いつそうなってしまったのかはよく覚えていない。
しかしやっとのことで真澄が我に返ったとき、既にシルヴィオはどこにもいなかった。

代わりに、目の前にはこげ茶色の扉が静かに立ち塞がっていた。
再びシルヴィオの隣室である自分の部屋の中へ押し戻されたのだと、真澄がこの現状を理解するのにはかなりの時間が要った。
見回すたびに目に飛び込んでくるものと言ったら西洋風の調度品ばかりで、まるで一人どこか別の場所へ投げ出されたかのようだった。









Heiland  -06









前にもこうやって同じことをしていたような気がする。
いや自分の記憶が確かならばそれは気ではなくて、まったく現実のことで相違ないはずだ。

だが仕方ないのだ。涙は止めようとしても溢れてくるし、ではいっそ泣いてしまおうと腹を括ってしまえば余計に胸が苦しくなる。
けれど前回と若干異なっているのは、あの時は恐怖で嗚咽を漏らしていたが、今は悲しみの所為でこうなっているということだ。
それでも真澄は、ベッドに突っ伏したまま歯を食いしばった。涙が一粒頬を伝うたびに、シルヴィオを始め、ラルコエド国の親しい人たちの顔が脳裏に浮かんでは消えた。

真澄の中で、戦地に行った人々は間違いなく帰ってこないという妙に確信めいた予感があった。
あの儚い笑みを残したままシルヴィオたちは今にどこかへ行ってしまう。そして背をこちらに向けたそのまま、会えなくなってしまう。

だから嫌だった。また自分は部屋の中に閉じ込められたのだと分かったとき、窓を蹴破ってでも外に飛び出して、もう一度顔を見たくなった。
けれどそんな勇気は自分にはなかった。せいぜいガラスの窓に爪を立てて、キリキリと耳に痛い甲高い音を聞きながら、その場に崩れ落ちるくらいのことしかできなかった。
お願いだから誰か、誰でもいいから、誰か。彼らの歩みを、今というこの時を、戦争を、止めて―――。

「なにを泣いている?」

ふと真澄の部屋に、それまではなかった声が飛び込んできた。
しかし唐突であったにもかかわらず、それは真澄の気分の中にゆっくりと押し入ってくるような変な親密感があった。

真澄はベッドに押し当てていた顔を、心持ちだけ声が聞こえた方へと動かした。
視界の端では、真澄が姿を探ろうとするたびにちらちらとなにかが映ってはいなくなる。それでも分かったのは、どうやらこの部屋の片隅に、影を背負いながら誰かがこちらを見据えていると言うことだった。
しかしこのとき、泣いて後悔することにすべての精神を傾けていた真澄は、急に現れたその黒い影を然程気に留めようとは思わなかった。

「そなたはなにを嘆く?」

嘆くもなにも、この状況に置かれた者であれば誰だってこうした行動をとるだろう。
戦争が自分の考え如何に関わらず否が応でも起こること。親しい人がこの世界からいなくなってしまうかもしれないこと。そして、自分があまりに無力であること。今ではすべてが嘆きの種になり得る。

そこまで考えた真澄は、返答するのさえ嫌になって再び顔を強くベッドに押しつけた。
だが真澄が無視しようとするも、その馴れ馴れしい声は相も変わらずに無愛想な声で問うてきた。

「どうしたい?」

この戦いを止めたい。
当たり前でしょ、とでも言わんばかりの恨めしげな口調で真澄は答えた。

「誰が?」

声は間髪入れずに次の質問を投げかけてきた。
あたしが。真澄も同じくらいの速さでそう返した。

もちろん戦を止めるなど、そんなものは限りなく不可能に近いということくらい理解している。
視界の端にいた黒い影も同じ感想を持ったのか、こちらの考えを貶すかのごとくせせら笑った。

「そなたが止めてみせるというのか?何百万もの人間を巻き込んだ大国同士の争いを、たかが人間一人の、そのか弱さでか?」

実際にそう言われてみると、自分が答えたことの重大さを思い知らされた。
けれど、では他に誰が立ち上がってくれるというのだ。戦争が公に認められるこの世界で、いったいこの世界の誰が戦争を止めようというのだ。
真澄がぷっつり黙り込んだ意味を読み取ったのか、声は冷静さを取り戻すと静かに言った。

