Wahrheit -01 後ろを振り返ってはいけない。 振り返るな。決して、振り返ってくれるなと、真澄は必死に自分に言い聞かせる。 「はっ……は……」 背後から恐怖と言う名の誘惑が迫ってくる。しかしそれに唆されれば最後、地獄を見るだろう。 ちらとでも振り返れば、そこにはきっと嫌な光景が広がっているはずなのだ。 息は既に切れていた。喉の奥も熱くなって、時間と共にひりひりとした痛みが増してくる。 しかしそれでも真澄は走り続けた。なぜなら、走ることをやめればその瞬間に「捕まってしまう」からである。 誰に捕まるのか。肝心のその部分は分からなかったが、ただ捕まるのだけはなんとしても避けなければと思っていた。 灰色の冷たい石で造られた通路は、横道などどこにもなく、ただ一本の道となって前へ前へと延びている。 真澄が見る限りではどこにも明かりと言えるものはないのに、通路全体はどことなくぼんやりと薄暗かった。 たまに道がぐにゃりと大きく湾曲する部分もあるのだが、今の真澄にとってはそれが逆にありがたい。少しでも道が折れ曲がっていれば、こちらからは相手の姿が見えないし、相手も自分を認識できないであろうからだ。 そんな無機質な通路を、真澄は必死に駆け抜けた。自分の足音だけが鋭い音となって辺りに響いては、壁に反射して幾重にも木霊する。 そうしてどれくらい逃げ続けていたのだろう。しかし真澄は、同時になにかを探していた。 自分でも分からない、けれどとても大切ななにかを、真澄はどこかに置いてきてしまったとずっと考えていた。 あわよくばこの逃亡の最中でその大切なものを見つけることができれば救われるとさえ思えた。この言葉では言い表せない恐怖から、その大切なものは我が身を守ってくれる気がした。 (……あれ) だいたいそんな考えに至ったとき、真澄は通路の終わりを見た。 何度目かの大きく湾曲した通路を曲がりきった真澄の眼に飛び込んできたのは、数メートル手前でぷっつりと途絶えている通路の壁だった。 途絶えた通路の先には、通路と同じ材質で造られたことを窺わせる冷たく広い間がぽっかりと大きく空いていた。 無意識に心臓の拍動が徐々に早くなっていく。 真澄は今までのペースを保ったまま、半ば飛び込むようにしてその広間に足を踏み入れた。 (……なんだろう) 一室にしてはその天井は無駄に高く、暗がりでよく分からないのだがかなりの床面積もある。その雰囲気を譬えるならば、それはまるでどこかの古びた礼拝堂みたいだった。 真澄は追われていることも忘れて、ゆっくりと走るのをやめた。 どこか厳粛な空気が漂う広間は、なぜか「異様」だと感じられる。 荒んだ気分を鎮静化させてくれるような広間の持つ独特の様相にしばらくぼうっとしていた真澄は、しかしすぐに誰かの気配を感じてびくりと肩を強張らせた。 今真澄がいる場所からいくらか離れた硬い床の上、そこだけぽつりと明かりが灯されていて、遠目に人がいるのが見える。 月明かりだろうか。どこからか差し込む青白い光に映し出され、その人物の外形は近寄るほどに鮮明になっていく。 真澄は小首を傾げながらもそこにいる誰かを見定めようと近寄った。 だが歩き出して数歩ともいかないところで、真澄は驚嘆と共にはっと息を呑んだ。 「シルヴィオ!」 それが誰かを悟った真澄は、気づけば再び駆け出していた。 「シルヴィオ!」 シルヴィオだった。光に照らされていたのは、床にうつ伏せになっているシルヴィオその人だった。 真澄はここにきてすべてを理解した。 ああ、自分が今まで必死に探していたのは、心のどこかで置いてきてしまったと嘆いていた大切ななにかとは、シルヴィオだったのだ。 最後に見たときと変わらない、真白すぎるくらいの軍服と繊細な銀髪は間違いなく彼のものだ。 シルヴィオの傍に膝をついた真澄は、今はこちらに後頭部を見せているシルヴィオの顔を覗き込もうと身をかがめた。 (……シルヴィオ?) 触れてはいけないような気がしたが、真澄はそっと彼の衣服に触れた。どこからか、かちゃりと寂しげな音が聞こえた。 「ね……起きて」 そっと声をかけて、最初は小さく、次第に大きくその肩を揺する。 早くしなければ追いつかれてしまうよ。捕まってしまうよ。そんな警告の文句を呟きながら、真澄はシルヴィオの身体を揺さぶり続けた。 しかしどんなに強く呼びかけてもシルヴィオはぴくりとも動かない。 さすがにこれは不審だと思った真澄だったが、とりあえずシルヴィオの顔だけでも見たくなった。 今は背を向けているが、一旦彼の顔をこちらに向かせれば、ほっと安堵できる見慣れた面立ちがそこにあるのだ。 銀の睫毛に縁取られた瞳が、真澄が覗き込むと同時に、眠り姫を思わせる優雅かつ静かな仕草で開かれるはずなのだ。 