第一章  -13









綺麗な白だけが辺りに広がっていた。いったいどこが天で、地なのだろうか。
リーネはどうして自分自身にそう問うたのか、しばらくしてから理解した。この場所に光は溢れるほどある、だが影がないのだ。

いや、もともとこの空間にはそれらの指標はありはしないのだろう。
不思議だった。立っているというのに立っているような気がしなかった。
それは身体が重力と言う呪縛から解かれて羽のように軽く、指一本を動かすのでさえあまりにも呆気ないと感じるほどだった。

そう言えば自分は遙か昔に死んだのではなかっただろうか、と、リーネはゆっくり首を傾げた。
もしかしたらまだ意識は人間の元に縛られているのかもしれない。だからこんな場所にいるのかもしれない。リーネがそう考えた刹那だった。

リーネは顔を上げて辺りをゆっくりと見回した。
どこからかすすり泣く声が聞こえたのだった。この異様な空間に誰か他にも人間がいるのだと思ったとき、その姿をなんとしてでも見つけたくなった。

(……あれは)

リーネは見つけた。
不意にリーネの目線の先、数メートル前に、いつの間にか清楚な姿の女がしゃがみ込んで肩を震わせていた。

なにがそんなに悲しいのだろう。彼女はうずくまって顔を両手で覆っており、指の隙間からは涙がはらりはらりと滴り落ちている。
こちらには背を向けているので顔は見えない。彼女は簡素な白のドレスをまとっていた。
リーネの隣には、これまたいつ現れたのか、サーンが生きているときと同じ恰好のまま、リーネと同じく彼女の方を漠然と見ていた。

「悲しむべきことが起こりました」

サーンとの再会を確かめる余裕もなかった。
今まで聞こえていた泣き声が消えた途端に、それまでの悲しさを感じさせない、はっきりとした明確な声が辺りに響いた。

「このままでは戻れません。戻るには、そう、魂が一つにならなければ」

清楚な姿の彼女は、急に思い立ったように凛と立ち上がると天を仰いだ。
彼女の綺麗な髪は地まで長さがある。声色はすべてを包み込むよう穏やかに響いている。

まだ背をこちらに向けままなので、彼女の顔は依然として見えない。
しかしリーネは、ウィリネグロスがいつか言っていた「偉大な御方」はもしかしたら彼女ではないかと、このとき脳に直接叩き込まれたかのように直感した。
彼女はリーネがそう思うとほぼ同時に再び喋り始めた。

「長い時を経て封縛が解けました。鎖を解かれた彼は自分の後継者を探している。一刻を争います」

彼女はこちらにゆっくりと振り返りながら滑らかに口を開く。

「私はすべてを統べなければならない、そのために在り続けなければならない存在。けれど私は分かれてしまった。私は私でなくなってしまった」
「あなたは……神……?」
「人間は私のことをそう呼ぶのですね」

彼女はリーネの問いに少しだけ口元を緩めて、微かな笑みを漏らした。

「あなたが神であるために、私たちはどうすればよいのでしょう」

長い髪の間からちらりと、不思議な色をした瞳が見えた。
だがそれはリーネの気のせいだったのだろうか。まだ彼女は完全にこちらを向いてはいなかった。

「リーネ・クロルド、サーン・フラキトネス、セルガ・スライティ、サラ・ユーヴェル。あなたたちの魂は元は散った私の魂、そしてその魂は昇天することなく転生した……」

突如彼女の頭上に、白い世界を背景にして一つの映像が浮かび上がった。それはシュラート国軍がエターリア城に攻め込んできたときのものだった。
セルガとサラが圧倒的な神の力を駆使し、エターリア城内の護りを突破する。それから二手に分かれたサラの前に、サーンが立ちはだかる異様な光景。けれどサラの謎めいた力に、サーンの抵抗も空しくその身体が貫かれる。ああ、サーンはそうして負傷したのか。
途端に映像は切り替わり、今度は自分とセルガが対峙する場面に移った。窓から入ってくる街を焼く赤い炎を背に浴びたセルガが短剣を抜き、自分を殺そうとする。けれど寸前で割って入ったサーンがそれを防いで――嫌、嫌だ、もう見たくない。

