今や漆黒の髪を持つ彼の目は鋭く、まるで捕食者のように見開かれた。
リーネの体にもはや力は入らない。
どうにかしなくてはいけないのに、「過去」と言うキーワードを引っ張り出されて心が負けている。

「まず俺の名から言っておこう。セルガ・スライティ」

名前にさえも反応を示さないリーネに呆れたのか、セルガはふんと鼻で笑った。

「思い出さないか?いいだろう、俺の覚えてる限りの真実を言ってやるよ」

体中から力が抜けていく。セルガの腕を振り解こうにも、声の重圧が重い。
しかしさっきの彼の名を聞いたときから、何かが引っかかっていた。
それはまるで、封印された記憶の蓋をこじ開ける鍵となるかのごとく―――。









序章  -18









多くの人々で広い会場は埋まっている。
あちらこちらでグラスを手に、久々の一族の顔合わせと言うこともあって、みな楽しそうだ。

ここシュラート国では、今日が五歳になる国王の第一王子、セルガの聖誕祭が催されていた。
煌びやかな宴に集められたのは、一流貴族や知識者、近い親戚から七世代にまで遡る遠い親戚までさまざま。
大きい見渡す限りの豪華な広間は、多くの着飾った人間で満たされていた。

その光景を、格別高い位置からじっと見下ろす一人の幼い少年がいた。
黒い髪と黒い瞳のその類稀なる容姿は、剣術の腕と豊富な知識も相成って、神童と称されるに相応しかった。

隣の席には国王である父が満足そうに座っている。
自分の方を見詰めるセルガに気付いたのか、彼はセルガに向かって優しく聞いた。

「どうだ、セルガ。素晴らしいものだろう?」
「はい、父王様」

セルガはにこと笑みを浮かべてからまた広間に目線を戻した。
数多の人々で埋め尽くされている広間は、綺麗に磨かれた床が見えないくらいごった返している。

こんなに多くの親族がいたとは知らなかった。去年も同じ聖誕祭を開いたそうだが、今年は特に多くの親族が集まったらしい。
七世代までの親族が集まったと言うことは、確か彼女は一番遠い家の出だったから、今日この場に来ているかもしれない。セルガは広間全体を見回しながら考える。

広間の隅から隅まで見渡して彼女の姿を探す。
銀髪と淡い青の瞳は、クロルド家に嫁いだ彼女の母親譲りの目立つ容姿だ。

(……いた)

広間の中でも、楽団の近くに探していた少女はいた。
周りの大人からせがまれて、はにかみながらも糸を数本張った大きい弦楽器を奏で始めている。

セルガが知る限り、彼女はありとあらゆることに長けていた。
まだ自分と同じ歳ながらも、楽団に混じって弦楽器を演奏するその姿に周りの聴衆の度肝を抜いている。
弦を弾くときに揺れる淡い銀髪が、まるでこの世に降り立った天使のようだった。

「……リーネ、か」

不意に横から聞こえた王の呟きに驚いてセルガは顔を上げる。
驚き目を瞬くセルガに、王は豪快に笑った。

彼女の名はリーネ・クロルド。本家から一番遠いクロルド家の息女だ。
幼いながらも器量がよくて、何よりも銀髪と青い瞳は他人の関心を引いた。
そしてそれは勿論、自分も例外ではない。

いけない、リーネに見惚れていた自分を見られてしまったかもしれない。
セルガは王の呟きに慌てて首を横に振った。

「い、いえ。あの少女の感性に驚いただけで……」
「平気だ。みなまで言わなくとも分かっておる」

王はそっとセルガの肩に手を掛けて、声を潜めた。

「お前も今日で五の歳だ。そろそろ婚約者を決めねばならぬ」
「はい」
「だがそうか。クロルド家のリーネか」
「はい!?」

話が本格的にずれ始めている。
どうやら王は、セルガの婚約者としてリーネを迎えようとしているらしい。

途端にぼんと顔が熱くなった。
彼女を婚約者として迎え入れられるのは嬉しいが、当の本人が何と言うか分からない。
しかし面識はある。リーネがあの時のことを覚えていればの話だが。

