ああ、思い出した。
あの謎の少女からネックレスを受け取った日の夜だけ、奇妙な夢を見た。

花が咲き乱れる綺麗な城、大雪の険しい山の中、眩しい太陽、何かを探すように潜る水の中。
それらが今さっき頭の中に流れ込んできた記憶と同様、早送りの映像のように流れていくと言う夢だ。

だが以前も今もやはり不思議なのは、最後に近づくと途端に映像が止まって、目の前に金髪の「誰か」がの姿が現れること。
煌々と燃え盛る炎を背景に、金髪の少年は口の端から血を流していた。けれどそれでも、彼は苦しみを堪えながら笑んでいた。
まるでそこにいる誰かを安心させようとでもするように。

―――リーネ……。

けれどその光景は、夢にしてはあまりにも現実染みていて信じられなかった。
そうして強く胸を揺さぶられる衝動で目が覚めたとき、ちょうど枕元の目覚し時計が鳴る数秒前だった。









第一章  -12









さっきの、日和がサーンを呼び出したときと同じだ。
辺りにはもうもうと砂埃が舞い上がり、視界がすべて遮られて、辺りは一面乳白色に染まってしまっていた。

音色はなおも蹲っていたが、少し離れた屋上の上に「なにか」がいるのだと気配で気づいた。
だからこそ顔を上げて確認してみたかった。それがさっき流れ込んできた記憶を持つ張本人のリーネという人物なのかどうか、一目でいいから姿を見てみたかった。
しかしこのときの音色は単に顔を上げるということが、どう足掻いてもできそうになかった。今は――。

『成功だな。それじゃ、説明するか』
「サーン、ちょっと待て」

音色は頭の片隅で、わけの分からない儀式は成功したのだと理解した。
だが音色は未だ頭を抱え込んだままの両手をその位置から下ろすことが出来なかった。

先程まで怒涛の如く流れ込んでいた記憶は、いつの間にか跡形もなく消えていた。
だが未だに涙が堰を切ったように止め処なく溢れてくる。抑えようとしても両手が勝手にがたがたと小刻みに震えてしまう。
生命を繋ぐための初歩的手段である呼吸でさえ、先程の記憶の映像からくる恐怖が混じって段々と荒くなった。

怖かった。ひたすら怖かった。
今更この記憶を頭の中から取り去ることなどできない、どうしようもない恐怖と哀しみの入り混じった感情が心の底から滾々と湧いて出てくる。
今まで戦争を体験したことはない。だからこそ人が目の前でこと切れていく場面が余計に怖かった。迫りくる刃が、背後からじわりじわりと忍び寄る恐怖が。

「流水……?」

だが忘れてはいけないような気がした。
闇に葬られたこの記憶を埋もれたままにしてはいけないのだと、誰かが耳元でそっと囁いている。

悔しいことに、まだ音色の身体の震えは止まらなかった。
負けず嫌いだと自覚したことはなかったが、恐らくこの場で涙を流しているのは自分一人だけだろう。それがどうしても気に入らなくて、音色は両手にぐっと力を込めた。
ぽた、と、頬を伝って落ちる涙が遠慮なく膝の上のスカートを濡らしていく。

泣き止まなければ。この涙を押さえ込まなければ。そう思えば思うほど止まらない。
だがきっと、日和とサーンはこれで満足なのだろう。彼らの言葉の裏になにがあるのかは知らないが、リーネという人物を「呼び出した」のだから。

しかし音色の心はもはや精神的な重圧に折れそうだった。
さっき見た記憶の影響があるのかもしれない。頭がぼうっと、物事を考えるのも億劫になってくる。

(……壊れ、る)

もう駄目だと音色が思った次の瞬間、ふっと頭の中が真っ白になった。
視覚、聴覚、感覚、それからすべての他の感覚までもが停止する。

ああ、遂になにもかも終わってしまったのだろうか。音色はしばらくしてからぼんやりと考えた。
目の前は真っ暗でなにも見えない。さっきまで緑の学生服のスカートが涙で色を変えていくその様をずっと視界に入れていたはずなのに、それさえも見えない。
今まで溢れ続けていた涙は、ここにきて奇妙なほどぴたりと止まった。

