序章  -21









リーネの心配を他所に、アライネはその日の内に城に戻ってきた。
だがその顔は疲れ果てていて蒼白。とてもではないが、立っていられるような状態ではなかった。

しかしアライネはすぐにヴァドを呼び寄せた。
これから何が始まるのだろう。リーネは物陰に隠れてこっそりと二人の様子を窺った。
アライネはまだ着替えもせずに、階下の広間でヴァドと言葉を交わしている。

「私は構いませんが、しかしそれは……」
「分かっています。ですが、もうこの方法しかないのです」

なにやら只ならぬ雰囲気が漂っていることは確かだった。
いったい本城で何の話をしてきたのだろう。だが誰もその内容を知るものは無かった。

「リーネ、こちらへ」

双方の長い話し合いの末呼ばれたリーネは、すぐに髪を短く切られた。
流れるように長かった銀髪は男児のようにすっかり短くなり、まるで貧しい民のようにも見える。

本当に訳が分からなかった。
今まで髪をこれほどまでに短くしたことはない。意外だったが少し新鮮でもあった。
だがその後で渡された明日に着るドレスはあまりにも簡素なものだった。

「リーネ、明日は日の昇る前に起きなさい。いいですね」

短くなった髪、お世辞にもドレスとは言えないボロボロの服。
それと今までに無かった要求を口にした、アライネの沈痛な表情。

明日、いったい何があるのだろうか。
期待よりも若干恐怖が勝った。今日が明日になるのが、少し怖くなった。

しかし嫌だと思う時ほど時間が経つのは早い。
いつものように迎えた早朝、そこでリーネはすべてを知った。

「私は妃という立場上、ここを離れる訳にはいきません」

まだ地平線から太陽は顔を出していない。
薄らと明るいクロルド家の城の前には、リーネとアライネとヴァド以外誰の姿もない。

時折小鳥が小さくさえずりながら頭上を通過していく。
靄が辺りに立ち込める中、三人の中でただ一人旅支度をしていないアライネは凛としていた。

「ヴァド、シュラート国を出てすぐの険しい山の向こうにエターリア国があります。今の季節、山頂付近は豪雪ですが、越えれば広い土地が見えます」
「はい」
「距離も長く、隣国といっても二、三日はかかります。心して行くように」

エターリア国、今までに聞いたことが無い国名だ。
どうやらこれからその国に行くらしいことは何となく分かった。

アライネとヴァドの真剣な話が一段落つくと、アライネはふっと頬を緩めた。
心配そうに見上げるリーネの気を少しでも和らげようと思ったのだろう。
ふっとリーネに向かって笑みかけたが、その笑顔はとても寂しいものだった。

「リーネ、あなたには幸せになる道がある。それを進むのです」
「……はい」
「生まれた時から身に付けているその宝珠が、いつかあなたの身を守るでしょう」
「母様、は?」

リーネの首から下げられている親指大の真珠のネックレス。
最近知ったことだが、生まれた時に父がくれたものだと言う。

それは勿論アライネにも関わりがある物だ。
リーネは父の顔を憶えていなかったが、アライネが沢山教えてくれた。彼がどんなに強くてどんなに誇り高くてどんなに優しかったかを。
今もなおリーネの胸元で光る真珠を見つめながら、アライネは笑みを零した。

「私はもう良いのです。あの人と巡り会えただけで十分、それだけで幸せを手にしたのですから」

アライネは青空が見えない、靄が遮る空を仰いだ。
その表情はまるで、先に逝ってしまった夫を想っているかのように。

「さ、行きなさい」
「……母様?」

アライネの哀しみを堪えた表情に、リーネは一瞬怖くなった。
突然突きつけられた別れの意味が分からない。
またどこかで会えるのだと思っていたが、もしかしたらもう一生会えないのではないだろうか。

