―――これを、貰ってもいいの？



ああ、何の隔たりも知らずに言葉を交わしたあの時が懐かしい。

ついさっき見失ってしまったリーネを探しながら、セルガは数年前の記憶に思いを馳せた。



最初にリーネと出会ったのは、今日と同じ何かの披露宴が催されていたシュラート国本城だった。

どうやら広大な城の中で迷子になったらしい自分と彼女は、迷子であるにもかかわらず偶然に出会った。

恐怖から目に涙を浮かべているリーネを慰めようと、セルガはたまたま持ち合わせていた甘い木の実を渡す。



―――いいよ。あげる。

―――あ、ありがとうござます！



リーネはそれは嬉しそうに笑んでいた。あの笑顔が脳裏に焼きついて離れない。

確かあの時も銀髪は眩しくて、目が眩むほどに。



















序章　　-19



















リーネを追っていたはずなのに、いつの間にかその姿を見失っていた。

辺りを幾ら見回してみても目を凝らしてみても、あの輝く銀髪は視界に入らない。



セルガはふうと溜め息を付いて足を止める。

頭上には漆黒の暗い夜の空が広がっている。何千と輝く星は目に痛い。



どうやら外に出てきてしまったようだ。

早く城内へ戻らなければ、刺客や暗殺者がいるかもしれないと聞くから危険だろう。

それでも最後の足掻きとばかりに中庭をぐると見回した。



白く変化する吐息の向こうに、誰かの姿を認めたセルガは驚いた。

今自分が立っている中庭へ通じる階段の下には石造りのテラスがある。そのテラスに探していたリーネがいた。



セルガは恐る恐る足を階段へと踏み出した。

突然話しかけたら驚いてしまうだろうか。振り向いてくれるだろうか。

期待と焦りで胸がどくんどくんと唸っている。



「……こほっ」



あと少しでリーネの傍に行けるところまで来て、ふと彼女の小さな咳が聞こえた。

リーネは自分の腕に顔を埋めている。その顔は青白く、息は少々荒い。



そう言えば、自分も同じ症状に見舞われた時期があった。

あれはまだ大きい広間と多数の人間に慣れていない幼少期。

きっと彼女は大広間の雰囲気に飲まれて気分が悪くなったのだろう。



セルガは躊躇いがちに、ひょいと彼女の顔を覗きこむ。

だが俯いていて表情は分からない。



「リーネ？」



リーネは一瞬ぴたと静止してから、ぱっと顔を上げた。

やはり間近で見る彼女は久し振りだ。セルガは内心嬉しく思った。



だが話しかけられた当の本人はそんなこと気にかけていられない。

突然目の前に現れたのは、敬うべき本家の第一王子だ。



「セルガ様！？」

「え、ちょっと！」



驚かせないようにと注意を払いながら近付いたが、結局驚かせてしまったらしい。

リーネは慌てて体勢を立て直そうとして、テラスの際まで後退する。

しかしあまりに後退し過ぎたのか、リーネの身体はぐらとテラスの向こうへ傾いていく。言わずもがな、テラスの向こうは夜の闇に染まった何メートルもの断崖絶壁だ。



今度驚いたのはセルガの方だった。

急いでリーネの腕を掴むと、そのまま力任せに引き起こす。



「大丈夫？平気？」

「はい、すみません！」



幸い大事には至らなかったようだ。

平謝りするリーネの顔を、本当に平気なのかとセルガは窺う。



途端にリーネの顔は更に赤くなった。

セルガはこれでも、家系歴代一位二位を争うほど端整な顔立ちの子供が生まれたと城中大騒ぎにした張本人だった。

そんな彼に間近で見つめられて、リーネは本当に大丈夫ですと勢いよく言い放って城内へ戻って行った。



夜の中に銀髪は良く映える。

リーネの後姿を見えなくなるまでずっと見詰めながら、セルガはリーネの腕を掴んだ手に愛しさを感じた。



同時に確固たる確信を得た。

自分の想いはリーネのものと同じなのだと、彼女は自分のものになるのだと、確信した。

だからこの婚約話も、難なく収拾が付くのだろうとも思った。















「なんだと！？」



いったいあの幻のような聖誕祭から何日が過ぎたのだろう。

元の生活に戻って教養を磨く毎日、空にはいつもと変わらない青色が広がっている。



勉強部屋で勉学に浸っていたセルガは、急に現れた耳をつんざくような怒声に驚いて顔を上げた。

今の声からして自分の父が何かに怒ったに違いない。

いったい何だろう。またどこかの国が負け戦でも仕掛けてきたのだろうか。



羽ペンを置いて一旦勉学を中止して、部屋の扉を少しだけ開けて辺りの様子を窺う。

特に変わったことは無いようだ。だが、侍女や召使いが慌しく廊下を行ったり来たりしている。

セルガはちょうど扉の前を通りかかった一人の侍女を呼び止めた。



「ええ、王様がお怒りになるのも無理ありませんわ」



彼女はどこか同情めいた表情をして、階下で怒り散らしている王の姿をちらと見た。



「怒っているって……どうして？」

「それがどうやら、クロルド家のリーネ様が姿を消されてしまったそうで」



その一言を飲み込むのに、いったいどれくらいの時間が必要になったのだろう。

セルガはあまりの衝撃に、一瞬呆然とした。



（消えた……！？）