しかしなにかが変だった。その暗い世界には、言葉では言い表せない違和感があった。
音色はふと、傍にいないはずの人の気配を感じて、ゆっくりと暗闇の中で顔を上げた。

「……ごめん」

真正面から一条の光が差し込んでくる。
不意に眼前に現れたわずかな隙間から、こちらを心配そうに覗き込んでくる日和の顔が見える。

何故か今、彼の左手が音色の目の前にあった。それが太陽の光を遮って、音色の目元に暗闇を作り出していたのだった。
溢れ続ける涙を止めてくれたのは、日和だ。
そう考えが結論づいたとき、音色は無性に泣きたくなった。

「……なんで、謝るの」
「俺は、俺の記憶はサーンのもので、あの戦いの最後までは分からないから……。すべてを見た流水の過去とは、比べものにならない」
「……違う」

音色は言いながら、目を伏せた先にあった日和の学生服の袖をぐっと掴んだ。

「違う。悲しみは同じでしょ。緑木君も、辛かったはずだって、私はそう思うから……」

サーンだって最後は刃を受けて倒れた。多くの苦しみをその身に受けたのだ。
少なくともサーンが前世である日和はその記憶を見て、自分と同様間接的に痛みを知ったに違いない。

『リーネ、変わってないな』
『いえ。サーンこそ』

日和はサーンの記憶を受け継いでなにを感じたのだろう。なにを考えたのだろう。
シュラート国軍が攻め込んできた晩、そのまま殺されそうになったリーネを庇ったサーンは、その戦いを最後まで知らない。
結果を知っているのはリーネと、あとは最後まで戦いの場にいたセルガとサラの三人だけだ。

突然現れた記憶はあまりにも残酷だ。
まるで研ぎ澄まされた刃のように、それまで普通だった生活を見るも無残に切り裂いた。
知らなければ今まで通り普通の中学生でいられたのに。普通の日々を送って笑っていられたのに。けれど現実はそう上手くはいかない。

『昔と変わらず綺麗だ、リーネ』

しかも日和とは今日会ったばかりだ。
昨日の今日でいきなりこんな事実を知らされても、これからなにをすればいいと言うのであろう。

それに前世で多少関係があったとしても、今までその前世と言うもの自体を知らなかったし、日和本人とはなんの接触もなかったのだからますますどうしていいのかが分からない。
こうして涙を止めてくれたのが彼であっても、きっと他意はない。
日和は一般人にはまったく関係のない、常に手の届かない綺麗な場所にいる人間なのだ。

「って、おい」

音色がいろいろな考えを頭の中で巡らせていた最中、間近で日和の低い声が響いて、音色は思わず反射で肩を震わせた。
ちらと見上げた先の日和の顔は何故か微妙に歪んでおり、今は音色とは反対の方向を見ていた。

いったいなにがそれほどまでに彼の機嫌を損ねたのだろう。
音色も若干の恐怖と共に日和の視線の先を追う。
自分たちがいる場所から少し離れたところには目立つ容姿の二人組みがいた。だが二人はちょうど、感動宜しく抱き合っている場面だった。

『野暮な真似はよせ、日和。俺達は数百年振りの再会だって言うのに……』
「だからって、ちょ、待てって!」

日和の焦った声に、音色は手の甲で睫毛の上に残っていた涙を拭ってから、再度輝かしい姿に焦点を合わせた。
しかし抱き合う場面まではどこか美しかったように感じられたが、音色が涙を拭っていたうちにであろう、二人は今やいちゃつき始めていた。
音色と日和の目の前で完全に彼らの世界が繰り広げられている。気のせいかこちらと背負っている雰囲気までもが違う。

どうやら堪忍袋の緒が切れたらしい日和が、青筋を額に浮かび上がらせながら身を乗り出した。
これは今までの日和の柔らかな物腰からは考えられない、意外な一面だ。

「他所でやってくれ!」
『へいへい。お前は本当に細かいな』
「お前が大雑把すぎるんだよ」

音色がようやくサーンの傍に誰かがいると気づいたのは、サーンが「彼女」から離れたときだった。

『じゃ、話進めるぞー』
「もう少しやる気出せ」

いかにも面倒そうな表情のサーンのうしろから躊躇うこともなくすっと現れたのは、見事な「銀色」だった。
それを人間だと認識するまでに、いったいどれくらいの時間がかかったのだろう。
繊細で流れるように美しい銀の長い髪はふわりと風に靡き、こちらを見る瞳は空の青のように澄んでいた。

