序章  -23









赤い、エターリア国の夕暮れ以上に鮮明な赤色。
それが目の前で宙を舞っている。

リーネは愕然として何も出来なかった。
自分を見詰めている綺麗な青の瞳にも、応えることが出来なかった。
いつものように冗談めかして微笑んでいるのに、苦笑して返すことさえ出来なかった。

「リーネ……」

幻ではないかと思った。彼は、偽者ではないかと。
サーンの部屋と自分の部屋とは結構離れている。だから、彼はここに来るはずがないと思っていた。

だがいつも共にいたサーンを、どうして見間違えることがあろうか。
あの眩しい笑顔を、どうして彼ではないと言い切れるのだろう。
輝く金髪が目の前で揺れる。青い瞳は今にも消えてしまいそうなほど儚い。

突然セルガと自分との間に現れたサーンは、笑っていた。
リーネを庇ってその背にセルガの刃を受けたサーンは、痛みを押して微笑みかけている。

「…………サーン?」
「ああ、無事で、良かった」

言葉を口にしながら、つっとサーンの口の端から鮮血が滴り落ちる。
そこでリーネはこれが現実だと思い知った。

宙を舞う鮮血は自分のものではない。庇ったサーンのものだ。
そう知ったとき、息が止まった。
最愛の人が犠牲になった。その現実がどこからともなく闇を伴ってやって来た。

痛みを必死にこらえての微笑は、彼の顔からふっと、蝋燭を消したかのように呆気なく消えた。
サーンは力なくリーネの足元に崩れ落ちて、そのまま床の上にうつ伏せに倒れた。

リーネの頭の中はまだ呆けている。
だがリーネは反射的にサーンに駆け寄った。

「サーン!」

最初は恐る恐る、反応が無いと知ると激しくその肩を揺すってみた。
だがサーンは倒れたっきり、ぴくりとも動かない。

涙が睫毛の上に溢れて、行き場を無くした悲しみと共に零れ落ちる。
死ぬ訳がない。彼は大丈夫だ、短剣に刺されたくらいで死ぬ訳がない。

ウィリネグロスも言っていたではないか。
神の力を持つ者はその力によって不滅、傷を受けても回復が追いつき死ぬことはない。
リーネだって槍で腹部を刺された。けれどすぐに傷は癒えた。

それなのに、傷は癒える筈なのに、サーンの背からは今も止め処なく血が溢れ出ている。
どうして止まらないのだろうか。
リーネはぎゅっとサーンの身体を抱きしめた。

「こいつが国王か。いかにも育ちの良さそうな野郎だな」

セルガの吐き捨てるような言葉も気に留まらない。
しかしその時、ふとサーンの背に回した手のひらにじわと暖かさを感じた。

何気なくその手のひらを眼前にかざして、絶句した。
手のひら一面が赤い。手にはべっとりと鮮血が付いていた。

リーネはそろりとサーンの顔を伺った。
いつも見詰めていた青い碧眼の瞳は、二度と開くことはなかった。安らかに静かに、今もなお閉じられている。

「た、助け……っ」

早くしないと、早く助けを呼ばないと、サーンが死んでしまう。
嫌だ。もう二度と目の前で人間が亡くなるのは、見たくない。

どんなに強く抱きしめても、サーンは人形のように身動き一つしない。
まさか死ぬはずはないと思いながら、頭の片隅では絶望している。
早く息を吹き返して欲しい。早くまた、あの飄々とした笑顔を見せて欲しい。

「知らないのか?それとも聞いてないのか?」

セルガの意外だ、とでも言うような声が聞こえて、リーネは思わず顔を上げた。

「ああ、喋らなかったのか。それもそうだな。俺らはあいつの言葉を良いように利用したからな」

言っている意味が分からなかった。
誰のことだろう、リーネは何も利用された覚えはない。
サーンに至っては今日初めて会ったのだから、利用するも何も無いだろう。

呆然とセルガを見上げていると、その視線に気付いたのかセルガは笑った。
今までのどれよりも残酷な笑顔で。

「数ヶ月前、俺らの元に珍しい容姿の小娘が来てな、神の力だとかを色々と喋ってくれたぜ。勿論、隣国に同士と言う名の力を持つ者がいることもな」

それはすぐにウィリネグロスのことを指しているのだと分かった。
しかしどういう意味なのだろうか。やはり肝心の部分が分からない。

話から推測するに、ウィリネグロスはどうやら最初にシュラート国に行ったらしい。
そこでセルガに神の力を諭した。そして隣国に神の力を持つ者がいるのだと教えた、と言うことだ。
間違いない。自分がエターリア国にいると知ったのは、ウィリネグロスのその一言がきっかけだ。

だがどうしてウィリネグロスはそんなことを知っていたのだろう。
まだ十歳くらいの幼い少女。まるで今までずっと、自分たちの行動を記録していたかのような正確さ。

(……『俺ら』って?)

