どうか何事も無くこの問題が無事に終着しますように。

屋上へと繋がる重い扉の前でしばらく祈りを捧げてから、音色は銀色に光るドアノブを掴んだ。
そして勢いに任せてそのままぐるりとノブを回す。途端にがちゃりと、いつもは開かない筈の鉄の扉が大きく開いた。









第一章  -08









大量の風が顔面いっぱいに吹き付けてくる。
音色はあまりの勢いに思わず目を瞑って、それから無理矢理目蓋をこじ開けた。

なんて清々しい青空なのだろう。本当に目が痛くなるような、青過ぎる青空だ。
こういう色は嫌いではなかったが、長く見続けていると目が眩んでしまいそうだった。
屋上の扉は予想していた通りかなり重たかったが、開けた先に出迎えた開放感溢れる青空に感情すべてを持って行かれてしまった。

「ああ、来ないのかと思った」

しかし現実と言うものは否応無しに形を取る。
屋上の中央でこちらに背を向けて立っていたのは見間違えることの無い転入生、緑木日和。彼はこちらに気付くとゆっくり振り向いた。

音色は今一度彼のその佇まいを見てぐっと唇を噛んだ。じわりと微かに血の味がする。
緊張してまともに会話さえ出来ない自信は存分にあった。
しかも彼は有名所の御曹司だと聞く。下手に彼の機嫌を損ねては何か闇の世界の報復があるかもしれない。

逃げ出したかった。
可能ならば、もし許されるのならば、今すぐに背後にある扉の向こうへ飛び込んで、そのまま家へ逃げ帰るだろう。

「えっと名前は確か、流水音色……だった?」
「そう、です」

当たり前だが普段立ち入ることを禁止されている屋上に他の人間の姿は無い。
そこにあるのは若干の湿り気を含んだ風と頭上に広がる青空と、それに自分と日和の奇妙な組み合わせだけだ。

恐らくこれは告白とか言う青春期の一大イベントなんかではないだろう。
断言できる。彼は今日の夢のことを聞きたいに違いない。

音色はちら、とそれまで伏せていた目線を上げて日和の顔を伺おうとした。途端に彼がこちらへ歩いてくる姿が視界に入る。
背後にはぴったりと閉じられた重い扉。
まるで逃げ場は無いのだと諭されたような気がして、無意識の中で膝ががくがくと震えた。

(やっぱり無理!)

近付いてくる日和の姿はすぐに恐怖へと変わった。
生まれつき備わっている本能が、ここから逃げろと告げている。

思わず一歩後退してしまうと、歯止めが利かなくなったように手までもが背後の扉へと伸びた。
階下へ通じる鉄の扉。この向こうに飛び込めばこの二人切りの気まずい状況から離脱することが出来る。

もう躊躇などしていられなかった。
ここで日和と何を話すかなど、彼の鋭い目線から分かりきっているではないか。
きっとあの夢は迷惑だったから賠償金を払えだとか、もしかしたら詰問、挙句の果てには拷問が待ち受けているかもしれない。彼は国内トップの富豪の御曹司だ、在り得ないことではない。

音色は狂ったように震える手で素早くドアノブを掴む。
屋上側からは外開きの構造になっている扉を、ぐんと一気に自分の方へ引き寄せる。
不思議と開けた時以上の重さは感じられなかった。ただひたすらこの場所から逃げたかった。

しかし垣間見えた扉の向こうの階段の風景は、すぐさま別のもので遮られた。
ガタン、と大きな音と凄まじい勢いを残して屋上の鉄の扉は閉まる。閉められてしまった。

音色は顔の横に違和感を覚えて、そちらの方へ目線をずらした。
こめかみのすぐ横には一本の腕がある。咲が丘の標準制服である黒い学生服の袖が見える。
不意に現れたその腕は背後から真っ直ぐに突き出されていて、それが強引に外開きの扉を開けさせまいとしていた。

「何故逃げる?」

耳元の近くで囁かれるように響く静かで落ち着いた声。
それがさっきまで少ない会話を交わした相手のものだということに気付いた時、世界が真っ白になった。

仮にも日和とさっきまで数メートルは離れていたではないか。
それなのにこの数秒で自分のすぐ背後まで、しかも呼吸一つ乱さず追いつくとは足が速いにも程がある。

(あ、れ……?)

