いつもより手が届きそうなほど近い空の下、風が耳元でうるさく鳴っている。
数メートル離れた屋上の鉄の扉の前には、なおも平然と立っている日和がいる。

もしかして彼にこの場で殺されてしまうのだろうか。あの少女が言った通りに、話の訳が分からないまま。
胸の前で固く握り締められた手は、いつまでも恐怖に震えていた。









第一章  -10









「会ったようだな」

嘆息に近い溜め息を一つ付いて、日和はようやく音色から目線を逸らした。
その仕草に少しだけ安堵するも音色はじっと彼を注視し続ける。

日和は真珠のネックレスのことを知っている。
いったいどこまで知っているのか、何を知っているのか訊きたかったが、ここでまた口を開けば失態を犯してしまうかもしれない。
命を賭してまで危ない橋を渡ろうとは思わなかった。

「会ったのは灰色の目をしてフードをかぶった少女だろ?」
「何で知ってるの!?」

反射で返事をしてしまった口を無理矢理両手で押さえるも、時既に遅し。
日和の鋭い瞳は確信を持ったようにこちらを見た。

「なら話は早い。空也側じゃないとすると、守護霊はリーネだ」
「……え、ちょっと待って……」

単純な思考から察するに、どうやら命の危険性が感じられないのだが。
そればかりか勝手に話を進められている。途中途中に補足説明が欲しいものだ。

気のせいかさっきの日和の一言で、場の空気がほんの僅かに緩んだように感じられる。
胸の内から淡い勇気が滲み出てきた。何かに励まされて、音色は恐々口を開いた。

「あなたは私を……殺すの?」
「そんなことしたら世界がひっくり返るな。いや、その前に俺が殴られる」
「誰に?」
「当然、サーンに―――」

そこまで答えて、日和は不思議そうに口を閉ざした。
疑うような目付きでこちらをじろじろと見てくる。まずい、また何か失言をしたのかもしれない。

日和の眉間には深い皺が刻まれている。
その複雑な表情のまま、彼はゆっくりとこちらに歩を進めてきた。
彼から一定距離を保つために後退りしたかったが、背には鉄柵がある。

「まさか……リーネを呼び出してない?召喚してない?」
「だから、それがよく分からないの!」

何も間違ったことを口走ってはいない筈だ。
あの少女や日和に通じるものは少ないながらもあると思えるが、自分との共通点はなんら無い。やはり彼らは誰かと間違えている。

「リーネ、知ってるか?」
「え、それって人の名前?」
「サーンは?」
「その名前も……人間の?」
「じゃあセルガとサラは!?」
「外国人さん?」

どうやら計らずも失言その二を実行してしまったらしい。
こちらへ歩いてくる日和の顔は、もはや難しいと言うよりは難し過ぎると言った方が的確なようだ。
微々たる差だが、こちらからするとかなり違いがある。

日和は音色の数歩手前で立ち止まると、自責するように苦く唸ってから制服の右袖をまくった。
腕には胸のネックレスと同型の真珠のブレスレットが提げられている。

「サーンを呼び出す」

音色がまじまじとそのブレスレットを食い入るように見詰める中で日和は冷静に告げた。
彼の言葉の後で突如現れたのは、辺りを舞い踊る金色の光。
今やブレスレットからは、おびただしい量の光と圧倒的な勢いを持つ風圧とが流れ出ていた。

あまりの激しさに押し潰されてしまいそうだ。
音色は風に押されまいとして耐えながら、風と光の向こうに立つ日和の姿に目を凝らした。

日和の髪は彼の腕から漏れる風に倣って流されている。
突然現れた光が強烈な所為で、顔の窪みはよりいっそう影を深く黒く変えた。

「我は日と地を司る者。悠久の時間を越えた神の化身よ、我が前に現れ給え」

まるで日本語ではない、どこか異国の言語を操っているようだ。
そう感じたほどまでに日和の口にした言葉は現実から離れていた。

「呼び出す、サーン・フラキトネス」

どおん、となにか重いものが強く地面に叩きつけられる音と振動が身体中に響いた。
今立っている屋上も、耐震構造が施されている筈の校舎さえ揺れている。振動と共に辺りに砂埃が発生した。
ふと、こんなことをして大丈夫なのかと心配になったくらいだ。

次から次へと白い砂埃が辺りに流れる。
あまりに煙たくてごほごほと咳をしながらも、音色はそれら白煙の向こうの「何か」を見ようと目を開いた。

『―――やっと、か』

日和のものでも無論自分のものでもない誰かの声がどこからか聞こえる。
声の主を探すと、いつの間にか日和の横に誰かが屈んでいることに気付いた。

その「誰か」は曲げられていた体をゆっくり真っ直ぐ起こすようにして立ち上がる。
ちらと、煙の切れ間から何か輝かしいものが覗く。
ようやくのことで垣間見えた色は、いつしか夢で見たような懐かしさを含んだ金色だった。











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06/03/20