朝靄がいっそう辺りを濃く埋め尽くしている。
嫌な心臓の鼓動の音が聞こえる。恐怖は更に大きくなった。

「ヴァド、あなたにリーネを託します。どうか隣国のエターリアまで導いて下さい」
「承知しました、妃様」

ヴァドはすべてを知っている、だからこそ落ち着いてゆっくりと頭を垂れているのだ。
そのまま何も言わずに、ヴァドは暖かく大きな手でリーネを引いた。
急な展開に驚き瞬きするリーネの頭の上に、アライネはそっと手を置く。

「幸せになるため、行きなさい」

半ば強引にヴァドに引っ張られるようにして、リーネは早朝の城を去った。
ずっと城の前で見送っていたアライネの姿は、数歩とも行かないところで靄の向こうに消えた。

そして突如二人を迎えたのは、身を刺すような寒さだった。
思い出した。今の時期の早朝は格別に寒い。
シュラート国を出るまでにも、身も凍るような寒さが何百と訪れた。

「待て。お前たちはこれからどこへ行く?」

シュラート国の境には、年中警備兵が配置されている。
ここを潜り抜けなければ、シュラート国からは抜け出せない。

当たり前のように警備兵に止められて、ヴァドはこっそりと、リーネが着ていた簡素なコートのフードを目深にかぶらせた。
リーネは類稀な容姿を持っている。
銀髪と碧眼は平民の中でもそういない。ここで疑いをかけられたらお終いだ。

「クロルド家の妃様の使いです。国外の店に、頼んであった品を取りに行くようにとの命です」
「その子供は?」
「私の子です。この子も下働きとして、そろそろ仕事を覚えないとなりませんので」

警備兵はちらとリーネの方を見た。
その鋭い視線をフード越しに感じる。心臓がばくばく唸っている。

しかし警備兵は少し考え込んだだけで、すぐに通してくれた。
一瞬ばれてしまったかと思ったが、何とか上手く行ったようだ。リーネとヴァドは検問所を急ぐように去った。

完全に人の気配がしなくなってから、リーネはフードを少しだけ上げて天を仰いだ。
眼前にくっきりとそびえ立つのは、エターリア国への侵入を拒む高く険しい山。
太陽がちょうど昇ってきたからであろうか、朝靄も少しずつ薄れてきた。

しかしあまりにも険しい山の中で、更に冷たい雪は舞っていた。
その舞い方も尋常ではなく、ごうごうと横から吹き付けてくる。
予定よりも長く何日も歩き続けているため、足はふらふらに、目は空ろになってきた。

もう少しで山頂に着くと思った頃、急にヴァドが倒れた。

「ヴァド!」
「立ち止まっては駄目です、リーネ様。すぐに追っ手が来るでしょう」
「でも、私はヴァドを置いていけない!」
「大丈夫、私はもうすぐ行くのです。妃様が私を呼んで……仕えなくては……」

駄目だ。ヴァドの目の焦点が合っていない。
雪が舞う山中で何とか見つけた岩だらけの洞穴、その天井を見るヴァドの視線が、ふわふわと泳いでいる。

薄く笑うヴァドに、リーネは泣いて必死にしがみ付いた。
追っ手に捕まることも怖いが、ヴァドと別れるのはもっと怖い。一人で行くのは怖い。
洞穴の外では、今も雪が渦巻いている。

「だ、大丈夫です!シュラート国に戻って何か温かい飲み物でも―――」

だが戻ったら手遅れになる。
ヴァドはもはや限界を超えている。元来た道を戻ることは不可能だ。

リーネはどうしようもないと分かって、涙が止まらなくて仕方が無かった。
怖い、怖い怖い。どこへ行けばいいのか、エターリアという国はどんな国なのか。
戻りたい。母の待つシュラート国の、クロルド家の城へ戻りたい。

ひたすら涙を拭うリーネを横に、ヴァドはもう何も口にしなかった。
ただヴァドは最後の力を振り絞り手を持ち上げて、そっとリーネの頬に触れた。安心させるように、安らかな笑みを浮かべながら。

「行くのです……リーネ様」

エターリア国に行くのは、自分の使命なのだと言い聞かせた。
横から吹き付ける豪雪の中を、リーネは一人でただ一心に歩いていく。
ヴァドの言葉通り、ヴァドの期待通り、エターリアに行かなくてはならない。

寒さを凌ぐためのフードは、冷たくなってしまったヴァドの上に添えてきた。
泣くなと何度も念じた。泣いたら涙が凍ってしまう。心も凍り付いてしまう。

辛かった。苦しかった。リーネもすべてが限界に達していた。
けれど最後まで歩き続けることができたのは、アライネがヴァドが笑みかけてくれたから。
自分に生きる道を残してくれたから。

だからその分生きなければ、きっと絶対後悔する。
リーネは手足が凍って動かなくなろうとも、歩き続けるのをやめないつもりだった。

(雪……?)

