第一章  -06









「運命、これは運命……いや、幸運、幸運……」

音色はぶつぶつと呟きながら廊下の上をただ一心に歩き続けた。
手には自分のクラスの全員分のノートが積まれていたが、今はその重さなんて関係ない。

傍から見れば関わり合いたくないほど暗い雰囲気を醸し出していたに違いない。
だがこの時ばかりはどうしようもなかった。
奇妙な夢を見たその日に、まさか二つ目の珍事が起きるとは思ってもいなかった。

(ポジティブにポジティブに……!)

人間誰しも思い込みに頼らざるを得ない時がやってくる。
音色もまた無理矢理思い込むことにした。勿論、今日の学校中を揺るがした転校生騒ぎをだ。

夢で彼に会ったとはいえ、恐らく日和はこちらの存在に気付いていない。
あの夢はきっと人生稀に見た予知夢か何かで、彼が転校してくると予知したのだろう。

偶然職員室に足を運んだ音色は、そのまま中田に頼まれてクラス全員分のノートを教室まで持って行くことになった。
その時、中田の職員机の上に広げられていた日和の生徒調査書が目に入って、思わず少しだけ見てしまった。
彼は夢でも幻でもなかった。きちんとそこには今まで生きてきたという情報が掲げられていた。

それでようやく立ち直ることが出来た。
現実は今もそのままなのだと、吹っ切るきっかけになってくれた。

ようやく手が痺れてきた。音色はノートの塔を気合を入れて持ち直す。
すると堆く積まれていた一番上のノートが、重心を失ってぱさりと滑り落ちた。
一冊が落ちると、続いて数冊ばさばさと雪崩落ちていく。

「あーもう」

仕方なく音色は屈んでから、膝の横に辛うじて手元に残ったノートの塔を据え置いた。
廊下の片隅に散らばったノートたちを面倒だが一冊ずつ拾い始める。

もうすぐ昼休みが終わる。さっきまで慌しく廊下を行き来していた生徒の姿も、今はもう無い。
早く拾って教室に戻らなければ、次の授業に間に合わないだろう。

気持ちが時間と共に多少焦り始める。
意外と広範囲に渡って散らばってしまったノートを拾っていく音色の手が、ふと止まった。
今まで自分の手だけが視界に入っていたのに、向こう側からにゅっと他の誰かの手が伸びてきてノートを拾っていく。

「あ、有難うございま、す……っ!?」

礼を言おうとして顔を上げた先にいたのは、今最も出会いたくなかった人物ナンバーワン。
一目で分かった。その端整な顔立ちは、朝からずっと頭の片隅に残っていた。

さっきまでずっと頭の中に思い浮かべていた、その日和本人が目の前にいる。
昼休みが終わる間近でのナイスタイミングとも言える登場の仕方だ。
普通の女子生徒なら頬を上気させて恋に落ちる、淡い青春の始まりになるだろう。

だが音色は逆に寒気を感じた。
まさか彼が手伝ってくれるとは。いや、手伝ってくれる分には嬉しいのだが、正直なところを言えば今はそっとしておいて欲しい。
二人の間に生じた沈黙はその場に留まって、少なくとも音色の行動を束縛した。

「あのさ、朝に中田先生が言っていた『流水』って……」
「……あ、私の苗字、です」

最初は何のことか分からなかったが、自分の名前を出されて初めて彼が何を言っているのか分かった。
音色はしどろもどろになりながら、それでも目を伏せたまま答える。

それきり日和はまた黙り込んでしまった。今もノートを拾う彼の手の速度は変わらない。
いったい何だと言うのだろう。確かに珍しい苗字ではあるが、そんなに気にかかっただろうか。
だらだらと冷や汗が流れてきた。

しかし今見た日和の顔は本当に予知夢通り同じ顔をしていた。
そう言えば夢の中での彼の服装が、どこか中世を思わせるような服装だったのが不思議だ。
音色は日和に気付かれないようにと、ちらとだけ目線を上げた。

少しだけ、確認の意味も込めて顔を盗み見るだけだ。
彼も今はノートを拾っているのだからこちらに気を配ってなんかいないだろう。

顔を気持ちだけ上げると、またもさっき衝撃を与えてくれた顔が変わらずにそこにあった。
しかしその彼は何故かこちらを見ている。疑うような目付きでこちらを見ている。

沈黙がいっそう酷くなったような気がした。
授業が間近だと言うのに、さっきまでの焦りがすべて吹っ飛んで行った。

「流水さん、『今日』どこかで会わなかった?」

数秒冷たい空気が流れた後、変に強調された日和の言葉の意味が身体の心まで伝わってきた。
彼の射るような鋭い視線から目を逸らすことができない。

嘘だ、嘘だ、嘘に違いない。
誰か今すぐこれは夢だと叩き起こしてくれればいい。
そうすればきっと目覚めることが出来る。この悪夢から離脱することが出来る。

あの夢は自分だけが見た夢だ。
だが今の言葉からして、彼は何かを知っている。夢で会ったことを知っている。
もしかして彼も自分と夢で出会ったのではないだろうか、と考えてしまった。

音色は呆然としたまま日和を見詰め返した。
彼は手際よく集めたノートを手に立ち上がる。

「えっと、あ、会ったよね?あの……教室で、って言うか、朝のホームルームで……」

自分でも狼狽しているのだと分かる。
だが隠し通さなければならない。ここで気付かれてしまったら、何かが終わってしまう。
音色も慌てて立ち上がると、手元に残っていたノートを抱え直した。

「ごめん、本当にありがと!」

日和の手にしている数冊のノートを半分奪うようにして受け取ると、一目散に駆け出した。
どこからやって来たのか分からない絶望が頭の中を満たしていった。

またもや何十冊も積まれたノートの重さは感じられなかった。
ただ気持ちだけが先走る。早く教室に逃げ込みたい衝動に駆られる。

後ろを振り返ってみようと思った。
もしかしたら日和はすぐに追ってきて、更に詳しく言及されてしまうかもしれない。
だが幸いに、教室に着いても日和は追っては来なかった。













BACK/TOP/NEXT
06/01/06