体も無い。

「そこに、お前は誰だ」
「え……っ!?」

音色は驚いて思わず目の前の炎から後退りした。
何故か声は、この炎の壁の向こうから聞こえてきた気がした。

本能が逃げろと示唆する。だが長いドレスが邪魔で思うように行動できない。
どうすればいいのか悩んでいる間に、うっかり逃げるタイミングを逃してしまったらしい。
炎の壁の中からいきなり伸びてきたのは一本の腕。それはがしと驚くべき速さと力で音色の腕を掴んだ。

抵抗する間もなく、その場に留まろうとする力よりも強い力で引き寄せられる。
音色は途端にぎゅっと固く目を瞑った。このままでは炎にぶつかってしまう。身体が焼かれてしまう。
しかし燃え盛っていた炎は身体に触れることなくあっさりと身を翻して、音色はそのまま強引に炎の向こうへと招き入れられた。

音色は時間の流れが急激に速度を落としていく感覚を肌で感じた。
炎の向こうにいた人物、自分の腕を引いた人物。それが今、目の前にいる。

(誰だろう……)

黒い髪に黒い瞳、同じ年くらいの少年だ。彼も驚いてこちらを見ている。
綺麗な顔をしている、と思った。
着ている物はどこか異国情緒、そう、サーンや日和が着ていた中世を思わせる服に似ている気がする。

互いの瞳と瞳が吸い寄せられる。
腕を引かれたスピードがそのまま残っていて、ゆっくりと互いの顔が近付く。
幻のようだ。自分の顔と彼の顔が息遣いさえ聞こえるくらい近くなって、相手も自分も薄ら目蓋も閉じるようになって。

(あれ、なんでこんなことしてるんだろう……)

ふと浮かんだそんな疑問はすぐに掻き消えた。
今はこうしている方が心地いい。このまま、このままずっと。

『いけません』

どこからか誰かの凛とした強い声が頭の中に響く。
その冷たさで音色ははっと我に返った。
今の声は彼の声ではない。もっと気品のある、聞いたことの無い女の人の声。

音色の正気が戻る機会を待っていたかのように突風が二人の間に割って入る。
昨日の日和の時と同じ風だ。ああ、夢が覚めてしまう。
だが彼は結局誰だったのか、いったいどうして炎を纏っているのか。

(ねえ、あなたは誰?)

頭の中で問うてみても返事はない。
そうか、頭の中で考えたことは口にしない限り他人には伝わらない。

辺りの風景がざあと砂のように崩れていく。
意識もそのまま空間の外へ弾き出されたのか、目の前のどこか異様な光景は一瞬の内に掻き消えた。







黒髪の少年は目を見開いたまま、少女を包んだ風が去り行く姿を最後まで見届けた。
あまりに意外すぎて声も出ない。
正気に戻ろうと、彼は無理矢理喉を摘んでぐっと力を入れる。

今、自分は何をしていたのだろう。
訳の分からない感情が胸を凌駕する。手のひらには彼女の腕の温もり。

「どういうことだ?」

いったい何故、他人がこの世界に介入して来たのだろうか。
彼の守護霊でさえここに来ることは滅多なことだというのに。

だとしたら考えられるのは一つだけだ。
少年はふっと口元を緩めた。身体の周りでは今も炎が踊り狂いながら夜明けを待っている。
現実に戻ったらすぐさま彼女の正体を調べなくては。ようやく物語の終焉が訪れるのだ。

彼は確信を持った。記憶の中の少女と彼女とは、まさに瓜二つだった。
やはり先程現れた少女は、例の「生まれ変わり」に違いない。













BACK/TOP/NEXT
06/05/25