第一章  -05









日和が静かに教壇から降りて、たった今決まったばかりの自分の席へと歩き出す。
席と席との間を、学生鞄を手に歩いてくる。周囲の女子生徒が羨望の眼差しで彼を見ている。

音色は窓際でも列の真ん中の席に座っている。
日和の席は音色から数席を隔てたその後ろ、彼が自分の席へ行くまでに微妙に擦れ違ってしまうは仕方ない。

しかしこの状況は、今までで最も危惧していたそのものに違いなかった。
絶対に彼と出会いたくなかった。今日はいつもと何かが違う。誰かに騙されているような気がする。

いつもの自分なら、転校生と同じクラスになれたことだけで喜んでいたであろう。
だが今朝の夢からして世界が狂ってしまったのではないだろうか。
助けて欲しいと懇願して腕をいっぱいに伸ばしても、誰もその手を取ってくれない。

(……息が)

胸が外部から強く締め付けられて圧迫されるようだ。
急に訪れた予期せぬ変化に、全身から汗が吹き出る。心臓が不規則に脈打っている。

音色は俯いたまま制服のスカートの裾をぐっと握った。
だが恐らく日和は自分のことなど微塵も気にかけていないのだろう。
所詮自分は大勢いる人間の中の一人。特に会話をしさえしなければ、この背筋が凍りそうな感情も、きっとこれは自分だけの思い込みに違いない。

「音色?」

雫の声が遠くに聞こえる。
答えたいのに、今すぐにでも助けて欲しいと言葉にしたいのに、あろうことか口が開かない。

頭の中で何かと何かが葛藤している。頭の中で自分のものではない声が響いている。
押し留めなくてはいけない。今すぐその何かを封じなければ、それは勝手に動き回ってしまう。
身体が乗っ取られてしまう、とさえ思った。

『会イタカッタ』

違う、会いたくなかった。

『モット近クヘ』

出来ることなら、早く通り過ぎて。

『見詰メテ』

見ないで。どうかこっちを見ないで。

思考が自分ではない第三者に強引に引き摺られていく。本当は彼と会いたいなどとは考えていないのに、誰かが考えを妨害する。
辛うじて自分を保つことが出来たが、ほとんど必死に近かった。

まるで自我を持ち始めた生き物のように頭の中で何かがうごめいている。
ぐっと、スカートを握る手に汗が滲んだ。

(……来る)

もはやそれは直感だった。
日和がちょうど音色の席の真横を通りかかったその瞬間、世界の時間が止まった。

振り向こうと思えば顔を上げて彼の姿を見ることができたのかもしれない。
その一瞬の間に彼の顔を今一度見て、また何事も無かったかのように俯くことができた。

だがそうしなかった。
その止まった瞬間の風が、妙に心地良かった。風が身体すべてにかかっていた緊張をするりと解いた。
今思えば、この時ばかりは呼吸と言う二文字を忘れたことの出来た唯一の瞬間だったと思う。

不意にどこからか懐かしい香りがした。
そっと顔を埋めたくなるような、不意に涙が零れてしまいそうなほど儚い感情。

『早ク、早ク会イタイ―――』

細い筋のようなものが幾束にも集まって、ゆっくり風にたゆたっている。
辺りに充満している白い光を反射して、淡い銀色に光り輝いている。

いったい何なのか。物なのか、動物なのか、人間なのか。
音色はじっとその異様な光景を眺め続けた。
懐かしい。ああきっと、「彼女」こそが自分なのだ。ここしばらく見ていた夢の中で成りすましていたのは、「彼女」だ。

白い空間から白く細い手が目の前に突き出される。その手を取ろうと音色もゆっくり手を伸ばす。
手の次に現れた濃い瞳の中に、瞬く間に世界が一点に凝縮されていく。

「音色!」

怒気を含んだ、それでもひっそりとした雫の声で意識が戻った。
後方からは誰かの歩いている音が聞こえてくる。
音色はスカートから手を離した。固く握りすぎたのか、少し痺れていた。

冷や汗が流れていることに気付いたのは、そのすぐ後だった。
日和がこちらに歩を進めてきたその時よりも気分は楽になっていたが、今し方垣間見たこの教室とは違うあの別の空間はいったい何だったのだろうか、考えるだけでも震えが止まらなかった。

「授業始めるぞ」

中田の朗らかな声が教室中に響いた。
かたん、と椅子を軽く音が背後から聞こえて一瞬怖くなる。

しかしその恐怖も時間と共にあっさりと消えていった。
さっきまでの変な映像や感覚はきっと白昼夢だ。頭がまだ呆けているだけなのだ。
音色はそう自分に強く言い聞かせて、一時間目の授業科目である数学の教科書を引き寄せて数ページめくった。

不意に隣の席で心配そうに表情を曇らせる雫の姿が目に入った。
何かを言いたそうに、だが授業中なので遠慮しているのだろう。

音色は大丈夫なのだと言う代わりに、にっと笑んでみせた。
だがその笑顔は不自然な形のまま顔に貼り付けられてしまった。
どう足掻いても出来上がるのは固い笑顔だけで、けれどそれがこの時の精一杯だった。













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06/01/06