Heiland  -07









「なに、これ……」

たったその一言を声に出すのが、このときの真澄のやっとだった。
いや、いきなりこんな場面に出くわしたら、誰でも勢い呆然として今と似たような言葉を呟くに違いない。

真澄の身体をぐるりと三六〇度取り囲む風景は、いつの間にか豪華絢爛なラルコエド城内から殺伐とした平野に変わっていた。
右を見ても左を見ても、もちろん上下を確認してみたところで変わり映えはしない。視界に入るものと言ったらただ黄土色の地平線ばかりだ。たまに吹き荒れる突風と共に砂埃が舞うありようは、今まで身を置いてきた城内に比べるとあまりにも荒んでいる。
真澄は無意識のうちに持ち上げた手で頬をぎゅっと強くつねってみた。そこには確かな痛みがあった。

(デジャヴだ……)

この展開は、まるでラルコエドにきたときと同じ状況ではないか。
場所は違えど、いきなりなんの繋がりもない空間にぽんと投げ出されたのはこれで二度目である。

相変わらず突拍子もないこの境遇についてしばらく長考した真澄は、やはり納得できるような理由が見つからなかったので、考えすぎて痛む額に手を当てた。
急激な変化に頭が追いつかないとはまさにこのことを言うのだろう。
正面の、今自分がいる場所からかなり離れた地平線上には人の群れがあると遠目ながら確認ができるのだが、彼らはなにをしているのか、それを伺い見ることさえできない。

これは夢なのだろうか。そう思って嘆息しかけた真澄は、肝が冷えたような感覚を覚えて再度顔を上げた。
違和感があったのだ。彼方の地平線上にずらりと並ぶ人々の群れの中に奇妙なものを見かけたような気がして、真澄はそれに驚いた。

群衆のあちらこちらからはいくつもの旗が掲げられている。恐らくそれは縦も横も人間一人以上の大きさを有している巨大なものであろう。
確かラルコエド国の国旗は、濃い緑の生地の上に黒でガラヴァル――カラスの姿が模してあったはずだ。
しかし今真澄が目にしているものは、遠くてよく判断はできないのだが、地が小豆色で、真ん中には見たこともない双頭の首の長い生物が描かれている。あれはラルコエドのものではない。
ではラルコエドのものでないのならどこのものか、答えは簡単だった。

自分は今とんでもない場所にいるのではないだろうか。そう悟ったとき、真澄は背に冷や汗を感じた。
それでも最後の足掻きとばかりに、ラルコエドの目印となるものはないか真澄は懸命に辺りを見回した。だがそうして彷徨った真澄の視線は、すぐにぴたりと定まった。

(……あれってまさか、大砲?)

真澄が知っている限りのあらゆる大砲と比べるとそれは歪な形をしていたが、群衆の背後に堂々と腰を落ち着かせている色と構造は、大砲以外の何物でもなかった。
あんなものを打ち込まれでもしたら、建造物は元より生身の人間に至ってはひとたまりもないだろう。

この世界の武器事情がどこまで進んでいるのかは分からなかったが、シルヴィオやサシャはなにをするのにも剣を使っていた。
それを考慮すると、少なくともラルコエド国に鉄砲などの飛び道具はまだ発展していないのだろうなと思う。

翻る異国の国旗、ラルコエドにはないはずの兵器、遠くに群れる多くの人々。大体の状況が飲み込めてきた。
間違いない。今、自分が座り込んでいる場所は――。

「真澄ちゃん!?」

自分の中で出したくない答えが出かかったとき、真澄の背後から素っ頓狂な声がした。サシャの声だった。
なぜこんな場所にサシャがいるのだろう。それは親しい人の声だったのに、どうしてか背筋が寒くなって真澄は振り返ろうとした。

途端、周囲の音が一瞬にして掻き消えた。真澄は振り向く途中で思わず身動きを止めた。
手元には、ふわと黒い影が落ちる。だがここは先程も見回した通り障害物もなにもない平野だ、そんなことはありえない。
しかし続いて、真澄の視界にひらりと黒い羽が舞い踊った。それはどうやら実体で、しかも頭上から降ってくるようだった。

「真澄ちゃん!」

真澄は黒い羽が落ちてきた方向を、すなわち自分の頭上を見上げた。
ちょうどそこには、強い日の光を遮るようにして逆光を浴びた一羽の鳥が、こちらに向かってゆるりと降下してくるところだった。