隣ではまだ王がふむと考え込んでいる。
その顔は何か企んでいるような、戦を前にした時と似たような表情だった。

「一番遠い家だな。そうか、それなら上手くいくだろう」

上手くいくとは何か、その時はまだ何のことか分からなかった。

「あれの母親は、クロルド家の亡き夫から多くの土地を譲り受けた。結婚となれば我が領地に加えられるだろう」
「はい」
「それに」

王はセルガの黒髪をくしゃと撫でた。

「それに、あんな美人が妻だ。話によればリーネは教養も武術も長けている。そしてリーネの母を、わたしが娶ることもできるしな」

その時はただ単に、リーネを自分の息子のために迎え入れようとして口にした言葉なのだと思っていた。
だが後に知ったことだが、リーネとセルガとの婚約話はあくまで「ついで」だったらしい。

セルガの父でもあるシュラート国王は内心ではリーネの母、アライネを好いていた。
アライネは元はと言えばどこかの国の貴族の娘で、スライティ一族の血筋は今は亡きリーネの父が継いでいた。

異国からやってきた銀髪と青い瞳を持つ娘、それが本家の王の目に留まらなかったはずがない。彼女はすぐに愛妾へと誘われた。
だがアライネはその栄誉ある誘いを靡くことも無く一言で断ったと言う逸話を持っている。
後の報復などを考えなかったのだろうか。一言で断るとは大したものだと思う。

アライネの夫は最初の子、リーネが生まれてすぐに戦死した。
彼はシュラート国軍の将官という立場上、戦場での怪我は日常茶飯事だったと言う。
無愛想でも勇壮な父と美しく心の強い母と、その間に生まれたのがリーネだった。

セルガはまた無意識にリーネを見詰めた。
生まれたのは同じ年の同じ頃、年齢の割りに器量がよくて両親譲りの度胸もある。
それに今は、病弱な母の看護を手伝っているとも聞く。

「父王様、少しこの席を離れても宜しいでしょうか?」
「ああ。気分が悪くなったら、すぐに言いなさい」

はい、と短く返事をしてから王座を立ち去る。
眼前に広がる大広間では、今でも沢山の人々が笑みを零し、談笑している。

リーネに声をかけようと思った。
セルガとリーネは同じ王族の者同士、まず不思議に思われることは無いだろう。
この機会を逃したら今度会えるのは何年後になることか分からない。

特にリーネが住むクロルド家の城は、シュラート国の中でも外れた場所に建っている。
会おうと思って簡単に会いに行けるような場所ではない。

(一度、広間に下りないと……)

王座から直接楽団へ行くのでは、人々が自分の元へ詰め寄って挨拶をせがんで身動きが取れなくなるのは請け合いだ。
遠回りになってしまうが、裏手に回ってから広間に行くルートしかない。

王座の裏手に回って薄暗い階段を下りると、ようやく広間へ続く廊下に出た。
広間の騒がしさとは対照的に廊下はしんと静まり返っている。
セルガは一回立ち止まって辺りを見回す。

どうやら右手の奥にある茶色の大きな扉が広間への扉になっているようだ。
階段の最後の一段から下りようとしたその時、ぎいと扉の開く音が耳に飛び込んできて、思わずぴたと足を止める。

扉がゆっくりと開く。誰かが広間から退出してきたらしい。
もしかしたらここにいる自分の姿に気付いてしまうかもしれない。
セルガは心臓の拍動する音を間近に聞きながら、尚も階段の上でじっと息を潜めた。

しかし目の前を横切って行ったのは、風と同化する銀髪を持つ少女だった。
予期せぬ出会いに、セルガは思わず驚いてそのまま固まってしまった。
少女は階段の近くにいるセルガには気付かないまま、階段の前を小走りで駆けて行く。

「……リーネ?」

銀髪のまだ幼い少女は、確かに今まさに会いに行こうとしていたリーネ本人に違いなかった。
けれど垣間見たリーネの表情はどこか苦しげで、いつもとは違った。
さっきまで楽団にいた時の嬉しそうな笑顔はどこに消えたのか。

いったい何があったのだろう。
反射的に、足が彼女の後を追っていた。













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05/11/07