滑りそうなほど輝く廊下を駆ける音色の頭上で、軽やかに予鈴が鳴っている。
まずい。折角学校まで辿り着いたというのに最後の最後で挫けるとは、このままでは完全に遅刻決定だ。

音色は「三の五」という札を素早く確認してから、自分の教室のドアをがらりと開けた。
しかし担任教師の姿はまだ教壇にはなく、クラス中には未だに生徒が散らばって他愛もないことを話している。
どうやらまだホームルームは始まっていないようだ。

全力疾走の甲斐があった、とほっと胸を撫で下ろしながら、音色は窓際の自分の席にすとんと腰を下ろした。
だが心臓だけは相変わらず早鐘を打ち続けていた。









第一章  -03









席のすぐ横の窓から今日の澄んだ青空が見える。
自分が遅刻しそうになったことを何とも思わないで、堂々と何食わぬ顔をしている。

厄日だと思っていたが、案外今日は吉日だったりするのかもしれない。
いつもなら通学路を歩いている筈の八時に家を出て出欠確認に間に合うとは、奇跡が起きたとしか思えない。
音色は荒い息を整えようと、席に着いたまま大きく深呼吸をした。

「あら、音色。お早う」

苦笑しながら隣の席の、三年間クラスが同じ親友の水沢雫みずさわしずくが声を掛けてくる。
寝坊したとは口が裂けても言えない。いや、だがこの荒れようを見れば一目瞭然だろう。

相変わらず微笑みが美しい。
さすが去年のミス咲が丘の座に輝いたことだけはある。時々垣間見える悪魔の部分を削ればの話だが。
肩に辛うじて付くくらいのショートカットの髪が、今日も綺麗に風になびいている。

「凄い時間ギリギリ。重役出勤ね」
「いや、その……ちょっと思わぬ事故があって」
「それにしても教室に入ってきた時の顔がすごいったら」

雫がとうとう腹を抱えて笑い出したので、音色もこればかりは苦笑せざるを得なかった。

「あ、ねえ雫」

ふと、そこで音色は忘れかけていた夢の内容を思い出した。
どうして今まで忘れていたのかが不思議なくらいだ。あんな早朝から衝撃的な夢、しばらくは忘れられないだろう。

「今日、変な夢見たの」
「へえどんな?」

嬉しそうな表情を浮かべる音色に興味を持ったのか、雫も身を乗り出してきた。
興味津々で訊き返す雫に音色は小さく笑う。

美少年が夢に出てきたのだ、と言ったらどういう顔をするのだろう。
現実を見た方がいいとか、いや、現実より夢に浸った方が幸せだと言われるだろうか。
雫は現実主義者だ。前者の意見は十分在り得る。

「えっと、それが……」

それでもどこから話そうか、と思案していた音色の言葉を遮るように教室の扉が開いた。
担任教師の登場だ。中肉中背の男性教師、中田なかたは出席名簿を手に教壇に立つ。
教室中に散らばって休日の出来事を話し合っていた生徒は、一目散に自分の席へと戻った。

やはり厄日だ。もうどうにでもなれ、という気が全身を気だるくさせた。
音色も他の生徒同様、仕方なく夢の話を延期せざるを得なくなった。

「音色、後で訊くわ」

にっこりと天使のように笑む雫に、ありがとうと一言囁いてから、音色はふうと一息付いた。
ホームルームは退屈だ。自分に必要な情報が流れる時もあるが、やはり退屈には変わりない。

音色は無意識に窓の外の、どこまでも広がる青空に目を移していた。
本当に滅多にない清々しい青空だ。
もし住宅街や山が一掃されて地平線しか見受けられなかったのだとしたら、この青空はもっとよく映えるのだろう。

「さて、君達に何と言えばいいかな」

いつもとは違う話の切り出しに、音色は思わず窓から黒板の前の中田に視線を戻した。
もしかしたらあまりに呆けすぎて出欠確認さえ流してしまったのだろうか。いや、まだそれほど時間は経っていない筈だ。

中田の顔には意味あり気な笑顔が広がっている。
いったい何があるというのだろう。音色は首を傾げて考えてみたが、心当たりはまったく無かった。

「突然の朗報で先生も驚いているんだがな、騒いでくれるなよ?」
「先生!勿体ぶらないでスパッと言ってくださーい!」

生徒の一人が我慢ならないと、素早く手を上げて立ち上がった。
周りの生徒も皆、同じ考えのようだ。隣の席の生徒とひそひそ話し合ったり、今は視線が一気に中田に集められている。
ようやく話す気になったのか、しばらく頷いてから中田は怪しく笑った。

「よし、じゃあいいな。紹介するぞ、今日からこのクラスに加わる転入生の登場だ!」

音色は我が耳を疑った。聞き間違えたのかと思った。
同じタイミングで教室内に歓喜の声が響き渡る。

転入生が来る、先週はそんな話無かったではないか。
中田自身も突然の朗報だと言っていた。きっと急に決まった転校なのだろう。

音色は驚きながらもクラス全体を見回した。生徒達の顔は期待の色で満たされている。
それもそうだろう。転入生は中学生生活が始まって以来初めてだ。

雫の方をちらと見ると、彼女は喜ぶでも騒ぎ立てるでもなく、ただにこにこと笑みを浮かべて楽しそうだ。
いったい何を考えているのか無性に気になった。
その笑みはさっきとは打って変わって、何か悪事を企む悪魔のものにほぼ近い。

「珍しい。だって五月始まったばかりよ?」
「そうだよね。親の都合……かな」
「転校するなら四月にすれば丁度いいと思わない?」
「それに私達三年だし、大変そう」

だが音色の通うこの中学校、藤波市立咲が丘中学校は、公立校には珍しい中高一貫校だ。
エスカレーター制だが高校進学の際には簡単なテストがあり、それを経ないと進学できない仕組みになっている。
受験から離脱できているようで離脱できていない、やはり入試は付いて回ってくる。

ふと一学期末テストを心配し始める音色以外は、転入生の性別や外見の話に終始している。
やはりここはセオリー通り美形を期待してしまうのが一般的だろう。
男子生徒は可愛い女子生徒だと騒ぎ立て、女子生徒は負けずに恰好いい男子生徒だと話し合っている。

「どうぞ入ってきて、緑木みどりぎ君」

中田が開いている教室のドア越しに呼びかける。
その一言で、教室中が水を打ったように静まった。

カツ、と静かな足音がドアの向こうから聞こえる。
誰なのだろう。こんな中途半端な時期に転入してくる生徒、音色もじっとドアの向こうを注視した。

「え?」

周りの生徒同様、音色の喜色に満ちた顔は一瞬にして驚きに変わった。
その驚愕の声が、しんと静まり返ったクラス内に響いたことにも気付かないほど。

最初は見間違いだと思った。
だがあんなに見慣れた顔を、今更頭の中から拭うことは出来なかった。
記憶は朧だが、どこか見慣れたようなあの顔を忘れる訳が無い。

「ちょっと音色?」

異常に気付いたのか、隣からこっそり話しかけてくる雫の姿さえ視界に入らない。
今音色の瞳に映っているのは、一人の転入生だけだ。

「……うそ」

嘘だ。もしくは幻影だ。
朝からあんな夢を見たツケがきっと、今になって回ってきたのだ。

静かに教室に入ってきた転入生は、今日夢で見た彼本人に違いなかった。













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05/12/24