――彼の国が危機に瀕する時、異国の救済者在り。

忘れかけていたシルヴィオの淡々とした声が、壊れたレコーダーのような音質で記憶の中に再生される。

――救済者は伝説の神を呼ぶ使者となり、国を救う助けとなる。我が民よ謳え、ガラヴァルの名を。

ああ、なぜ自分はずっと忘れていたのだろう。
ガラヴァルはラルコエド国における神の名で、そしてそれは真澄が偶然出会った神出鬼没の少年と同じだったではないか。なぜそれを疑問に思わなかったのだろう。

(……ガラヴァル)

空から舞い降りてきた一羽の鳥、それは紛れもなくガラヴァルと言う名のカラスだった。
真澄の手元まできたそれに、気付けば真澄はそれが当然のことであるかのように腕を差し伸べていた。
ガラヴァルは空中で数回羽ばたくと、伸ばされた真澄の手の甲に難なく足をつけた。

黒く滑らかな体毛に覆われたガラヴァルの身体は、真澄の顔以上の大きさがあった。それなのに体重は不思議とわずかなしかなかった。
羽のように軽いその身体がどことなく剥製を思わせて、このガラヴァルは本当に生きているのかそれとも幻なのか分からないような心持ちで真澄は目を瞬いた。
そんな中、真澄の瞳とこちらを向いたガラヴァルの瞳とが自然と引き合わせられる。その鋭い眼に、真澄は嫌に見覚えがあって息を呑んだ。
もはや疑う余地もない、黒髪の少年は確かにガラヴァルその神であった。

騙されていたのだと、真澄はここにきてようやく理解した。
この世界にきて色々と欺かれてきたような気がするが、誰よりも一番、自分は「この神」に騙されていたのだ。

いや、本当はずっと昔に気付いていたのではなかったか。
シルヴィオからガラヴァルと言う神の名を聞いたそのときから、窓から飛び込んできたあの少年の名前は神と同じではないかと訝しく思ったその瞬間から、自分の中ではもうとっくに答えが出ていたのだ。
それを突きつめていけば、どうして自分がこの世界にいるのかさえも自ずと分かるはずだった。

けれど知らないふりをしてきた。そうすれば余計なことに首を突っ込まなくていいと、きっと無意識のうちに察していたのだろう。
深く追求しなければ「この身の安全は保たれる」のだと脳が勝手に判断して、本能的に自分を守ろうとした。結果、今日と言う日まで、自分はガラヴァルの一点において背を向け続けてきたのだ。
分かっていたはずなのに、自分がこの世界へきた理由も途中から明らかになったはずなのに、白を切り通した。

「我の名を呼べ」

真澄の手にとまったガラヴァルがゆっくりと嘴を動かす。同時に、あの少年のものと寸分の狂いもない声が響いた。

「我の名を呼べ、真澄」

いつになく真剣なガラヴァルの口調は、なにかを隠したまま真澄を急かそうとしていた。
真澄は数秒迷ってから、ガラヴァルを見つめたまま小さく首を横に振った。

「何故?この戦を止めたいのだろう?ならば我の名を呼ぶのだ。そなたにはわずかばかりだが、"魔力"がある。我がそれを引き出してやる。ゆえに、そなたのその声で呼べ」

真澄はガラヴァルから視線を移して、遙か彼方の群衆を見据えた。
それらは当初に比べると、どことなくこちらへ近付きつつあるように見えた。気のせいだろうか。

「あたしがあなたの名前を呼んだら、きっとラルコエドが勝つのね」

身を刺すような突風が再びやってきて、真澄の衣服を乱暴にはためかせる。

「でも、それは相手が負けるってことでしょ?それって結局、人が死ぬんだわ」

ガラヴァルの周囲に漂う空気が、真澄が口にしたその一言のあとですうと冷たくなった。
彼がなにを思ったのかは予想がつく。だが真澄は知らん顔をして、尚も彼方の群衆に目をやったまま逸らさずにいた。

「なにを言う?人が犠牲にならない戦いなど戦いではない。そもそもこれは人が起こした戦だ。双方とも犠牲が出ると分かってそれでもやっている、どちらが負けても自業自得であろう」

確かにそうだ。真澄は心の中で一人呟いた。
こちらの国の人間も、そしてあちらの国の人間も、どちらも自分の国が勝てばいいと思っている。
きっとそれはある意味で自然の摂理だ。この状況を真澄の世界に当てはめたところで同じ結果を生むだろう。だからこそ厄介なのだ。

