Heiland -08 きな臭い、埃っぽい、息が詰まる、苦しい。 このままだといずれもっとつらくなる。この場所は嫌だ。ここに、いたくない。 泥沼の意識の中からふと目覚めた真澄は、鼻腔へ一気に流れ込んでくる匂いに対して異常なまでの吐き気を催した。随分と長い間、このざらついた空気の中で眠りこけていた気がする。 どうして自分は今まで眠っていたのだろう。そして、先程までなにがあったのだろうと、しばらく経ってからぼんやりと考え始める。 しかし途端に頭にすっかり血が上ってしまったかのような鈍い頭痛が走ったので、真澄は目蓋を閉じたまま低く呻いた。 「……真澄」 誰だろう。どこからか、ひっそりと優しく自分の名を呼ぶ低い声が聞こえてくる。 「……真澄。……おい、真澄」 億劫だったので返答せずにいると、痺れを切らしたような声が、けれど優しい響きはそのままにして降ってきた。 真澄はだるい気分をぐいと押しのけて、無理矢理目蓋をこじ開けた。 「……シルヴィオ……?」 ぽつりと呟いた真澄の声に、なぜか目の前にいたシルヴィオはほっとしたように口元を緩めた。 青空を背景にこちらの顔を覗き込む彼の銀髪と彼が纏う白い豪華な軍服とは、相も変わらず綺麗に風に靡いている。 「お前、本当にスパイじゃなかったんだな」 そう言って、へら、と笑う彼に、真澄はどっと疲れを感じながらも強気に笑んでみせた。 もう、あたしがスパイじゃないって、今頃分かったの?そう言えば出会ったときからずっとスパイスパイって、こっちは耳に蛸ができるかと思ったわよ。でもこれで分かったんでしょ?あたしはスパイじゃないって、認めてくれるんでしょ?あたしがガラヴァル呼んだの、見てた?あのときは少し怖かったけれど、でも、もういらない心配、しなくていいんだよね?「シルヴィオの傍から追放されるかもしれない」なんてこと考えなくても、もういいんだよね? 言いたいことはいろいろとあったが、口を開くことさえできなかったので真澄はただシルヴィオの顔を見上げて笑顔を保ち続けた。シルヴィオがここにいてくれるだけで、十分だった。 終わったのだ。真澄は散々考えを巡らせた挙句、ようやくその一つの答えに行き着いた。 真澄は長い黒髪を持つ少年の後ろ姿を思い浮かべて小さく笑った。 (ガラヴァル、なんだかんだで優しいんだから……) 恐らくあの不器用なラルコエドの神様、ガラヴァルは約束を守ってくれた。自分がこうしてまだ息をしていることから、命ではない「なにか」が見返りとして抜け落ちたのは必須だが、もはや憂慮する必要はない。 シルヴィオがこうして自分の前にいるのがその証だ。これで戦争が、終わった――。 「女を立たせろ」 だが真澄がほっと安堵しかけたそのとき、低い声が頭上から聞こえて、真澄の身体はぐんと無造作に持ち上げられた。 身体の中に深く埋め込まれていたとてつもない疲労感は、この急な展開に一瞬で吹っ飛んだらしかった。 真澄が何事かと肩越しに振り向いた先では、見たことのない大男が真澄の両腕を後ろでがっちりと掴んでいた。 「ふ、これが彼の大国、ラルコエドの王を虜にした女か」 そうして真澄がそのままその大男に強引に引っ張られ突き出されたのは、さらに見知らぬ男の前だった。 立っている真澄と同じ目線ではあったが、男はこの場には似つかわしくない煌びやかな椅子にゆるりと腰かけていた。 中年、とまではいかないが、三十歳そこらの、細身で口髭をたくわえた男は、シルヴィオと負けず劣らずの身なりをしている。それなのにげっそりと肉の削げた頬は、どこか狡猾そうな印象を受けた。 真澄は辺りを見回した。頭上には枯れた色の青空が広がり、大地は殺伐とした平野のままだ。 しかし唯一首を傾げざるを得ないのは、周囲には自分たちを取り囲むような形で、小豆色の軍服を着た大勢の人々が輪になって間合いを詰めていると言うことである。 彼らはラルコエド国の軍隊か?いや、違う。真澄は彼らの面々を見渡しながら、心の中で次第に膨らんでいく不安を感じた。 (戦争が、終わった――?) 先程そう思ってしまったのは、あれは、まさか。 「変わった毛色の女だな。それにしても、まだ娘子か」 椅子に腰かけている男に突然顎を掴まれて、真澄の顔はくるくると様々な角度へと向けられる。 品定めされているかのような彼の手つきに、真澄は恐怖と同時に言いようもない胸騒ぎを覚えた。 「しかし……随分と楽しめそうだ」 話の前後関係は飲み込めない。 けれどその男の言葉と同時に浮かべられた笑みに、尾てい骨の辺りから首元までを嫌な予感が一気に駆け抜けた。 しかしそんな状況下において、真澄はあるものに目を留めた。 男が身に纏う服の胸部に付けられている紋章は、真澄が意識を失う前に垣間見た、遠く地平線上に掲げられていた敵国の旗に描かれていたものと瓜二つのデザインだ。 この瞬間、今しがたどうして不安を感じたのか、その理由と原因が繋がった気がした。けれど真澄はどうしてもそれを認めたくなくて、まだ大丈夫だと、根拠のない自信に縋って首を横に振った。 