第一章  -02









音色はただ呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
目蓋を上げた先に出迎えていたのは、予想だにしなかった今までとは違う場所、見たこともない世界なのだ。
しかも地平線が遙か彼方に見えるのに、どうしてか果てがないと感じてしまうほど広い。

まるで世界すべてが吹っ飛んで銀色の雲が天を覆ってしまったような、例えるならばそんな感じの場所でもある。
薄暗いのだが辺りの様子は窺える。変な感じだ。

(……なにこれ)

やはり今日は変だ。これは夢なのだろうか、それとも夢ではないのだろうか。
いつもなら思考はずるずると夢に引き摺られてしまうのに、やはり今日はどこかおかしい。

音色はぐると辺りを一度見回してから、ともかくこの不思議な空間へと足を一歩、前に踏み出そうとした。
しかしちょうどその時、ぴちゃん、と不意に足の裏に何かが触れた。

反射的に足元を見ると、そこには一面の水が広がっていた。
空が濃い銀色の雲で覆われているならば、地面には水が無限に湛えられていた。
しかももっと驚くべきことに、自分は裸足でその水の上に立っている。

(沈まない……)

底は暗くて見ることができないが、何故かこの湛えられている水はかなり澄んでいると思った。
普通ならすぐにでも沈む不安定な水の上に立っている。あまりに非現実的で腰が抜けそうだ。

やはりこれは夢なのかもしれない。
たとえ寝ている間に世界が吹っ飛んでこんな状況になってしまったのだとしても、水の上に人間が立つなんて、天と地がひっくり返っても不可能だろう。

「え、あれ?」

ここで気付くのも遅過ぎだと思う。今更だが音色は自分の身の回りの異常に気付いて目を見開いた。
よりにもよって普段着でもなければ制服でもない、肩が大きく開いた綺麗な純白の絹のドレスを音色は着ていた。
少しでも身動きしたら破れてしまいそうだ。長く水面に着くほどのドレスの裾は、地に吸い付いたように微動だにしない。

こうなってくるとますます訳が分からない。
どうして、いったい、いつ、こんな場所に来たのだろうか。

「待って、待って。昨日は確か日曜日で、ご飯食べて、ベッドに入ってそれから―――」

音色は口に出して記憶がなくなる前の出来事を思い出してみたが、そこで思考はぷつりと途絶えた。

(……それから、何……?)

認めたくなかった。
就寝してからの記憶がまったくないと分かった時の衝撃は、何物にも代え難いものだった。

いつこの異様な場所に来たのか、どうしてこんな高価なドレスを身に着けているのか。そんな些細なことさえ分からない。
音色は思わず、ぎゅっとありったけの力を込めて頬を抓ってみた。

「……痛い」

更に気合を入れてぱんと両手で両頬を叩いてみたが、痛さは変わらない。
じんじんと頬が痛みに疼いている。

どうやら夢ではない、しかしこの光景は現実ではありえない。
もしかしたら寝ている間に誘拐でもされて、どこか広い場所に放り出されたのではないだろうか。

「いや、それこそありえない……」

音色は無理矢理白いドレスの裾を持ち上げてみた。
だがこうしていると、まるで古代文明の中のお姫様にでもなった気分だ。

これらのことはありえないとは思う。だが、納得のいく説明が見つからない。
仕方なく観念すると、音色はひとつ軽く溜め息を付いた。
どこから来たのかはもう置いておくにしても、帰る手段を逃してはならないだろう。

再度辺りに目を凝らして見回してみる。
さっきと寸分の狂いもなく広がるのは、穏やかな水面と銀色の分厚い雲だけ。

その中で不意に音が聞こえた時、音色は心臓が破裂するかと思うほど驚いた。
今まで誰の気配も感じられなかったのだ。驚かないという方が無理に近いだろう。

ぱきぱきと、何かをへし折るような軽い音が背後から聞こえてきたのだ。
若干の恐怖もあったが、それでも音色は意を決して振り返った。だが、そこで意外な驚きに目を剥いた。
まさかこの不思議な空間に自分以外の何かがいるなんて、考えもしなかった。

(人間……!)

一瞬の映像は、時間が止まったかのようにゆっくりと引き伸ばされていく。
すべての時間が無意識に速度を落とす。

音色の背後にいたのは、少年だ。
すらと自分より頭一つ分高い、それも見入ってしまうほど端整な顔立ちの。

いや、気にするべき点はそこではない。
彼の面影と言うより、彼の風貌そのものは、今まで見ていたあの夢の中の金髪碧眼少年と同じものだった。
どこが夢の少年と違うのかと問われれば、目の前の少年は金髪碧眼ではないと言うことだけだった。

少年は傍目にも見て取れるほど急成長を遂げていく細い枝の向こう側にいる。
彼はそれらの枝の分岐点の上に慣れた様子で立っている。
枝は葉を付けながら天へと身を広げ、彼に寄り添うように、まるで意思を持っているかのように取り巻いていく。

音色も彼の出現に相当驚いたのだが、どうやら驚いたのはこちらだけではなかったらしい。
彼もこちらに気付いたのか、今や瞳を丸くしていた。

「……あの」

ここはどこなのか。今は何月の何日なのか。
聞きたい事は山ほどあったが、とりあえず何かを言葉にしようと思って音色は口を開いた。

しかしそれまで穏やかだった空間の中に、突如吹き荒れた突風が音色の視界を遮った。
目が開けられないほど激しい。鎌居達のような風に音色は軽々と身体を吹き飛ばされた。

「ま、待って……!」

折角まともな会話ができそうな人間に会えたと言うのに、これでは帰ることが出来ないではないか。
音色は荒れ狂う風越しに手を伸ばしたが、すべて風に阻まれてしまった。
どこか違う場所に引っ張られていくような、強い力が身体全体に働く。