リーネはすぐさま視線を斜め下にずらした。忘れかけていた痛みが、胸の辺りを中心にしてまた強く疼いた。
けれど視線を逸らしても、その映像は今度は脳裏に直接流れてきた。
セルガが立ち去ったあとの部屋で、他の誰でもない自分が、すべてを終わらせたあの金色――。

「あなた方を呼び戻したのには理由があります。今の時代に、再度私の器となる者が四人生まれました」

リーネは伏せていた瞳を再び上げた。その数は無意識に、遙か昔に終わったはずの出来事を連想させたからだった。
まさか、いや、ありえない。確かにあの歴史はあのときに終わらせたのだ。もう二度と神の力を世界に出さないために、涙を呑んで闇に葬ったのに。リーネは頭を振ったが、しかし、彼女の言葉から推測するに間違えようがなかった。
彼女の頭上からは、胸を縛りつけるようなあの日の映像は既に掻き消えていた。

「悲しくも二人は古の彼の思惑のままになろうとしています。私はすべての起源である宇宙へ帰らなければなりません。異常なまでの神の力を世界から脱したいのなら、尚更」

リーネの心を読んだかのように、彼女は間を置いてから最後に力のことをつけ足した。

「どうか魂を集める助けとなって下さい。分裂してしまった私の代わりに」
「はい。分かりました」

辛辣そうにする彼女が居た堪れなくて、リーネは首を縦に振っていた。

「ではあなたたちを現世へ送ります。あなたたちの後世の、『守護霊』として」

こちらに振り向きざま、彼女は宙に半円を描くような形で左手を大きく翳した。
するとその瞬間から、空間が見る見るうちに収縮し始めた。

リーネは目を見張った。
さっきまで隣にいたサーンの姿がどこにもない。そればかりか、顔の分からない彼女の姿までもが光の向こうに消えていく。

「ひとつお教えしましょう」

待って。あなたの姿を、私はまだ見ていない。見なくてはいけない気がする。
リーネはそう言おうとした。が、言葉が口から出なかった。
その間も彼女の姿は光に溶けつつあって、声だけが明瞭に白の空間の中で響き渡る。

「散り散りになった私の魂が宇宙に帰る方法。それは、あの本の中に――」

彼女はなにかを言いかけた。しかしその言葉を最後まで聞き取ることが出来ないまま、リーネは突然訪れた眠気に身体の感覚すべてを奪われた。
気付いたら先程までとはまるで違う場所、銀が広がる漠然とした世界の中にいた。
そしてすぐに、自分の後世であろう少女が傍にいると気がついた。

お願い、気づいて。私をあなたの元へ呼び出して。
リーネは何回も何回も呼びかけた。けれど後世の彼女は気づかないようだった。

それからどのくらいなにもない銀の世界の中で膝を抱えていたのだろう。
いや、待ったのはほんの少しの間だけだったのかもしれない。

――リーネ?

自分の名を呼ばれて、リーネははっと顔を上げた。
急に宙から現れた一本の腕が、ぐいと自分の腕を掴んで強く引いた。けれどそれはとても心地良いものだった。
例えて言うならば時を越えた融合。魂が同じであるからこその、心の奥底での完全なる一致。

――リーネ、クロルド?

先程と同じ、少女の声だった。その声は紛れもなく自分の声を呼んでいた。呼び出されているのだと分かった。
リーネはどこかへ引き上げられる感覚に身体を預けながら、己の使命を胸に刻み、しっかりと頷いた。

そう、リーネ。リーネ・クロルド。あなたは私、私はあなた。
ようやく数百年もの眠りから覚めることができた、同じ魂を基にした同じ器。

ねえ後世の私。あなたはこんな私を受け入れてくれますか。
あなたの守護霊として黄泉から蘇った私を、あなたは敬遠せずに受け入れてくれるのでしょうか。
リーネは期待と恐怖とで震える目蓋をそっと閉じた。すると眼前に、閉ざされた世界の出口を思わせる白光が広がった。













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06/03/24