ふと、身体の一部分に暖かさを感じた。
おかしい。確かにさっきまで冷たい中を必死に歩き続けていたはずなのに。無意識に考える。

息が切れている。足がふらつく。意識は朦朧となっている。
だが歩き続けなければならない。エターリア国に行くのだ。

リーネはまた一歩足を前に踏み出した。
さく、と足元から奇妙な音がする。
ああ草だ。草の上に立っているのだ。虚ろな頭の片隅でそう思った。

リーネはゆっくり顔を上げた。そこで目を見張った。
眼前に悠然と広がったのは、高いところから見下ろす緑豊かで広大な街並みだった。

これがエターリア国なのだと気付いた。まだ少し高い場所にいるために、そこから国全体を一望できる。
四方をぐるりと高い山々に囲まれて、国の真ん中を大きい川が貫いている。
頭上の太陽が眩しい。暖かい国だ。

(……着、いた)

いつの間にか山から雪は消えて、リーネはなだらかな山の麓を下っていた。
けれど体はぼろぼろで、身に付けていた服もほとんど原形を留めていない。

けれどリーネは歩き続けた。歩くことをやめようとはしなかった。
どうして歩き続けるのだろう。自分で自分に問うてみたが、幾ら悩んでも答えは出なかった。
何かが頭の中からすっぽり抜けてしまった気がした。

何度つまずいても立ち上がって、「誰か」の言葉と期待通りに歩き続けなければならない。
何もかも忘れて、どこへ行こうとしていたのかも忘れて。

「おや、子供?」

薬草を手にしている中年の女が、こちらを驚き顔で見ている。
何故かどっと安心感が押し寄せてきた。もう歩かなくていいと言われたような気がした。

リーネは彼女の胸に気力もなくどさと倒れこんだ。
もう既に身体には歩く力など残っていなかった。
エターリア国に着いた。そう思った途端に涙が溢れ出した。想いが言葉にならない、助けてと願う。

「母さんどうしたんだ。こんな男の子連れてきてさ」
「女だよ、よく見なさい」
「だって髪が短い……ん、何か落ちた」

記憶を失って行く当ても知らないリーネは、彼女の元へ引き取られた。
家にはこれから遠くの国へ出稼ぎに出る長男がいたが、彼は驚いたようにリーネを出迎えた。

しかしリーネを床に上げた際に服のポケットから何かが落ちたらしく、彼がそれをひょいと拾い上げる。
どうやら見る限り、それは一枚の紙切れのようだった。
女とその息子とは、眉根に皺を寄せてその紙を覗き込んだ。

「リーネ・クロルド?」

一枚の紙切れには、ある一人の名前とその人物を匿って欲しいと言う内容だけが記されていた。
しかしその署名には、隣国の王家の紋章が使われていた。
女は驚いて紙切れとリーネとを見比べた。

「……リーネ?」

リーネはどこかで聞いたような言葉が聞こえた気がして、ふと手を伸ばした。
女はリーネのその弱弱しい手を取ってぎゅっと握る。

暖かさがリーネの手のひらにじんわりと沁み込んだ。
思い出せない誰かも、こうして手を包んでくれた日があった。
まだ疲労で起き上がれないリーネを、女は強く強く抱き締めた。

「怖かっただろう、もう平気だよ……」

リーネは力が入らない手を持ち上げて、ただ涙を流した。

頭の中の記憶のどこかで懐かしい声がする。でもそれが誰か思い出せない。
ああ、どうして自分はここにいるんだろう。













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05/11/16