真澄はすっとシルヴィオの頭部に手をかけた。 しかし彼の頬に触れようとしていた指先は、どうしてか真っ先に彼の首先に当たってしまった。 瞬間、真澄はぱっと両手を引っ込めた。 ごとり、と、真澄の動きに煽られて、銀の糸をまとった頭部は鈍い音を立てた。 (なん、で……) 信じられないと言う想いで、真澄はこちらに背を向けたままのシルヴィオの姿を凝視した。 長身の体躯は、相変わらず床に伏したままだ。一方で、真澄の指先には、先程彼の首元に触れた際に感じた不自然なまでの冷たさが残っていた。 あの冷たさは、あれでは、まるで――。 「シルヴィオは死んだよ」 突如背後から響いてきたアルトの声に、真澄は勢いよく振り向いた。 真澄から少し離れた場所には無表情のサシャが立っていた。 「え……」 「シルヴィオは敵に捕らえられた真澄ちゃんの代わりに出ていったんだ」 急な話が飲み込めずに唖然とする真澄に向って、サシャは喋り続ける。 「真澄ちゃんがどうやって敵国の軍隊に捕まったのかは分からないけど、"ラルコエド国王が単独で交渉にくれば真澄ちゃんの身は保証する"と、敵国の、フロール国側はそう要求してきた」 真澄はそのとき、今まであった出来事を一気に思い出した。 どうして自分とシルヴィオが敵の手中にいたのか。どうしてラルコエドの人間はシルヴィオの他に誰一人として姿を見せなかったのか。 「でもシルヴィオは分かっていたはずなんだ。それは罠なんだって、知ってたんだ。出ていけば自分が捕まるってことくらい、ほんと、馬鹿なやつ……。でも、それでもシルヴィオは周囲の大反対を押し切っていってしまった」 ――待て! そいつは俺の代わりに解放すると言っただろう! 確かシルヴィオは、そう叫んではいなかったか。 自分がどこかに連れていかれそうになったとき、シルヴィオは両手を縛りあげられながらもそう声を上げていたのではなかったか。 真澄は、ぞっとした。 それはシルヴィオの体温のあまりの低さに今更たじろいでしまったのもあるのだが、なによりも自分一人のために大切な人が失われてしまったと言うことに対しての方が断然大きかった。 シルヴィオが、死んだ。真澄はサシャが初めに放った言葉を、今になってようやく聞き入れた。 「真澄ちゃんの所為だよ。シルヴィオが死んだのは、真澄ちゃんの所為だ」 責めるような口調のサシャが、躊躇うことなく真澄への断罪を言い連ねる。 サシャはその場に突っ立ったままなのに、真澄は彼にじりじりと、まるで崖の縁に追いつめられるような危機感を感じた。 ――違う。しばらくしてから、真澄は虚ろな瞳でこちらを向くサシャの顔を見つめながら呟いた。 「真澄ちゃんが敵に捕らわれなかったなら、シルヴィオは死ななかった」 違う。違う。真澄はサシャの顔に怯えながらそう漏らす。 「違う? なにが? 今の話のなにが? どこが違っているの?」 違う。それでも。 真澄はゆるゆると精神が苛まれていくような感覚に陥りながらも、懸命に首を横に振った。 これは、あたしが望んでいた結末ではない。こんなエンディングが欲しかったわけではない。 けれどシルヴィオに触れたとき、ぞわりと指先に伝わってきたあの「異様なまでの」冷たい感触は確かだし、サシャの意見は反論の余地もないくらいに的を射ている。 だからこそ自己への罪悪感は募った。真澄はずきりと破裂しそうなまでに痛む胸を強く押さえて否定し続けたが、首を横に振れば振るほど、それも所詮無駄な足掻きなのだと自覚するだけだった。 なにが悪かったの。ガラヴァルに頼ったのがいけなかったの。あたしにもっと力があればよかったの。 ふと、足元で動かないシルヴィオの姿が視界に入った。彼は今も動かない。 それとも、ああ、そもそも「自分がこの世界にきたこと自体」が間違っていたとでも言うのか。だが、それでは。 「……ち、がう……っ!」 あたしは、この世界のお荷物どころか害虫ではないか。 思考がそこまで辿り着いたとき、真澄は意識が浮上するのを感じた。身体がぐんと上に引き上げられて、軽くなる。 どう言うことだろうか。なにも考えられずに周囲の光景が切り替わっていく様を眺めていると、急に黄色い光が満ち溢れた。 真澄は、はっと目を見開いた。びくりと、身体全体が震えた。 その瞬間、今まで見ていた風景とはまるで違うものが真っ先に目に飛び込んできた。今視界いっぱいに映っているのは、冷たく暗い通路でも、ぽっかり空いた広い空間でもない、一人のあどけなさの残る少年のきょとんとした顔だ。 「……あ」 真澄と目が合った少年は、小さく声を上げるとすぐにどこかへ駆けていった。 「ママー! お姫さま起きたー!」 遠くから、さっきの少年のものだろうか、幼い声が聞こえる。 BACK/TOP/NEXT 2009/12/24 |