第一章 -07 すべての授業の終了を告げる鐘の音が鳴ってようやく、音色ははっと弾かれたように我に返った。 手元に広げられている開きっぱなしのノートには一つの文字も書き込まれてはいない。完璧に呆けたまま授業内容を受け流してしまったらしい。 何だか今日は色々な出来事が立て続けに姿を現して疲れたような気がする。 生徒が慌しく席を立って帰り支度をする中で、音色も天井に向けて大きく伸びをした。 さて、この悪夢を早く現実の中から消してしまおう。 現実逃避だと言われてもいい。この狂った一日を早く終わらせるに越したことは無いのだ。 音色は机の横に提げてあった学生鞄を手にすると、溜め息と共に机上に置いた。 「音色、もう帰るの?」 「うん……ちょっと今日、眠くて……」 「え、眠い?」 隣の席の雫は驚いたように目を瞬かせている。だが互いに意味が通じ合わないのは仕方ない。 あの奇妙な夢は自分だけの心の中で、それだけで十分だ。雫には申し訳なかったが、今ここで再度夢の内容を打ち明けるための気力はほとんど無い。 音色は教科書とノートを机の中から引っ張り出して、手当たり次第鞄の中に押し込んだ。 その横を、これから部活動に行くのであろう生徒が慌しく駆け抜けていく。 いつもと変わらない日常だ。昨日と同じ不変の景色に対してほっと無意識に安堵の溜め息が漏れた。 しかし一心不乱に鞄に教科書を詰め込んでいたその行動は、不自然なほどぴたりと止まった。 自分でもよく一瞬の内に止まったものだと感心してしまった。 机と机の間を勢いよく駆けて行く生徒の中で、幾分ゆっくりとした歩調で誰かが前から通り過ぎていくと思ったその瞬間、すっとその誰かの手が伸びてきて鞄のすぐ横の机の上に何かが置かれたのだ。 最初はゴミか何かと思ったが、よくよく見てみればどうやら違うらしい。 (……紙?) 二つ折りの、小さく白いメモのようだ。 突然何の前振りも無く差し出されたその紙に、音色は一瞬驚いて硬直してしまった。 不思議に思いはしたが、そのまま手に取って少しだけ開いて、中に何が書いてあるのか覗き込む。 恐怖や好奇心なんて大層なものは含まれてなどいない、ただ普通に開いてみただけだ。 二つ折りの紙を広げた先にあった紙面には、丁寧な文字で、シャープペンシルで書いたのであろう簡潔な言葉が綴られていた。 (今日の放課後、屋上で?) 屋上、それはこの学校の屋上のことを指しているのだろうか。 だが屋上へ生徒は立ち入ることが出来ない。あの重い扉にはいつも強固な鍵がかけてある。 たった一言を連ねてあるだけなのにまったく意図を汲み取ることが出来ない。 それに今、通りすがりにこの紙を置いて行ったのは誰であったか。こんな奇抜なメモを残した人物はいったい誰なのか。 文句の一つでも言ってやろうと、音色は背後を振り返った。 目をやったそこには既に人だかりが出来ていた。男女関係無く、クラス内外から挙って人が集まってくる。 その中心にいる人物が、どうやらこのメモを置いて行った犯人らしい。 しかしその人物の正体を知った時、今朝のホームルーム以上に唖然とした。 ちら、と人混みを通して瞳が出会う。何かを知っているような、鋭い背筋が凍るような視線。 今日転入してきたばかりの緑木日和は多くの生徒に囲まれて質問攻めに遭っている、その隙を縫って彼はこちらを一瞥してきた。 (やられた……!) なにが、と訊かれたら答えに詰まってしまうが、とにかく先手を打たれてしまった。そんな気がしたのだ。 音色は誰に忠告されるまでもなくすぐに彼から視線を外した。 間違いない、日和は薄々気付いている。 例の予知夢は自分だけが見た夢だと思っていたが、違った。 その証拠に夢に登場してきた彼は、現実へとその場を変えても同じ容姿、そしてその内容を知っている。 すべてを放り出して頭を掻きむしりたくなった。 どうしてこうも現実は上手くいかないのだろうか。丸く収まってくれれば良かったのに。 「気になるわね」 ふと隣から聞こえた雫の落ち着き払った一言に、音色は驚いて顔を上げた。 「な……にが?」 「どうして音色が転入してきたばかりの彼に驚いたか、よ。朝からずっと考えてるんだけど……」 雫はこめかみをとんとんと叩いて眉根に皺を寄せた。 それは何か難しい問題を解こうとしようとする表情そのもの。 今まで雫はどこか勘が鋭いと思ってはいたが、まさかそこまで見られていたとは不覚だった。 音色はじっとまだ眉間の皺を寄せたままの雫を見返す。 すると雫はこちらの視線に気付いたのか、ふっと微笑を漏らしてから顔一面に満面の笑みを広げた。 