序章  -17









声が聞こえる。数え切れないほどの生きている者たちの声が。
泣き叫び、幼い我が子を胸に抱えて、攻め入ってきた軍から身を守ろうとする人々の声が。

けれど兵は容赦なく民家を潰し、人々に剣の先を向ける。
声だけではなく街の風景までもが頭の中に浮かび上がってきた。
王妃になったからなのだろうか、今までこんな経験はなかったと言うのに。

リーネは意を決して顔を上げた。
炎の光が城周囲の木々を真っ赤に照らしている。その光景はさっきと変わらない。

(落ち着いて……)

とにかく街を火の海から救わなくては、このままだとすべてが燃え尽きてしまう。
リーネは高ぶる興奮を抑えて気を静めた。

前に水に溺れた侍女を助けたことがあったではないか。
あの時と同じように、水の力を使えばこの火も消し止められる筈だ。
ゆっくりと開いた手のひらが、いつもより頼もしく思えた。

街へ行かなければ、と誰かに耳元で囁かれた気がする。
もう具合が悪いなどと言っていられない。王妃として、一人の力を持つものとして、何とかしなくては。

「ああ、やっと見つけた」

どこからか声が聞こえて、リーネは驚いて辺りを見回した。
さっきまでこの部屋には自分一人だけだったというのに、いったい誰なのだろう。
サーンの声、とは少し違うような気がした。

リーネはふと、部屋の扉付近に誰かがいることに気付いてじっと目を凝らした。
部屋が暗いために顔がよく分からない。
召使いの誰かが無事を確認に来たのだろうか。リーネは不思議に思いながらも近寄る。

「変わってないな……」

雲間から再度顔を出した月明かりが、ちょうど部屋の中にまで流れ込んできた。
扉を開けている誰かの姿がぼんやりと浮かび上がる。

そこに立っていたのは、自分より頭一つ分高い少年だった。
同じ歳くらいの、濡れたような漆黒の黒髪に滑らかな黒い瞳がこちらを見下ろしている。口元は微かに笑んでいる。
だが彼の服装は召使いのものではなく、もっと権力のある者が身に付けるものだった。

リーネは目を丸くしてその場に固まった。
ようやく分かった。彼はこの国の者ではない。
鮮やかに装飾が施された衣服や甲冑には、微量の赤い染みが付いていた。

(敵国の首領……!)

そうと分かったものの、肝心の体が動かない。
こんなに近くに、しかも目の前に立たれてはどうしようもないのは一目瞭然だった。

それに彼は腰に数本の長剣を差していたが、自分はといえば丸腰だった。
万が一このまま切り付けられでもしたら間違いなく急所をつかれて終わりだ。
リーネは恐怖から一歩後退りした。

しかしその一瞬の恐怖を彼は逃さなかった。
彼は逃げようとするリーネの腕を素早く掴むと、こともあろうかそのまま部屋に入ってきた。

「は、放して下さい!」
「お前はもう国の王妃になったのか」
「ご存知なら、私はあなたを迎え撃ちます!」

リーネは掴まれた腕を、無理矢理振り解いた。

「要求は何でしょうか。富、土地、それとも名誉を?」

だがこれは幸運だと言えるだろう。
敵国の首領ならば、自分がここで足止めをしていればいい。あとの兵はサーンが力を使えば何とか対処できる。

それに万が一切り付けられそうになったならば、力を使える。
この少年はエターリア国に人智を超えた力を持つものが二人もいるとは思っていないだろう。

あくまで真剣に要求を聞くリーネの何が可笑しかったのか、少年は突然笑い出した。
いったい何が可笑しいのだろうか。リーネはきっと彼を睨み付ける。
しかし少年は捩れた腹を抱えながら、まだ笑っている。

「なるほど、あの女の望み通り記憶も失ったわけか。……いや、それにしても」

彼の笑いは治まるところを知らないらしい。
少年は息も絶え絶えと言った感じに、飽きもせずまた大きく笑った。

掴めない。さっきから何がそんなに可笑しいのだろうか。
いや、それよりも彼の言葉に引っかかるものがありはしなかっただろうか。

(記憶を、失った……って)

リーネはその場に呆然と立ち尽くした。
知っている。彼は少なくとも自分の記憶の中の何かを知っているのだ。

「あなたは、何を知っているのです!」

焦りと怒りが複雑に交じり合って抑制が効かない。
でもまさか、何故敵国の首領が失った記憶のことを知っているのだろうか。

それになにより、物心つく以前の記憶が無いのが彼に嘲られたようで許せなかった。
ずっと過去の真実を知りたいと願っていたのだから、尚更リーネは憤慨する。
少年はリーネの心情を察したのか、ふうと笑うのをやめて、それでも顔に笑みを浮かべながら近寄ってきた。

「それを教えてやってもいいが、その前に契約をしないか?」
「……契約?」

馴れ馴れしい喋り方だ。まるで昔に、一度会ったことがあるような。

「そう。俺達の国に帰って、そこで俺の妻となる契約だ」

彼の言葉が終わるか終わらないかの内に、条件反射でリーネの手は少年の横っ面を引っ叩いていた。
反動で横を向いた彼の顔を、じっと強く睨みつける。

いったいこの少年は何のつもりでそんなふざけたことを言い出すのか。
妻になる、その意味が今になってじわじわと分かってきた。
つまりこの国を占領して、現国王であるサーンの命を奪うと言うことだ。

そんなことどんなに金を積まれても承諾しない。
こんな横暴な少年の妻になるなど、こっちから願い下げだ。

「冗談おっしゃらないで下さい。俺達って、私はあなたの下にいた者でもありませんし、ましてやあなたの知り合いでもありません」

彼は何か勘違いしている。リーネは彼と知り合ったことなど一度もない。
今までエターリアの街中で極力外出を避けて暮らしてきたのだから、知っているはずがない。他国の人間なら尚更だ。

二人の間に沈黙が流れてからしばらく後、チッと小さい舌打ちが聞こえた。
リーネは急に持ち上げられた腕に驚いて目を見開く。
目の前に立つ黒髪の少年に、さっきよりもぎりぎりと強く腕を掴まれていた。

「そこまで言うなら教えてやるよ。契約も何もかもあとで決めることになるが、それは俺に決定権がある!」
「……な、にを」
「知りたければ知れ!お前の呪われた過去とその末路を、自分の頭に聞くがいい!」

さっきまでのこちらを懐柔するような瞳も怖かったが、見開かれた瞳も更に恐怖を掻き立てた。
リーネはただ彼の言葉を鵜呑みにすることしか出来なかった。

何も分からない、知らない、教えられていない。
ずっと昔に消え去った過去は、ここまで来ても芽を出してはくれないのだろうか。

(昔に、何があった……?)

心の奥深くで眠っているはずの幼少期の記憶が、微かに声を上げたような気がした。













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05/11/03