同時に、リーネはセルガの言葉に引っ掛かりを覚えた。
何故セルガは自分のことを指すためにわざわざ複数形にしたのだろう。それは王族を含めて、ということだろうか。

分からないことが多い。それにまだ頭の整理が付いていない。
腕の中のサーンの温もりは、時間が経つと共に徐々に消えていく。
窓から差し込む街を焼く炎の光は、今もなお煌いている。

その時、コツという音が現れた。
セルガとリーネは素早く部屋の扉の方に目線を移した。

扉の前に立っていたのは、一人の少女だった。
だが侍女などではない。ましてや、話題に上がっていたウィリネグロス本人でもない。
輝く宝珠を身につけて、それでも戦闘着を着ているその姿は、敵国の者だ。

「ああ、サラか」
「申し訳ありません。この男意外にしぶとくて、セルガ様にまでお手数かけまして……」
「こいつが?」

セルガがサラと呼んだ女、サラ・ユーヴェルはサーンをちらと一瞥した。
黒く長い髪を一つに結って靡かせながら、怪我一つ無いその身をセルガに寄せる。

リーネは腕の中のサーンに目線を戻した。
よく見れば、サーンの背には何本もの太い水晶のような紫色に輝く柱が刺さっていた。
それらは依然としてサーンの背を貫いたままだ。

「この男、力を持っていました。私が見たところ、地と光です」
「成程な。地の力はこいつだったか」

サラは真剣な表情でこくりと頷いた。

「大勢の兵をこの男へ仕掛けましたが壊滅。まさか力を使うことになるとは思いもしなくて。ですが途中で逃げられまして……」
「だが足止めも無駄だったようだ。この女はもう要らないしな」
「力を持つ者は、この二人ですか?」

サラの視線とリーネの視線とが出会う。
それは冷たく、心に響くものだった。どこかセルガと同じ瞳だと思った。

さっきのセルガの言葉の意味が、ここに来てようやく分かった。
このサラという少女もまた、神の力を持っているのだ。どんなに固いものをも貫く鉱の力、それがサラの持つ力。
リーネは、ぎゅっともう動かないサーンを抱きしめた。

「ああ、こいつらだ。殺して力の源の真珠を奪えばそれでいい」

セルガは鋭い歯の先から赤い血が滴る短剣を握り直した。
それはこれから、この国を征服しようとする前兆でもある。

「そう言えばさっき思い出したな。何故父は自分の愛した人間を死なせたのかと」

もう何もかもがどうでも良かった。
過去は過去だ。未来は変えることができても過去は変えられない。

まだ幼かった頃、リーネは確かにセルガに憧れていた。
けれど今はサーンと過ごす日々の方が楽しかった。
辛かった記憶も嬉しかった記憶も、すべてが指の間から零れ落ちていく。それらはもう取り戻せないのだろうか。

リーネの視界には既に何も、セルガとサラの姿さえ映らなかった。
涙の向こうに消えた世界。それは漠然と、無の世界に変わっていく。

「それは理由も無く、腹立たしいからだ!」

再度、セルガの手にする短剣の光が目に焼きついた。
さっきはサーンが庇ってくれた。逃げる道を残してくれた。

だが今度ばかりは逃げる道はどこにも無かった。
神の力を持つ者を二人相手にするのでは、逃げ場は崩されたも同然だった。
リーネはその刃を、まともに腹部に受けた。

銀色に光る刃。びりっと腹部に走る焼けるような痛み。
吐き気と共に意識が薄くなっていく。
今まで目にしていた世界が、土台を無くしたかのようにぐらと歪んでいった。

周りの音が一切遮断されて、温度の感覚さえ消えた。
ただ腹部は焼けるように熱かった。炎の中に投げ込まれたような熱さだった。

ようやく正気を取り戻した時、いつの間に倒れたのだろう、リーネは床に倒れ伏していた。
手の届くすぐ傍にはサーンの顔がある。
リーネは震える手をそっとサーンの頬へと伸ばしたが、さっきとは違ってひんやりと冷たかった。

「どうして傷が癒えないのか、不思議だろ?」

セルガは短剣を片手で弄ばせている。
豪華な装飾の短剣は、窓から差し込む赤い炎の光を眩しく反射させて輝いた。

「この短剣は、神剣。神の力でさえも切る。神の化身である命でもな。……俺にも分からないのは、なんであの小娘がこの剣を持っていたかだ」

息も絶え絶えになっているリーネを確認すると、セルガはすぐに短剣を鞘に収めた。
真珠を取られてしまうらしい。どうやらこの真珠が、力の根源になっていたらしい。

母の形見だと教えられたが、実は父が贈ってくれたと言う真珠のネックレス。
それは過去と現在とを繋ぐ唯一のものだった。
だが彼らに奪われてしまうとは、少々心残りでもある。

しかしセルガはリーネとサーンの傍を目もくれずにさっさと通り過ぎていく。
リーネはもちろんのこと、サラは驚いて身を乗り出した。

「セルガ様、どちらへ!?」
「サラ、あの小娘を追うぞ」
「小娘?あのウィリネグロスという銀の少女ですか?」

やはり間違いではなかった。
セルガたちに神の力のことを教えたのは、ウィリネグロスだ。

だが何故そのことを教えたのだろう。
もしかしてエターリア国を滅亡させようという目論見でもあったのだろうか。
けれどあの少女はもっと別の目的の下で動いているような気がした。それも憶測に過ぎないが、そう思った。

セルガはサラの言葉を受けて怪訝そうな表情をしながら考え込んだ。
辺りに神経を集中させて、ウィリネグロスの居場所を探ろうとでもするように。

「あいつはシュラート国を裏切ってエターリアに消えた。だがあいつも力を持っている。その真意を確かめに行く」
「では、この者達の真珠は……!?」
「後回しだ。どうせすぐに息絶えるだろうからな。サラ、行くぞ」

ウィリネグロスはシュラート国を裏切った。
ああだからだ、だから彼女は必要最低限のこと以外喋らなかった。
これ以上余計な情報を流してはいけないと気付いた。だから黙り続けた。

セルガとサラの緊迫した会話を遠くに聞きながら、リーネはそっと目蓋を閉じた。
相変わらず腹部の焼けるような痛みは酷かったが、睡魔が襲ってきてそれどころではなかった。

どこかに導かれていくような気がした。
きっと錯覚だろう。どこからか誰かの澄んだ声が聞こえるのも、きっと幻聴だ。

(……サーン)

セルガの後について出て行くサラの気配を感じる。
そしてすぐに、部屋はしんと静まり返った。













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05/11/21