だが同時に、今の言葉に何か引っかかるものを感じた。
今の日和の一言がどうしてだか分からないが、ふと気にかかった。

さっきまでの混乱と焦りに満ちていた思考回路が冷静さを取り戻す。
ドアノブを握る自分の両手が視界に入る。あれ、どうして逃げようと思ったのだろう。

―――何故逃げる?

懐かしいようなどこかで聞いたような言葉、デジャヴだ。
しかしいったいどこで聞いたのだろう。
単語から推測するに逃げようとする場面で用いられたのであろうが、覚えている限りで過去にそんな記憶は無い。

頭の片隅でちらちらと何かが掠めて去っていく。
誰かが目の前に立っている。金と青、華やかな組み合わせの「何か」が。

長くその場で硬直し続けたのがいけなかったのか、急に肩を強い力で掴まれて改めて、これはまずいと思った。
恐らく日和の手によってだろう、ぐいと違う方向へ強引に身体の向きを変えられる。
その先にあった、と言うよりは間近に迫っていた日和の顔が、今は心臓が凍りつきそうなほど怖かった。

「サラと言うよりは……リーネに似てる」

自分の顔を見ているのだろうが、今の日和の儚い瞳はもっと別の何かを探しているようにも取れた。
すっと差し出された彼の指が音色の頬の線をなぞる。
反射的にぞわりと背筋が粟立った。きっと全身に鳥肌がたったに違いないだろう。

もしかしたら口説こうとしているのだろうか。だとしたらこれは新手だ。
それにどうしてどこにでもいそうな一人の人間にこだわり続けるのだろう。もう一人の自分がそんな事を考えた。
青空を背景に逆光の中に浮かび上がる日和の顔を呆然と眺める。

すると日和は薄らと何かを考え始めたようだ。
眉間に難しい皺が寄っている。

「確認したい。真珠のネックレス見せてくれないか?」

静寂の中で唐突に彼の口から飛び出した一言に、再び世界が凍りついた。
気付けば音色は目の前の彼の身体を突き飛ばして駆け出していた。
がしゃんと扉とは正反対に位置する行き止まりの落下防止用の鉄柵に阻まれて静止する。柵を掴んだ手が震えていた。

咄嗟に振り返ったそこには、扉の前に立ってこちらを見ている日和の姿がある。
その顔はいつに無く冷静、いや、いつでも冷静を保っていると称した方が正しいだろう。

もう嫌だ。早く今日一日が終わってしまえばいい。誰かここから助けて。
音色の手は自然に這い出して自然と胸の前へ移動した。
人差し指に固いものが当たる。それが制服の下に隠された胸の辺りに何があるかを示している。

「……持ってない」
「いや、持ってる筈だ。真珠が一つ通してある銀のチェーンの」
「持ってない!」

日和の言葉を遮るようにして叫ぶ。
さっきまでの後の報復があるかもしれないなどの考えは、既にどこかへ行ってしまった。

「持ってないから!違う!!」

どうして日和が自分以外誰も知らない筈のそのことを知っているのか。
駄目だ。ここで悟られてしまえば何もかもが終わる。いや、もう終わろうとしているのかもしれない。

やはり日和は普通の転入生ではなかった。
偶然見たで終わる夢の話に執着するのも、自分のような凡人に突っ掛かってくるのも、すべてが異質。
誰か、誰か、誰か助けて。

―――そのネックレスのこと、他言しないで下さい。必ず命を狙われます。

幼いながらも凛とした強い声が、突如頭の中に木霊する。
こちらをじっと見据える灰色の瞳と同じく灰色の長い髪が、脳裏にフラッシュバックする。

ああ、彼女と会ったのはいつ頃だったろう。
ひらひらと例年通りに美しく咲き誇った薄桃色の桜が舞い散る頃、そうだ、数ヶ月前の春休み。
思えばあの日から、一連の奇妙な夢を見るようになった気がする。













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06/02/02