「己がなにを口走っているのか、理解しているのか?」

分かってる。

「それでも止めようと思うか?どんなにつらい真実がその先に待ち構えていようとも?そなた自身が虫の息になってまでも?」

それでも、いい。ほぼ即答に近い形で、真澄は首を縦に振った。
その選択ですべての人に笑顔が訪れるのなら、この胸にわだかまる苦しい感情をどうにかできるのなら、自分がどうなるかなんてものは二の次だ。

奇妙な沈黙が訪れた。真澄の嗚咽も親しげな声との問答も消えた部屋は、水を打ったように静まり返った。
真澄はてっきりまた笑われるとばかり思っていたから、すぐに反応がないことに、あれ、と小首を傾げた。もしかしたら今の回答はまずかったのだろうか。

だがここで真澄は、はたと思い留まった。
今までなんだかんだで会話が続いたから気にしなかったのだが、この部屋にいるのは自分一人だけのはずだ。
侍女はいない。シルヴィオと別れて感情が不安定になっていたとは言え、部屋にいる人間の姿を見過ごすことはない。それになんと言っても、あの声は「男」だ。

真澄は慌てて突っ伏したまま目だけを動かして、声の主がどこにいるかを探ろうとした。
黒い影を背負った誰かはすぐに見付かった。それは最初に真澄が感知したときと変わらず、部屋の片隅に立っていた。
しかし視界の隅に映り続けていた黒い影の口の端は、真澄が目をやると同時に、にいっと不気味につり上がっていった。

「いいだろう」

低い凄みのある声が、急に真澄の耳元で響く。
真澄は驚いてがばと顔を上げた。そこには、一寸前まで迫った、両眼をかっと開いた少年がこちらの顔を覗き込むようにしてベッドの上にいた。
声からして一瞬前まで部屋の隅にいた影を負った者と同一人物だと分かった。しかし悦しそうなその顔は―――、

「ガ……っ」

真澄が言いかけたそのとき、身体全体を奇妙な浮遊感が襲った。
それもふわふわ優しく浮かぶという生易しいものではなく、首根っこを掴まれて強引に宙へ投げ出される類のものだ。
真澄は思わず目を瞑った。だがすぐに、身体は落ち着いた。

「痛っ!」

どさり、とどこかへ放り出された音が聞こえる。直後、真澄は腕や脚に走った痛みに顔を顰めた。
おおよそ着地に失敗したかなにかで痛めたのだろう。真澄はうつ伏せになった身体を、眉根を寄せながらゆっくりと起こした。
ベッドから落ちたにしては微妙に滞空時間が長かったのだが、気のせいだろうか。

手がなにか不思議な感触のものを掴んでいるなと思ったのは、起き上がりつつあったまさにそのときだった。
ざらざらとしていて、けれど纏わりついてくるどこか懐かしい手触りがして、真澄は手元に目線を落とした。
しかしそこで真澄は目を瞬いた。真澄の手は、ここ数ヶ月の間にまったくと言っていいほど触れたことのなかった砂を掴んでいた。

(……ここ、は……?)

真澄は砂を掴んだまま勢いよく顔を上げた。
その途端、西洋風の調度品などまるで似合わない風景に、訳も分からず愕然とした。

ラルコエド城の敷地面積はもはや問題ではない。なにせここは、それらをも含むであろう外の世界なのだ。
見渡す限り一面に殺伐とした砂の平野が広がっており、頭上には少しかすれた色の、かろうじて青だと認識できる空が相対してそこにある。
頬には先程から細かい砂の粒子が吹きつけて地味に痛い。

放心したまま一通り辺りを見回した真澄は、遙か彼方の地平線にびっしりと、大きな旗をいくつも掲げた人々が並んでいるのを見つけた。
その途端、なぜか頭の中に「戦争」の二文字が色濃く浮かび上がってきた。













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2009/08/29