いや、まさか本当に熱を出して寝込む羽目になるとは思わなかった。 やはりすぐに着替えなかったのがいけなかっただろうか。 リーネは布団の中で熱にうつらうつらしながら、頭の中では色々な思いが去来していた。 数日は何とも無かったのだが、あとになって急に熱が出たのだった。 最近の悪天候に比例してなのだか分からないが、具合は悪くなっていく一方だった。 「リーネ、耐えられなくなったら呼んでくれ。国務室にいるから」 サーンの見舞いの言葉も意識の向こうに消えてしまいそうだ。 いつ彼が訪れたのかさえも分からないほど意識は混濁していた。 例の暗雲は去ろうともせず、未だエターリアの周りの山々に支えられている。 雨も降らずにじめじめとまったく嫌な天気である。 リーネはベッドの中からちらと窓の外のエターリア国を見守った。 序章 -16 どうやら一日寝込んでようやく熱が大分下がったようだ。 昨日まで身体中が燃えるように熱かったが、今日はだるさが残っているだけで歩けそうだ。 今日はもう既に日も暮れていて、夜の空の中に幾千の星が瞬いている。 窓を少しだけ開けているから時折入ってくる夜風が涼しい。 珍しく雲の切れ間から覗いた月の青白い光が、ひっそりと静まり返る街に降り注いでいる。 リーネは少しの吐き気に悩まされながらも上体だけを起こして窓の外を見た。 星だけではなくて月まで顔を出している。辺りは冷たいくらい透き通っていて気持ちいい。 けれど何故だろうか、ずきりと頭に痛みが走る。 歯を食いしばって耐えるも、痛みは遠慮もなくずきずきと酷くなるばかりだ。 まだ小康状態のためだろうか。 「駄目……」 何かが心の中を揺さぶる。 何かが異変を伝えようとしている。それなのに分からない。 自分でも脈が速くなっていると、心臓の鼓動が速くなっていると分かる。 いつもと同じ夜なのに何故だか落ち着かなくて胸騒ぎさえ感じてしまう。 (あなたは、誰?) まただ。頭の片隅を、こちらを嘲笑うかのように掠めていく姿。 いつのことだったか。誰かの言葉が遙か昔の中で蘇る。 遠い昔の出来事。忘れ去られた自分の過去の記憶。 怖い、思い出そうとすればするほど鍵がかかったみたいに思考は止まる。 思い出さなくてはと思うのに、思い出したくないと嘆くもう一人の自分がいる。 昔に何があったのだろうか。 そんなこと街にいた時はあまり考えなかったと言うのに。 「……やっぱり、気持ち、悪い」 リーネは気だるい身体を無理矢理起こした。 部屋の空気が悪くなってしまった気がして、窓をもう少しだけ開けようとベッドから下りる。 本当にこれまでに無い綺麗な夜だというのに、体調を崩すだなんて勿体無い。 街にはいっそう月の光が流れ込んできている。 サーンはもう床に就いただろうか。 自分の身を気遣ってそっとしてくれることは有難かった。 明日は何とか公に顔を出せそうだ。彼に見舞いの礼を言わなくては。 リーネは明日の簡単な計画を立てながら窓枠に手を伸ばす。 けれどその時、今まで流れていた風がぴたと止まった。 (……え?) どおんと大きな音が、今までの夜の静寂を突き破る。 大地が不規則を伴って激しく縦に揺れた。 窓辺からうっかり手を離してしまったリーネは、足元から崩れて尻餅をついた。 建物が、城が、エターリア国が大きく揺れている。 「な、なに?」 揺れは不気味なほどすぐにおさまった。 しかし異変はそれだけでは終わらなかった。 リーネが恐る恐る腰を上げようとするとその前に勢いよく、窓いっぱいに赤色が広がった。 思わず窓からその身を乗り出していた。 エターリア城から見る街の上に、ごうごうと燃え盛る真っ赤な火柱が、天にまで突き出している。 あまりの衝撃に我が目を疑った。 街は目を覆いたくなるほど燃え盛る炎に包まれて、混乱して逃げ惑う人々で溢れている。 燃える民家と民の間を何百と行き来する黒い人の粒がある。 彼らはなにか鋭いものを持っている。それで家と言う家を潰して回っている。 訳が分からない。だが、リーネは突然頭の中に響いた声に驚いてうずくまった。 「やめて!」 頭の中に人々の叫び声が何万と木霊する。 交じり合う鋭い硬質の剣の音も響いてくる。 遠くからでも分かった。どこかの国の軍がエターリア国に攻め入ってきたのだ。 夜襲だ。何の恨みがあってかは分からないが、攻め入られている。 心臓が急にどくんと大きく唸った。 人々の助けを願う声が悲鳴となって夜の空に響く。 蘇る。遙か昔に似た記憶があって、その情景がほんの一瞬だけ頭の隅を掠める。 ―――行きなさい。 今の記憶は何だったのだろう。 銀髪の誰かがこちらをみて辛辣そうな表情をしていた。 けれどそれは本当に一瞬で終わってしまった。 気だるい体に無理矢理鞭打って、リーネはとにかく立ち上がる。 胸騒ぎがする。今までのどれよりも強い胸騒ぎが。 さっきの揺れは恐らく、エターリア国のどこかを爆破した音だ。続いて立ち昇った火柱は街を焼き払うためだ。 もうこれは迎え撃つしか手はない。 街から放たれた赤い炎は、東の端に位置する城に徐々に近付いてくる。 城の者もみな起きたらしく、城内が急に騒がしくなる。 リーネはぐっと胸の前で震える両手を握った。 (どうにかするしかない、私が……!) どうやら城の位置は国の中心部ではなく、郊外の外れた場所だったようだ。 まったく探すのにも一苦労だ。 しかも辺りは深い木々に覆われていて、いっそう見つけ難くなっている。 密林で覆われていたエターリア城を見つけて、勝ち誇ったように見上げる少年の目は笑っていた。 まだ若いというのに、周りのどんな兵よりも格段と豪華な出で立ちをしている。 それは彼が軍の中でも特別な位置にいる者なのだということを示している。 「セルガ様」 セルガと呼ばれた少年の足元に、部下と見える甲冑をまとった男が跪く。 「国内の民家や貴族の屋敷は粗方捜し終えましたが、例の少女の姿はどこにも……」 「だろうな。あの容姿ではここに入るのが普通だ」 かちゃり、と長剣を鞘にしまう。 別に剣など使わなくてもよかったのだが、力を使うとどうも肩が凝る。 ようやくエターリア城内の者もこの騒ぎに気付いて起き出したらしい。 平和ボケした国だ、と内心で嘲笑う。 自国の地理に完璧な信頼を置きすぎて、もし他国の軍が攻めて来たらなど考えていなかったのだろう。 セルガは頬についた血痕を親指で拭った。 彼の足元には、何十ものエターリア城に仕えていた近衛兵が倒れている。 「我が軍に命じる。街に散らばる兵をすべてこの城の前に集めろ」 「はい。承知しました!」 「いいな、すぐに、だ。準備が出来次第、奇襲をかけるぞ」 街からは絶え間ない悲鳴が今も背後から木霊している。 次は国の本拠地でもあるこの城の中から悲鳴が聞こえる番だ。 そして本来の目的は、例の少女を手中に入れること。 エターリア国はもはや混沌と化している。 セルガは街を燃やす炎を背に、禍々しい笑みを口元に浮かべた。 「終わりだ」 BACK/TOP/NEXT 05/11/02 |