つい先日、聖誕祭で会ったばかりではないか。

彼女は変わらずにその才能を人々の前で披露していた。互いに少ない言葉を交わした。



それなのに姿を消したとはいったいどういうことなのだろう。

もしかしたらどこかの国の刺客に連れ去られてしまったのかもしれない。あの目立つ容姿では十分に在り得ることだ。



「けれどそれがどうやら違うらしいんです」



思いもよらぬ侍女の言葉に、セルガは顔を上げた。



「違う？なにが？」

「表向きは行方不明になっていますが、聞く所によりますとリーネ様の母様、アライネ様がどこかへ逃がされたとかで」

「なんで！？」

「それ、は……」



それまで饒舌だった侍女が急に言葉を詰まらせた。

アライネがリーネを逃がした理由も喋るだろうと思っていたが、彼女は苦笑するだけで何も口にしない。



何を隠しているのだろう。疑問は増えるばかりだ。

セルガが言及しようとすると彼女は焦ったように外を見て、洗濯物がまだでしたと足早に去って行ってしまった。



言葉にできない胸騒ぎがする。どこか腑に落ちない。

アライネがリーネをどこかの国へ逃がした。その裏に隠された意図が読み取れない。

そして後日、悪いと思いながらも王の部屋の前で立ち聞きした内容を、セルガは今でもくっきりと覚えている。



悪い予感は自分でも嫌悪するほど当たっていた。

リーネはセルガとの「婚約から逃れる」という事情で逃がされていたのだ。



王は後日、すぐさまアライネを本城に呼んだ。

彼女の顔付きは病の床に臥していることもあり蒼白だったが、周りを圧倒させる美しさと威厳があった。

その姿はまさにリーネに瓜二つだった。



「正直に話せば罪は問わない。リーネも優遇しよう」



珍しく譲歩した王の言葉に、あろうことかアライネは首を横に振った。

更に幾つかの好条件を上乗せしたそうだが、アライネはそれでも了承しなかったらしい。



なにが彼女をそこまで踏み止まらせるのだろう。

なかなか口を割らないアライネはすぐさま尋問に掛けられた。



昼夜問わず、城の地下牢で繰り返される怒声と仕打ち。

白い肌には鞭の痕やら傷の痕やらで血が滲み出た。

一般人が地下牢に立ち入ることは無かったが、アライネがむごい尋問にかけられている噂は城内でもすぐに広まった。



それから数日も経たず、病弱だったこともあって、アライネは息を引き取った。

アライネは決して最後まで口を割らなかった。リーネをどこへ逃がしたのか、一言も喋らなかった。

ただその中で彼女が言い続けた言葉は、恐らく王に投げかけられたものなのだろうと思う。



「あの力があるからいけないのです。あの子の力が悪用されるくらいなら、私はこのまま何も口にしません」



その言葉を言い放ったアライネの姿が目蓋の裏に浮かぶようだ。

強い意志はリーネにそっくりそのまま受け継がれていると感じた。



会いたい、と思った。

リーネがどこへ消えてしまったのか、今となっては知る人がいない。

けれどどうにかして探し出して、もう一度会いたい。



「まったく、気丈な女にも困ったものだ……」



いつだったか、アライネの亡骸をクロルド家の侍女たちが引き取りに来た後で、王は面倒そうに嘆息した。

その顔からは、まさか過去に彼女を好いていたという事実は微塵も感じられなかった。



途端に自分の身体すべてを襲った脱力感と虚無感が忘れられない。

過去に想っていた愛する人間は、そう簡単に切り捨てられるものなのだろうか。

もしかしたら自分も将来リーネを切り捨てる日が来るのだろうか。



（違う！）



それは違う、嫌だ。そんなことは在り得ない。

自分は決して彼女にそんな辛い思いをさせない。させる訳が無い。



リーネも見上げているであろう青い空の中に、セルガは誓った。

どれほど長い時間が経ったとしても、自分の愛した人間を不幸の元に置かせない。

そしていつか、こちらに振り向かせてみせる。















シュラート国の中心部から離れた場所には、王族の中でも遠い血縁の者が住まう城がある。

その中の一つのある城は、何年も変わらず美しいままの外観でひっそりと建っている。



けれど城内に侍女や召使い、ましてや王族の者の姿はない。

何年か前に王族の血筋は途絶え、仕えていた者たちは別の貴族の屋敷に散らばって行った。

もうすぐどこかの一族がこの城に入ることになるのだろう。



城が建つ丘の上から少し離れた場所には、二つの小さな墓石がある。

それはまるで互いに寄り添って、自分たちの城を見守るように。どこか遠くへ行ってしまった我が子を思うように。



青い風に運ばれてきた花びらが無数に舞う。

どこからかたまに鳥が訪れて、澄んだ声で歌っている。



誰が持ってきたのだろう、淡い色彩でまとめられた花束がその二つの墓石の前で揺れている。

今は誰も干渉する人はいない。

闇の中に消された、この城に住んでいた銀髪の少女の失踪事件も、今は誰に掻き乱されることも無く、ただ静かに眠りについていた。



























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05/11/07