「……母様?」

朝靄が辺りに立ち込める、その中で別れは突然に突きつけられた。
幼いリーネの目の前にはアライネが哀しみを堪えて立っている。今にも哀願しそうなそんな表情で。

「ヴァド、あなたにリーネを託します。どうか隣国のエターリアまで導いて下さい」
「承知しました、妃様」

アライネにヴァドと呼ばれた中年の女、昔からこの家の執事であった彼女は、ゆっくりと頭を垂れた。
そのまま何も言わずに、彼女は暖かく大きな手でリーネを引いた。
急な展開に驚き瞬きするリーネの頭の上に、アライネはそっと手を置く。

「幸せになるため、行きなさい」









序章  -20









本家の第一王子、セルガの聖誕祭が終わってからだったと思う。
クロルド家の妃でもあり母でもあるアライネは、毎日緊張をはらんだ面持ちをしていた。

何か隠し事をしていると、リーネは幼いながらも心のどこかで分かっていた。
けれど聞くことが出来なかった。
ただでさえ病に臥している体だ、これ以上心配をかけるようなことは出来ない。

更に数日が経って、早朝にもかかわらず城内が騒がしい日があった。
こんなに朝早くからいったい何事だろう。
リーネは眠い目を擦りながら階下の広間まで下りて、そこにいた人物を見て思わず目を疑った。

「母様!?」
「リーネ、今日の本家からの呼び出しには私が参ります。執事にはそう伝えなさい」
「どうしてです、母様?まだ体調が……」

アライネは昨日も体調を崩して早く床に就いていたはずだった。
それなのに早朝から動き回るとは、しかも出向くのはシュラート国本城ではないか。
ここから本城までは距離がある。アライネには辛い道程だ。

アライネの身の回りの世話をする侍女も、どこか心配そうな表情を浮かべている。
もちろんリーネは必死に止めた。

「せめてヴァドを!彼女なら信頼が置けます!」
「なりません。私が行かなくてはいけない用事なのです」

それでもしきりに止めようとするリーネに、アライネはふっと笑んだ。

「今日の話はとても大切なもの。こればかりは主の務め。誰にも干渉できないのですよ」

リーネはその一言に、ぐっと耐えた。
確かに一理ある。もしそれが重大な話ならば、執事であるヴァドではとても手に負えない。

肯定の証に、リーネは短くはいと返事をする。
渋々だが受け入れたことに、アライネは苦笑していた。その笑顔も今思えばどこか恐怖を帯びていたように思えた。

アライネはすぐに身支度を整え供を数人従えて、クロルド家の城を去っていく。
リーネは城に残った侍女に促されるまでその後姿を眺め続けた。まるでどこか戦地に赴くような姿だった。

それにこのごろのアライネはどこか変だった。
何かを避けているような、何かに対して恐怖を感じているような。









シュラート国本城は、クロルド家の城とは比べ物にならないほどの広さを有していた。
天井も桁違いの高さだ。装飾品はどれも一流のものばかり。

供と別れてアライネが通されたのは、城の中でも高い位置にある会議の間だった。
けれどその大人数を収容できる間に今は誰もいない。長く広いテーブルの向こうに座る本家の王を除けば。

「あの子を、将来的にセルガの妃に欲しい」

席についてすぐ、時候などの挨拶をすっ飛ばして、王はいきなり本題に入った。
静寂の中で紡がれたシュラート国王の言葉が、辺りに重く響き渡る。

アライネはぐっと血が滲みそうになるほど唇を噛んだ。
やはり来てしまった。この日がいつか来るのだと、この頃は特に懸念していた。
分かっていたことなのに。自分が一番あの視線を感じていたことなのに。

何日か前に開かれた本家の王子の生誕祭から帰ってきたリーネは、当の王子と会話をしたことや会場の広かったことなど、それは嬉しそうに話していた。
しかしそれを素直に受け取るほど愚かではない。
王子が話しかけてきた、それはリーネが彼の目に留まったという印でもある。