「あら、見逃さないわよ?」 「有難ウゴザイマス……」 ここは適当に、かつ無難に誤魔化さなければならない。 後で色々追及されてしまいそうだが、それはその時になって腹を括るしかないだろう。 音色は恐る恐るちらと再度日和の方を見やった。 日和の周りには今も人々が集っている。転入早々話しかけやすい人物もあまりいないだろう、彼の影響力は凄いものだ。 「ねえ自己紹介の時に思ったんだけど、緑木君ってあの『緑木』なの?」 「……ああ、そうだよ」 「やっぱり!オーラが違うと思った!」 一人の女子生徒がきゃあきゃあとなんとも楽しげに会話を交わしている。 ああなんて羨ましい。あんな夢さえなければ彼と普通に接することも可能だったろうに。 だがそれよりも気になったのは彼女の言葉だ。 どうやら「緑木」と言う苗字がキーワードのようだが見当が付かない。音色はその遠くの会話に首を傾げた。 こっそりと隣でまだ考え込んでいる雫にそっと耳打ちする。 「なに?あの人、緑木君ってなにか有名なの?」 「有名って言えば有名ね」 少し間を置いた後、雫は思い出したように口を開いた。 「緑木日和……やっぱりね。緑木家は確か日本でも五本指に入るくらい大富豪の名家だった筈よ」 一瞬何のことを言っているのか訳が分からなくなった。 音色はとにかく今の雫の言葉を思い出して、中でも一番気にかかった単語を引っ張り出した。 「……大、富豪?」 「そ。下手するとトップかもね。その由緒ある家の御曹司があそこにいる、彼」 「うそ、そんな……知らなかった……」 「普通ならそんなこと知らなくても仕方ないわよ。私もこの前、偶然雑誌でちらっと見かけただけだし」 感嘆の溜め息混じりに呟く雫の声を聞きながら、音色はふと疑問を持った。 日本を代表する金持ち御曹司が、どうしてこんな一介の市立中学校へ転入してきたのだろうか。 咲が丘中学校がある藤波市、都心まで三十分もあれば着くと言う、最近は専らベッドタウンになりつつある。 しかしまだ自然は至る所に残っており土地も広い。 そんな中で環境がいいからと、藤波市内には確かもう一つの中学校、それも超金持ち有名進学私立中学校があるはずだった。 彼がこちらの学校を選んだ理由は一先ず置いておき、そんなご大層な人物の登場した夢を見てしまったとは本当に決まり悪い。 音色は再度日和の顔を伺った。いつ見ても何を考えているのか見当も付かない、それでも整った顔立ちだ。 「あれ緑木君、どこか行くのー?」 不意に日和はその集団の中から抜け出た。 極端に質問攻めにされるのを嫌ったのだろうか、だがそこからいかにも嫌そうな表情は見られなかった。 彼の周りに群がっていた女子生徒たちは口々に不満の声を上げている。 「ごめん、少し用事があって」 すまなさそうにしてから、日和は学生鞄を手に教室を去っていく。 だがそれで無事平穏が訪れた訳ではない。 彼が人込みを抜ける際、ダメ押しとでも言うようにまたこちらへと送られた視線は、確かに自分へ宛てられたものだった。 手中には未だに彼からのメッセージが記された紙がある。 音色はそれを汗の滲む手でぎゅっと固く握った。 「じゃあね雫、また明日」 すぐに彼の後を追って話をつけなくては。音色は精一杯の笑顔を残して雫に手を振りながら学生鞄を掴んだ。 突然走り出した音色に驚いて手を振る雫を背に、机と机の間を駆け抜けて、教室のドアをがらりと開ける。 今の笑顔はまた朝と同様固くなっていなかっただろうか。一抹の不安が過ぎったが、それはすぐに掻き消えた。 日和の消えた教室内は勿論、何故か廊下からさえも転入生を迎える快い歓声は消えていた。 彼が教室を出てすぐに追ってきたはずなのに、灰色の廊下の上にあの目立つ姿は見受けられなかった。 前後を何回も振り返り確認してみても、結果は変わらず同じまま。 (足、速……っ!) 思わず頬がひくひくと痙攣した。 どんな脚力を持ってしてこの教室から少し離れた場所にある階段まで辿り着いたのかは知らないが、固い決心が無ければこの異様な状況からすぐに逃げ出していたことだろう。 だがここで挫けては明日も同じ絶望が訪れてしまう。 ここで今日で、何とかこの話を終わらせなければならない。 多分彼も見た夢で互いに出会ってしまったのは、単なる偶然なのだと。 今日同じ教室でクラスメイトになってしまったことも、すべては偶然でしかないのだと説くしか道は残されていない。 音色は気合を入れ直すと意を決して、冷たい廊下の上をまた前へ前へと歩き出した。 BACK/TOP/NEXT 06/02/02 |