ふと、身体が宙に浮いているのでは、と思った。
それはまるですべての法則の源である重力に反して、無限の宇宙に浮くように―――。


「つっ!?」


びく、と手足が痙攣した衝動で今までの風景すべてが消えた。
急に音色の視界に飛び込んできたのは、天井、自分の部屋の天井だった。太陽の光が反射して白く輝いている。

ゆっくりと、まだ震えが止まらない体を起こす。
今自分がいるのは、あの見知らぬ空間ではなくいつもの自分の部屋だった。
ベッドの近くに置かれている机も、その上に並べられている教科書もノートも、何もかもが寝る前の状態のままだ。

音色はふと胸を押さえた。
何故か心拍数が上がっている。と同時に、頬を冷や汗がつっと流れた。

「……夢?」

本当に今のは夢だったのだろうか。
現実染みた夢もあるものだ、と思うと同時に、夢とは思えないほどあの場所は現実的だったとも思った。
水の感触や風の匂いなどが今も身体のどこかに残っているような気がした。が、音色は首を横に振った。

この頃疲れがたまってどうかしていたのだ。そうだ、五月病だ。
何故か金髪碧眼ではなかったあの夢の少年も、疲れのせいで見た幻想であろう。

(それにしても……)

忘れようと努めたのに、さっき夢の中で出会った彼のことが気にかかる。
滅多に見ない美少年だったからだろうか。いやそれもあるような気がするのだが、微妙に違う。

確かに美少年だった。腹を括ってそれだけは認めておこう。
だが、彼のあの容姿は、空間が移っただけで金髪碧眼の少年と奇妙なほど瓜二つだった。
柔らかいブラウンの髪に綺麗な瞳は思い出すだけでも心が高鳴る。

「いや、夢だし」

音色は自嘲気味にふっと笑うと、朝からこんなことを考えている場合ではないと思い直して冷静になった。
昨日は日曜日だった記憶はある。と言うことは今日は月曜日、学校への登校日だ。

音色は欠伸を噛み殺しながら、何気なく枕元の目覚まし時計を手に取った。
時計の秒針が今も小さな音で時を刻んでいる。

「七時……じゃない、八時!?」

何度確かめても、長針と短針は八時を少し回った時刻を差している。
音色は一瞬固まってから驚いてベッドから飛び降りた。

いっそこれも夢だと思いたい。
しかし頬を抓ってみても、偶然とは言え机に足をぶつけてしまっても、その恐ろしい現実は覚めてはくれなかった。

「なんで!?昨日確かにセットしたのに!」

大声で愚痴をこぼしながらも、急いで窓際に掛けてあった制服に着替える。
白いラインの入った深い緑色のセーラー服に、胸には赤いリボンが付けられている。音色が通う市立中学校の標準制服だ。

だが今更制服の皺など気にしていられなかった。
部屋にある全身が映る鏡を覗き込むと、音色は素早く頭の先から爪先までをチェックする。
幸い目立った寝癖はついていなかった。

音色は昨日の夜に揃えておいた鞄を引っ掴んで、勢い良く階段を駆け下りた。
昨日が日曜日で助かった。これが他の曜日だったなら、翌日の準備など何もしていなかっただろう。

「お母さん!なんで起こしてくれなかったの!?」

音色は居間に顔を覗かせるなり焦ったように叫んだ。
どこからも父と弟の姿が認められないことから、既に母の温子あつこと自分しか家には残っていないのだと知らされる。
それもそうだろう。朝の八時になれば普段はもう家を出ている時間だった。

温子は台所に立って洗い物の手を忙しく動かしている。
だが階段を物凄い勢いで駆け下りてきた我が子を横目でちらと見るなり、温子ははあと呆れた溜め息を付いた。

「起こした、起こしたわよ」
「いや、現に私起きてないし」
「だってあれこれ唸ってて揺すっても起きなかったのよ、音色」
「あーもう!」

音色はテーブルの上に用意されていた牛乳の入ったグラスを掴んで一気に胃袋へ流し込むと、そのまま玄関を飛び出した。

「行ってきます!」
「はいはい、行ってらっしゃい」

厄日だ、帰ったらカレンダーを見よう。絶対に今日は仏滅だ。
玄関を出た勢いで転びそうになるところを、無理矢理態勢を立て直す。

本当に泣きたい気分だった。
だがこんな朝のハプニングでへこたれるほど柔な人生を送ってきた訳ではない。
目指すは朝のホームルームまでに教室に飛び込むこと。ただそれだけだ。
しかしこの時、寝坊が頭の中心を占めていたため、さっき見た夢は既に忘れてしまっていた。

登校時間を少し過ぎたからなのか、人通りが少ない。
電線の上で軽やかに鳴いているスズメの声がやけにうるさく聞こえた。
音色は人通りの少なくなった道を走りながら、ふと顔を上げて、気付いた。

(……あれ、青空)

五月晴れだ。清々しいコバルトブルーの空が天いっぱいに広がっている。

(……きれい)

学校に向かって走る途中で見た青空は、今までにないくらい、とても綺麗だった。













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05/12/24