「この女を先に城へ連れていけ」 「はっ」 真澄の背後にいた大男が威勢のいい返事と共に頭を垂れる。 まずいとは思う。だが思うだけで打開策が見つからない。 だが真澄が再びどこかへ連れられると恐怖した矢先、足元でなにかがごそりと動いた音がした。 「待て!そいつは俺の代わりに解放すると言っただろう!」 今までなんの音沙汰もなかったシルヴィオの声が、背後から飛んでくる。 真澄が慌てて声がした方を振り返ってみれば、真澄のやや後方にいたシルヴィオは、今や後ろ手に縛り上げられた上で地面に膝をついていた。 なぜシルヴィオがこんな屈辱的とも言える恰好をしているのだろう。真澄はこの光景に我が目を疑った。 彼は、シルヴィオと言う人間は、ラルコエドの「国王」であったはずだ。真澄の知っている彼はいつも偉そうな態度だったし、周りも当然のごとくそれを認めていた。認めていたはずなのに。 椅子に腰かけていた男は、シルヴィオからふっと目を逸らすと明後日の方向を見て深い息をついた。 「さあなあ。最近、どうも耳の調子がおかしくて仕方がないわ……。ああ、そこのお前、私がそんなことを言ったか?」 「いいえ、王。なにも伺っておりません」 側近と見られる男がすぐに肩を竦めて否定する。周囲に輪になって詰め寄っていた人々も、同調して一様に頷いた。 王と呼ばれた男はその光景を満足気に見回すと、ふんと得意そうな笑みをシルヴィオに向けた。 「だ、そうだが?」 「この卑怯者が……っ!」 シルヴィオがギリリと歯を食いしばる。 けれど彼にできるのはそれきりで、両手が不自由になってしまっている今、剣を振り回すこともなにもできない。 今度こそ間違いないと、真澄は確信を持った。椅子に座しているこの男を始め、周囲に立ち並ぶ小豆色の軍服を着た人々は、敵国の人間だ。 「なにをしている。早くその女を連れていけ」 男の、まだそこにいたのかと言う目線とその一言で、立ち止まっていた背後の大男は今度こそ歩き出した。 終わってなどいなかった。戦争は終わっていなかったのだ。 真澄は身体を引きずられながら慌てて周囲を見回した。もちろんそこに黒髪の少年、あるいは黒い羽を持つ姿を期待してのことだった。 いったいガラヴァルはどこへ消えてしまったのだろう。なぜ自分とシルヴィオが敵の手中にあるのだろう。 ガラヴァルは、自分のこの身と引き換えに国を守ってくれるはずではなかったのか。誰かの命を零すことなく国を救ってくれると、そう言う約束ではなかったのか。それに他のラルコエドの人々はどこへ行ってしまったと言うのだろう。どうしてここにいるのは、すべて敵国の人間ばかりなのか。 理不尽だと言わんばかりの疑問だけが溢れ出てくる。溢れてきて止めようとも思わないから、その疑問は不満へと変わっていく。 「やめて!放して!」 ガラヴァルを見つけられなかった真澄は、とりあえず敵の手から逃れようと激しく抵抗した。 しかし逃げようとすればするほど、真澄の動きを抑えようと数多の腕が伸びてくる。足掻く分だけ身動きが利かなくなる。 「放してって言ってるでしょ!放してってば!放せ!」 「そいつの首を押さえろ」 無駄だと分かっていながらも真澄が必死に抵抗し叫ぶ中、不意を突かれるような言葉が発せられた。 真澄がはっとしてその声の主を見ると、尚も椅子に座す男がシルヴィオを見据えたまま冷淡にそう吐き捨てたところだった。 男の側近が、腰に帯びていた長剣をすらりと抜く。その光景が、何人もの男に取り押さえられつつあった真澄の瞳に映る。 「待、……待って!」 側近ではないまた別の男の手がシルヴィオの銀髪を掴み、シルヴィオの身体は荒く地面に押し付けられる。 このときの真澄の目にも、シルヴィオは抗っているように見受けられた。何人もの人間に身体を押さえられ顔を土に塗れさせながらも、シルヴィオは鋭い視線を敵国の王に向けたまま闘争心を灯し続けていた。 しかし完全に両手が塞がっている彼にしてみれば、多勢の猛攻にもはやなす術はない。 静かに抜かれた長剣が、シルヴィオの頬にぴたりと当てられる。 「これでラルコエドは我がものだ!」 敵国の王が高らかに声を張り上げる。辺りを様々な喧騒が飛び交う。 このとき真澄自身も動きを束縛されつつあったが、なけなしの力を振り絞り、喉が張り裂けるかと思うくらい懸命に叫んだ。 「シルヴィオ!」 お願い、待って。お願い、シルヴィオを殺さないで。お願い、なんでもするから。 それらの言葉を大声で叫ぶ。けれど大きく振り上げられた剣は止まらない。どんなに叫んでも願ってみても、剣がシルヴィオの首筋目掛けて振り下ろされる速度は変わらなかった。 その日、最後に見たのはどういう場面だったのか、よく覚えていない。 それでも確かなのは、辺りに自分の獣のように泣き叫ぶ声が響いていたこと。それと、喉か口の中が切れたのか、じんわりと血の味がしたこと。 あともっと鮮明なのは、振り上げられた長剣の刃に反射した陽光がきらりと白く光ったそのあまりの眩しさに、自分が固く目を瞑ってしまったことだ。 BACK/TOP/NEXT 2009/11/07 |