Wahrheit -02 窓辺からは眩いほどの日差しが燦々と降り注ぎ、耳を澄ませば遠くから人々の話し声が聞こえる。 天を仰げば日に焼けて黄ばんだ天井がぼんやりと宙を漂い、逆に視線を手元に落とせば、生成色をした薄い布団が今の自分の上に覆いかぶさっている。 真澄は、一回ゆっくりと瞬きをした。そしてすぐに、もう何回か目を瞬いた。 お世辞にもラルコエドに来てから今まで自分が生活していた場所と同じとは言えない、むしろ比べ物にならないくらい狭い部屋が、いつの間にか現実としてそこにあった。 数羽の鳥が、じゃれ合っているのだろうか、窓の外で一度けたたましく鳴いたのが聞こえた。 (……夢) さっきまで目にしていた光景は全部は夢だったのだと、そう気付いたのは大分あとになってからだった。 どちらかと言うと、どこか狭い部屋に寝かされている今の方が余程夢みたいだと思ってしまいそうになるのだが、この部屋独特の匂いや手元でくしゃくしゃになっているシーツの手触りなどがいかにも現実染みていて、やはり先程の暗い通路を必死で駆けていた件は幻だったと知る。 だが、そうなると果たしてどこからが夢だったのだろう。真澄は若干の不安を感じながらも、少しだけ寝返りを打った。 シルヴィオと別れたところまでは現実だったはずだ。それだけは自信を持って言える。では、あの見知らぬ平野に放り出されたときからだったろうか。それとも浮遊感を感じた瞬間、カラスの姿をしたガラヴァルが現れた頃から夢は始まっていたのだろうか。 いやそもそも根本が間違っていて、この世界にきたところから自分は夢を見ていたのだろうか。 そうやって思い出そうとすればするほど、どれが真実なのか分からなくなる。 いっそシルヴィオと最後に見えたのも、あれさえももしかしたら夢だったのでは、と言う気さえしてくる。 すべてが、夢。 だとしたら、自分は今までなんてひどい夢を見ていたのだろう。 夢くらいは理想であってほしいのに、自分はとことん報われない夢を見続けていたのだ。しかも終わり方が「あれ」では、寝覚めが悪いにも程がある。 「ママ! 早く!」 真澄の脳裏に、ふと暗い空間の中にぽつりと横たわるシルヴィオの動かない四肢がよぎった。 そこへ甲高い幼子の声が響いてきたので、真澄ははっと我に返る。 「ほら! だから言ったでしょ? 本当にお姫さま起きたんだよ!」 「ああ、本当だ。あんた、大丈夫?」 真澄が声のした方を向くと、目を開いたときに真っ先に見かけた少年が部屋の出入り口と思しき場所に立っていた。 彼は今、一人の大人の女の手をぐいぐいと引きながらしきりに、「嘘じゃないでしょ?」と甘えた声を出している。 少年の横に立つ金髪で浅黒い肌の、細身ながらも体格のいい女は、片手に数本の花を携えたままこちらを見て驚いているようだった。 「あれ、起きたんだよね?」 真澄がなにも言わないのを不思議に思ったのか、女はベッドの傍まで来ると真澄の顔の前でひらひらと手を振ってみせた。 真澄はベッドの上に半身を起こしたまま、そんな女の顔を見つめ返した。 「え……」 「事情が分からないのも仕方ないけれど、とりあえずなにか口にしなさいな。三日三晩寝っぱなしだったから、お腹空いたろう?」 それだけを言い残すと女は部屋を出ていって、それからすぐに椀を手に戻ってきた。 そう言えば空いているような気もする。 とにかくまだ事情が飲み込めない真澄は、ありがとうございます、と小声で呟いて、女が差し出すその椀を恐る恐る手に取った。 しかし中身を覗いてみて驚いた。 椀に盛られていたのは、原形などありはしない白くどろどろとした食べ物だったのだ。 まるで粥をさらに数時間煮立たせてしまったかのようなものが、真澄が手にする椀に盛られていた。 小さい木の杓子がついていたので恐らくこれで食べろと言うことなのだろうが、本当に食べられるものなのだろうか。 真澄はそれを掬って口にする前にちらと女の顔を見たが、彼女は至極あっけらかんとした、当たり前だと言わんばかりの表情をしていたので、途端にあれこれ憂慮するのをやめた。 ここではこれが普通なのだ。郷に入っては郷に従えとは、なんと素晴らしい諺か。 そう自らに言い聞かせてその白い食材を口に運んでみれば、やはり予想通りの味と食感がした。とても粥っ"ぽい"。 そうして一口二口と食べ始めてから、真澄はこちらをじっと見つめてくる少年の視線に気づいた。 「あの……」 真澄の一挙一動をも逃すまいとする彼の顔がなんだかおかしくて、真澄としてはあくまで気軽に少年に声をかけようとしたのだが、真澄が問うなり彼はぴゃっと女の背後に隠れてしまった。 女はそんな少年をやんわりと叱ると、真澄に向かって苦笑した。 「いいのいいの、あんたは食べな。でもあまり急に食べると、お腹が驚いて死んじゃうからね」 真澄はそんな女と少年――と言うよりは親子だろうか――を見比べながらふと淡い疑問を抱いた。 