だが自分だけは、世界中の誰が反対したとしても自分だけは、このラインから退くことはできない。
綺麗事でもいい。嘲られてもいい。だってここで自分がこうして声を上げることをやめてしまえば、この世界にはもう誰も、戦を忌避する人がいなくなる。

平和ボケした考え?結構よ。だけどそれで人を殺さないのなら、それはなによりも誇りに思うべきことだわ。
真澄は武者震いじみたものを感じて、笑った。誰も知らないところで、膝ががくがくと小刻みに震え始めていた。

「そなたが我の名を呼ばないのであれば、ラルコエドが負けるぞ」
「でもあなたはラルコエドを見捨てられない」

ガラヴァルの言葉の最後を覆うようにして真澄は口を挟んだ。

「そうでしょう?だってあなたはラルコエド国の神様なのに、自分の国の人間を見捨てられるの?」

真澄は言いながらガラヴァルの方へ視線を戻した。
決して自分が少しでも怖気づいているのだと悟られないように、口元に薄らと強気な微笑さえ浮かべて。

アネルから聞いた話では、この国の神であるガラヴァルは自国が有事の際に必ず現れている。
換言すると、それは自分の国を守るため、それゆえの大胆な行動の結果なのであろう。
ならば多少の融通は利くはずだと、真澄はそう考えたのだった。「ラルコエド国を護る」と言う箇所を外してさえいなければ、そして自分が上手く彼を唆しさえすれば、ガラヴァルはこの状況をどうにでもできる。

失敗は許されない。なにせ今の自分の両手には何万もの人命がかかっているのだ。
ゲームの世界にお決まりのセーブもへったくれもない。チャンスは正真正銘の一度きりだ。この一度で、どうにかこの神を動かすしかない。
自分にできることはたったこれっぽちの、けれど大事だ。

「……聡い娘だ」

しばし互いの心中の探り合いが続いたかと思われたあと、半ば呆れたような声でガラヴァルは呟いた。

「思い出すな、その隙を突くような言い回し。そなたは本当にエディルネの」
「生まれ変わりなんかじゃない」

素っ気ない口調と共に、真澄はガラヴァルの言葉をぶった切った。

「あたしは、エディルネって言う人の生まれ変わりなんかじゃない。あたしは『高木真澄』なの。平々凡々なただの十六歳よ、分かる?」

ことあるごとにエディルネと自分を比較されるのはもう願い下げだ。
自分は自分で、他の誰かの代わりではないし、なるつもりもない。
真澄が心底嫌そうな雰囲気を前面に出してそう諭して見せると、意外なことにガラヴァルは怒るでもなく、一拍置いてからその黒い瞳を細めた。

「よかろう。そなたの望み通りにしてやる。しかし、見返りはもらうぞ」
「……なにを?」
「もちろん、『そなた自身』だ」

どくん、と、身体中を巡る血液が唸り声を上げた。
今まで変な興奮で火照っていた頭からはさーっと血の気が引いて、急激に冷えていくのが分かる。

「さあ、どうする?」

微妙に面白そうなガラヴァルの声色に、やはり神は神なのだと、真澄は彼を侮っていたことを後悔した。
それでもこの場から逃げ出してしまいたいなどと考えなかったのは、多分恐怖しすぎたあまりなにもかもがどうでもよくなってしまったからなのだと思う。

――神に乞いて差し出すのは自分の命、か。

まるでなにかのおとぎ話の一説にでもありそうな文句ではないか。
せっかくこの世界にきても生きてこられたのにな。追い詰められたからだろうか、真澄は一瞬のうちに様々なことを考えた。

最低でも、自分が育ったあの家に帰っておきたかった。親しかった友人とだって、まだ遊び足りていない。それに誰よりも、母と父にまた会いたかった。そして罵られても冷たくされてもいいから、もう一度だけ、シルヴィオのあの手に触れてみたかった。
自分でも驚くくらい冷静な頭で過去を清算した真澄は、少し逡巡したあとで口元を緩めた。

「……いいわよ」

きっとこれが正解だ。
断言してもいい。自分に他の選択肢は残されていない。むしろ初めから、これ以外の選択肢など与えられてはいなかったのだ。
ここで自分が了承せずに終わる物語など、端からありはしない。