分家の子であるリーネと本家の王子セルガが、生まれつき不思議な力を持っていることは親や上層部にだけ知られていた。
だから自分の子供が人智を超えた力を持っていると分かった時、愕然とした。

セルガは生まれてすぐに力を示したと聞いていた。
別にリーネに変わったところは無かった。同時期に生まれたが、セルガとは違って普通の子供だと思っていた。

だが二歳を迎えたある日、リーネは私室の窓から身を乗り出して独り言を言っていた。
何をしているのかと訊ねれば振り返って嬉しそうに、風と会話をしているのだと言った。あの時の衝撃は今でも忘れられない。
まさか、きっと嘘を付いているだけなのだろうと思った。
けれど後日、リーネは水浴びの際に水を自由自在に操っていたと、リーネ付きの侍女が慌てて知らせてきた。

夫が死んでから数年が経っていた。
彼が不思議な力を持っていたことはない。それは勿論自分も同じことだ。
突然変異。その四文字で片付けるにはあまりに異端すぎた。

だからリーネはその力の真実を隠し通してでも、本家には嫁がせたくないと思っていた。
もしリーネとセルガがシュラート国を治める立場になれば、今の王は莫大なこれらの力を我が物にするだろう。
二人の力を合わせれば、隣国に攻めても圧倒的な勝利を勝ち取るはずだ。

「……どうしても、でしょうか」

答える声が震えた。
リーネを本家に嫁がせたら、この世界すべてが狂う。

「リーネのあの能力も器量の良さも素晴らしい。セルガの妻になるに相応しい子だ」

心配していたことが、ついに現実になった。
王が何を考えているのかが手に取るように分かる。

これで断りなどでもしたら―――その後は考えたくなかった。
けれどどうにかして断るしかない。リーネの持つ力を悪用されてはいけない。

「ですが、まだあの子達は五歳。決めるには早過ぎるのでは」
「そんなことは無いだろう。それよりも、どこぞの王子に取られてしまってこそ示しがつかないではないか」
「そうではありますが……」

王はどうしても、と言う気らしい。
断ろうとしても隙がない。断れば理由を聞かれるに決まっている。

幾ら考えても名案は浮かばなかった。
すると言葉を濁らせるアライネに不信感を持ったのか、王は冷たい視線を送ってきた。

「お前は、娘を嫁がせたくないと?」

心臓がどくんと大きく唸った。
今の一言は当てずっぽうだろうが、あまりの勘の良さに嫌悪する。

アライネは慌てて首を横に振った。
長いテーブルの向こうで面と向かって座っていた王が、がたりと席を立つ。

「い、いえ。決してそんなつもりでは」
「なら了承する、と言うことだが」
「暫しお待ちを……!」

アライネも慌てて席から立ち上がった。

「時間を、考えるための時間を頂けないでしょうか?まだ私一人で決めるには、大きすぎます」
「それもそうだな」

王がテーブルを回って来て、すっとアライネの横に立つ。
どちらかと言うとアライネも女としては背が高い方の部類に入るが、王はそれ以上の背丈を持っている。
広い間なのにあまりの緊迫した雰囲気に息が詰まりそうだった。

震えるアライネの肩に、ぽんと王の手が置かれる。その手を介して更に威圧感が伝わってくる。
王は少し考えてから、ふと思い出したように言った。

「それにお前も独り身になった。子供の結婚の際、わたしの後妻になるかどうかも考えたらどうだ」

ぷつ、とこの瞬間になにかが切れて真っ白になった気がした。
神様なんていないのだと、未来を切り拓くのはこの自分の手だけしかないのだと思い知らされた。

王の言葉の意味が、すべて分かった。
リーネは漏れなくセルガの妃となり、自分はこの王の愛妾となる。
完全に王の意向通りの結果。それがこのまま時間が経てば現実となる。

しかし不幸を迎えるであろう未来が分かっていて、どうしてその未来を変えないことがあろう。
アライネは帰路についても、ずっと考えていた。
そしてわずかな可能性を秘めた道を見出したとき、すべての覚悟を決めた。

(リーネを、私の故郷であるエターリアへ……!)













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05/11/07