思えば目を覚ましてからすぐに世話をしてもらったがゆえに、ここがどこなのか、そして自分によくしてくれるあなたたちは誰なのかを聞いていない。 ここは少なくともラルコエド城ではない。では、この親子はいったい「どこ」の「誰」だ? 真澄は訝りながらも粥っぽいそれを食べる手を止めようとはしなかった。 ひょっとすると餌付けされているのかもしれない。食べながら一瞬そんなことを考えたりもした。 「お腹はびっくりすると死んじゃうの?」 「そうだよ。お腹はとても大事なものなんだからさ」 しかし仲睦まじい二人のやりとりからは、自分を取り込もうなどと言う、そんな空気は微塵も感じられなかった。 いろいろと考えあぐねた真澄は、ややあってからようやく杓子を置いた。 「あの、すみません。ここは……」 真澄が口を開くなり、戯れていた親子は動きを止めてこちらを見た。 「ここは……どこ、ですか?」 数秒の間があってから、女が怪訝そうな顔で答える。 「どこって……花屋だけど」 「あ、そうじゃなくて、あの、できればここの国名を……」 「ああ、ラルコエドさ」 「えっ」 真澄は思わず身を乗り出していた。身体の奥が、変な興奮で一気に熱くなる。 ここが花屋と言うことにも驚きだが、この花屋の所在地が「未だラルコエドの名を冠している土地」にあることの方が衝撃的だ。 「あのっ、まだ……まだラルコエドなんですか!?」 真澄の威勢に驚いたのか、女はきょとんと目を瞬かせると少し考えたあとで言った。 「お姫さん、あんたもしかして国外に行きたいのかい? でも、そうなったらまだ随分とあるよ。なにせまだここは王都だからねえ。ラルコエド国を出るには、ここからまだかなり行かないと。結構遠いよ」 「え!?」 どういうことだろう。ラルコエドは、西の隣国であるフロール国に制圧されかけていたのではなかったか。 それにもしあの出来事までもが夢でないのなら、確か自分はフロール国に連れて行かれそうになっていたはずだ。 こうなってくるとますますわけが分からない。 だが真澄は混乱しながらも、必死に現状を把握しようと寝起きの頭を稼働させた。 「で、でも! 戦争が……」 「ああ、フロール国との? そうか、お姫さんはちょうど寝込んでいたときだったからねえ」 真澄の言いたいことをなんとなく察したのか、女は合点がいったかのように軽く頷いた。 「それなら数日前に終わったよ。微妙なところだけど」 「違うよ! ちゃんとラルコエドが勝ったんだ!」 「はいはい」 その曖昧な答え方が気に喰わなかったのか、少年が女を見上げてぷうと頬を膨らませる。 一方で女は足元に纏わりついてくる我が子を、またかとでも言いたげな憂鬱そうな顔で宥めている。 だが真澄はそれどころではなかった。 自分が寝込んでいた間にこの国は重大な局面を迎えるどころか、それはあろうことか走り去ったあとだったのだ。 「じゃあシ……こ、国王は無事なんですか!?」 「そりゃあ無事でいてもらわなきゃ私たちは困っちゃうよ。なにせあの方はまだお世継ぎがいらっしゃらないんだし、また別のお偉いさんが国王となればいろいろと国の事情も変わってくるからね」 この瞬間、真澄はさっきまでしきりにどこからが夢だったのだろうと考えていたことや、この親子の素状を見抜こうとしていたことなどすべてがどうでもよくなった。 起きてからずっとなにか重いものを背負っていたと思っていた、その理由がやっと分かった。 女の素っ気ない言葉を頭の中で何回も繰り返してみて、ようやく真澄はその意味を知った。 途端に真澄は肩の力がすうと抜けていくのを感じた。 するとすぐに目頭がじんわりと熱を放って、胸の奥からは言葉にできない様々な想いがあふれ出る。それを抑え切れずに、真澄はぎゅっと身体を半分に折ると布団に顔を埋めた。 「うわっ! お姫さま泣いてる!」 よかったよかったよかった。真澄はそれだけをうわ言のように繰り返し呟いた。 シルヴィオが生きている。シルヴィオは生きている。シルヴィオはまだ、こちらを向いてくれる。 だがここで安堵したのは、決してシルヴィオが死んだのは自分の所為ではないと分かったからではない。 いや、もしかしたら心の片隅ではどこかそう思っていた自分もいるのかもしれない。 けれど、しかし仮にそうだとしたら、こんなにも胸が苦しくなるまで彼に会いたいと切望する自分は絶対にいないだろう。 どうしたの。どこか痛いの。 横から小さな声で怯えながら聞いてくる少年に対して、なにか言わないといけないと思いつつも真澄は首を横に振ることしかできなかった。 そしてすぐに真澄は、会いたいと思った。 彼に、シルヴィオに会って、またあの声を聞きたいと思った。 けれどもし、自分とシルヴィオだけが敵の手の中にいて、それになによりシルヴィオが縛り上げられていたあの場面までが現実だったとしたら、とてもではないが彼と再会しようなどと言う甘ったれた未来に手を伸ばすべきではないと考えてしまうのも事実だった。 BACK/TOP/NEXT 2010/01/04 |