そう考えたら、先程までぐずぐずしていた感情はいくらかよくなっていった。
身体の奥から恐怖や不安、それと邪念などのこれからの決断に不必要なものが、清流のせせらぎのごとく流れ出ていった。

「では我が名を呼べ、真澄」

ガラヴァルが真澄の手元で大きく羽ばたく。まるでその漆黒の羽を、この閑散とした空に広げるように。
未だに震えが収まらない膝に鞭打って、真澄は黄土色の殺伐とした大地に両足をつけた。眼前には、異国の軍隊が迫っている。
だが真澄は平気だった。なにせこのときの真澄の背後には、ラルコエド国軍の大群が控えていたのだから。

「真澄ちゃん!」

ずっと前から、サシャの焦っているような怒っているような自分の名を呼ぶ声が聞こえてくる。
後ろを振り返ったことはない。しかし、数百メートル離れたそこにラルコエド国軍が開戦に向けて待機しているのだと、気配で感じる。

ごめんなさいサシャさん、あたし、出たら駄目だって言われたのに、きちゃった。
真澄はサシャの声に感化されたあまり弱音を吐きそうになって唇を噛んだ。けれどどうしても辞退することなどできない、その想いだけが今のこの身体を突き動かす。
真澄は一回深く呼吸すると、息を大きく吸い込んで、ガラヴァルがとまる手を空に向って突き出した。

「あたしは、その名を呼ぶ」

喉の奥から必死に絞り出した声と共に、真澄は口を開いた。


「ガラヴァル」


すると今まで少年の声色で喋っていたガラヴァルは、途端にヒュロロロと、カラスとは似ても似つかない声色で啼いた。
耳をつんざくような、まるで金切り声とも取れるその大音量の声音は瞬く間に波状のものとなり、四方八方に向けて駿馬以上の速さで伝わっていく。

啼き声と言えど、あまりにすさまじい威力に思わず耳をふさごうとした真澄は、ふとあちらこちらから同じ啼き声が聞こえてくるのに気がついた。
いったい何事か。真澄は咄嗟に横目で辺りを見回して、そこで絶句した。
今や真澄の手元にいるガラヴァルを先頭として、まるでラルコエド国の軍に加勢するような恰好で数多のガラヴァルが姿を見せて、同じく奇妙な声で啼いていたのだった。

空を埋め尽くすように旋回するものもあれば、背後の、ラルコエド国軍の中から天に突き上げられている国旗の軸にとまっているものもある。
それはあまりにも奇妙な光景だった。奇怪すぎて、夢かと疑ってしまいそうなほどだった。
しかしこれは現実なのだと身に染みて理解したのは、真澄が呆気に取られている傍で、やや遠くに待機していたラルコエド国軍から、うおおおと勇ましい雄叫びが上がったからだった。

「神は我らと共にあり!」
「勝利に進め!神の御加護があったぞ!」

まるで各賞総ナメにでもした長編大作の映画を間近で見ているかのような戦慄が、頭の天辺から足のつま先までを駆け抜けた。
いったいこれはどこの戦争映画なのだろう、と真澄が思う暇もなく、ガラヴァルの啼き声を掻き消すかの勢いで角笛が吹かれたのはそのときだった。
ブオオ、と、空気を振動させる低音が、タイミングを異にして真澄の前後から吹き鳴らされる。

するとそのままラルコエド国軍が威勢よく、歩兵、騎馬兵もろとも一斉に前進してきたので、真澄は慌てた。
ここを真っ直ぐ彼らに進まれてしまっては本懐を遂げるどころの話ではない。こともあろうか自分は味方に潰されることになる。

「え?ちょ、ちょっと待って!」

真澄が突然の事態にギョッとしていると、すっかり大人しくなっていたガラヴァルが顔を寄せてきた。

「さて、我らも行くぞ」

何気ないガラヴァルの一言に、動転しつつもわけが分からなかった真澄は首を傾げた。

「は?どこへ?」
「先刻そなたは自身を犠牲にすると言ったはずだが?約束は守れ」

とん、と、なにかに背中を軽く叩かれた感触がして、真澄の身体はがくりと半分に折れる。
するとこの平野に着いたときと似たような浮遊感がまたもや全身を襲い、目の前がぐるりぐるりと回転しながら白濁し始めた。
なんだか気持ち悪いな。そう思って真澄が口に手を当てようとしたとき、真澄の意識は完全に吹っ飛んだ。













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2009/10/10