ごくりと、自分の唾を呑む音が耳にまで届いた。
さっき脳内に流れ込んできた記憶の中に現れた残像だけの少女と、目の前の少女の姿とが一瞬にして重なる。

『本題だ。こっちが前世の、リーネ・クロルド』

サーンの紹介と同時に、銀髪を持つ少女、リーネが優雅に微笑む。途端に辺りの空気が穏やかな雰囲気に包まれた。
さすが数百年前の王妃だった人物たる風格を持っていると思い知らされる。
目線はだいたい同じ高さにあるのに、リーネは自分よりも身長が高いのではないかと錯覚さえしてしまう。

ふと誰かに似ている、と思えば、リーネの外国系の顔立ちはどこか自分の面影と似ているような気がする。
これがたんなる思い違い、もとい思い上がりならいいのだが、前世と言う括りがある手前、音色はどうも緊張して彼女に笑み返すことさえできなかった。

『ありがとう。サーンの紹介通り、私がリーネ。あなたの前世。ずっと会いたかったのですよ』
「あ、よろしく……」

まだ頭が困惑気味だったが、挨拶されたので音色は反射的に口を開いた。
そんな音色に、リーネはくすくすと微笑を漏らす。

『順応が早いのですね』
「……え?」
『あなたのことです』
「……あ、私?」
『ええ、もちろん。突然目の前に前世の人間、それも亡霊が現れたら誰でも驚くでしょう? 私の後世に気絶されはしないかと、ずっと不安でした』

亡霊、の二文字で、音色の脳裏に再びリーネの記憶が蘇る。
記憶の最後で煌々と燃え盛る不気味な炎、あの歴史の終焉を彩る炎――リーネとサーンはあのときあの城で命を絶った。
今この場にいるのは生身の人間ではない。それは確かなことだと、頭では分かっている。

しかしここで音色は、リーネのどこか自虐的な言葉に対してなにも言えなかった。
それは、もはやリーネたちが幻想でもなんでもない、現実にちゃんといると言うことが身に染みて分かっていたからである。
あんな記憶を無理矢理見せられたくらいだ。これが現実でないのなら、いったいなんだと言うのだろう。

そしてなにも言えなかった理由の二つ目に、リーネにこれ以上悲しそうな表情をさせたくなかったから、があった。
彼女は最後、自らの命を賭して歴史を終わらせた。そのときのつらい心情が時を越えて感じられるようで、だから尚更のこと彼女これ以上悲しませたくなかった。
そんな音色の考えが分かったのか、リーネは改めてこちらを見ると目を細めた。

『この世界に戻れてよかった。ですが今は魂を一時的に呼び戻されただけで、いつまた眠りにつくのかは分かりませんが』

リーネは横にいるサーンをちらと見やった。

『まだ、力はあるのですね』
『らしいな』

片手を握ったり開いたりしているサーンの手のひらから、いきなりぱきり、と音がすると同時に細い枝が生える。
最初は幻影だと思ったのだが、どうやら本物らしい。
一枚の葉が枝から離れると、そのまま風に乗って屋上の灰色の地面の上に舞い落ちた。

そう言えば遅刻未遂の原因となった今日の夢でも見たではないか。
夢に現れた日和は、急激に成長を遂げていく枝を操るかのように、その枝の分岐点に立っていた。

「魂って……なんのこと?」

しかし音色は先程のリーネの言葉が気にかかっていて、いつの間にか頭の中で疑問に思ったことを呟いていた。
リーネはさっき変なことを口にしなかっただろうか。

『この特異な力を持つ根源は、すべて天性とその真珠によるものなのです。そしてそれらを統べるのは本来、神であるあの方』
『そういや、呼び出される前に会ったな。……あれか』

リーネの言葉に、サーンはどこか漠然とした場所を見詰めるような目つきになった。

『話しましょう。私たちが死んでこの世界に呼び戻される前、あの方にお会いしました』

音色は、サーンと同様に儚く遠くを見ているような虚ろなリーネの瞳の変化を見逃さなかった。見逃すことができなかった。
同じ歳なのに、しかし自分よりも多くの困難を乗り越えてきた瞳は、強いというのにふとした瞬間だけどこか脆い。

リーネは天を仰いでからこちらを見て、そして物憂げに笑った。
それは今まで見てきたどんな笑顔よりも多くの悲劇を語っているのだと分かって、音色は少し怖くなった。













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06/03/21