冷気を纏った夕闇が、そろりそろりと広いラルコエドの大地に忍び寄る。 遠方に連なる山の際には、たった今沈んだばかりの夕日の橙色がじんわりと滲み出て、未だに街を歩き回る人々にそっと今日の終わりを告げた。 そのどこか幻想的な色彩は、迷路のように広大なラルコエド城の中にまで染み込んでいた。 真澄は、だんだんと沈みゆく夕陽を目蓋の上に感じながら、手元の大きな温もりを囲むように優しく抱きしめた。 そのまま鼻を近づける。すると、薬品のような陽だまりのようなひどく複雑な匂いがした。また彼はどこか怪我でもしているのだろうか、と、ふと思う。 「で、なんでこう言うことになってんだよ……」 真澄の頭上で、それまで無言だったシルヴィオが唐突に呟く。その口調はどこか不満げでもあったし、恨めしげでもあった。 しかし、シルヴィオがこの状況に戸惑ってしまうのも無理なかった。なにせこのときの真澄とシルヴィオは、シルヴィオのだだっ広い執務室の隣にある真澄の部屋のベッドの端に腰かけながら、互いになにをするでもなくただ抱き合っていたからだ。 いつの間にかシルヴィオが人払いをしたらしい。普段は壁際に控えている侍女や秘書などの姿は、今や周囲から忽然と消えていた。 「え? だって、シルヴィオがなんでも一つだけ願いごとを聞いてくれるって言うから」 真澄は意外だと言わんばかりに、きょとんと目を瞬かせながら顔を上げた。すると、シルヴィオは呆れたような盛大な溜め息を一つついた。 「俺は餞別に欲しいものを聞いたんだ。お前明日帰るんだろ、明日」 「だってぎゅってしたかったんだもん」 真澄はそう言ってから、えへ、と、シルヴィオの顔を見つめたあとで笑ってみせる。 すると、それまでどこか無愛想だったシルヴィオの顔は、みるみるうちに真っ赤になっていった。 きっと、今のこの状態ではなにをもらっても手放しで喜ぶことなどできそうになかった。 明日目が醒めれば、自分は偉大な魔術師エディルネである母の手によって元の世界へ戻っている。そうして、少なくともあと二年間は、シルヴィオに触れることはおろか、相見えることすらかなわなくなるのだ。 そうやって現実を受け入れれば受け入れるほど、真澄はシルヴィオが確かに存在していたのだとい言うことを実感したかった。 それに、今までふとした瞬間にシルヴィオに抱きしめられたことがあったが、どれも嫌いではなかった。むしろシルヴィオの持つ独特の雰囲気と温かさはなによりも安心できた。 ああ、愛おしいな。愛おしすぎるあまり胸の奥がきゅっと締めつけられそうになる。それなのに、あたしはこの温もりを明日には手放すことになるのか――。 真澄は、元の世界に帰る日が明日にまで迫ったことを再度思い出して、シルヴィオの身体に追い縋る手にぐっと力を込めた。 「シルヴィオ、温かいね」 「そうか? お前は少し冷えてんな」 「さっきまで外でいろいろな人に会ってたからかも」 出立前日までなにやってんだお前は、と零しながら、ついと、シルヴィオの長い指が真澄の黒髪を梳かす。真澄は最初反射でぴくりと肩を震わせたが、それ以上は彼の好きなようにさせておいた。 そうやって壊れ物を扱うような手つきで髪に触ってくるシルヴィオの指も、腰に回っている彼の大きい手のひらも、なにもかもが離しがたかった。 今日と言う日が飴細工のアメのようにぐにゃりと延びて、永遠に続いていけばいいのに。 とてもあり得はしないことを考えながら、真澄がどこからかやってくる眠気を意識し出した頃、唐突にシルヴィオが口を開いた。 「……俺の国の格言でな」 「うん?」 「“据え膳食わぬは男の恥”っつー言葉がある。今急に思い出した」 どこか明後日の方向を見据えて素っ気なく言うシルヴィオに、真澄は思うところがあって小首を傾げた。 「あれ? それあたしも聞いたことがある」 「そうか、お前の国にも似たような言葉があるのか。どこの先人も同じことを考えるんだな……。つーか、今ならその言葉の真意を実感できる」 それってどう言うこと? 真澄がシルヴィオに聞き返そうとしたとき、突然真澄のひらひらとした服の肩の部分にシルヴィオが顔を埋めた。そのまま、今まで真澄が体験したことがないくらいの強い力で抱きしめられる。 「ここでお前に干渉しすぎたら、お前は二度と戻ってこない気がするんだ」 待つ側と待たれる側と、いったいどちらがつらいのだろう。 真澄は、はっとした。自分だけではないのだ、シルヴィオもこの現状に少なからず不安を抱いている。 先程シルヴィオが口にした格言の意味は忘れてしまって答えようがなかったが、真澄はなおも己の肩の部分に顔を埋めているシルヴィオの背中を、ぽんぽんと軽く叩いた。 「大丈夫だよ。あたし、きっと戻ってくる。それでシルヴィオの傍にずっとずっと立ってあげる」 真澄としては、それは二年後にちゃんと戻ってくると言う意味を多分に含んだ宣誓の言葉だった。 しかし、それまで黙っていたシルヴィオはおもむろに顔を上げると、なんだか解せないような難しい表情をして真澄の顔を覗き込んだ。 「そこは絶対って言えよ」 「未来のことは誰にも分からないじゃない」 「言っとくのはタダだろ」 「そうだけど、でもあたしが元の世界に戻ったときそこで死んじゃうかもしれないでしょ? そうしたら約束を破ることになるもの」 途端にシルヴィオは眉間に深い皺をつくって、はあと嘆息した。 「なら、俺は生涯誰もいらねえ」 「は、はあっ?」 「お前がいなくて他に誰を娶れっつーんだよ。意味ねえだろ、そんなの」 シルヴィオの右手が真澄の顎を掴んで強引に上を向かせる。同時に、いつものつんと澄ましたシルヴィオの顔が、真澄の視界いっぱいに飛び込んできた。それは真澄が再びラルコエドの土を踏むことに、一分の揺るぎも許さない、絶対の自信を持っている顔だった。 ずるい。そんな表情をされたら、なにがなんでもラルコエドに戻ってくる他ないではないか。 シルヴィオの手が離れて、真澄はシルヴィオの胸に強く額を押しつけながら、小さく、それでも確固とした口調で言った。 「……絶対、戻ってくる」 「そうしろ」 不思議だった。それまで抱いていた未来への不安が、シルヴィオの一言だけで払拭されてしまったようだった。 けれど、やっぱりどこかおかしいな、と真澄は思う。今日は自分にとって最も未練の残る日だったはずなのに。そこまで考えて真澄は、ああそうか、とこの違和感がなんなのかを思い出した。 そう、確か今日は――。 出立前夜 (甘い日々は、いつかまた会うときまで) 冬コミ番外編刊行記念 BACK 2012/12/26 |