Heiland  -05









静寂を打ち破るように、複数の足音がばらばらと、扉一枚を隔てたシルヴィオの部屋に慌ただしく響き渡る。
誰かのなにかを話している声が聞こえるがそれもどうやら複数で、いったいどれがシルヴィオの声なのか、はたしてシルヴィオはそこにいるのかさえ分からない。

真澄は途端に身動きするのをやめて、まるで自分はここにいないと証明するかのごとく息を詰めた。
まさか、本当にもうシルヴィオがやって来てしまったのだろうか。真澄は瞬時に自分の頭の中が真っ白になるのが分かった。

彼にかける言葉など、当たり前だが思い浮かんでいない。この数分でどうにかなるのなら苦労はしない。
だが真澄はふと、だったらここで知らぬふりをしてこの状況をやり過ごすというのもあながち悪い手ではないのではとひらめいた。元々シルヴィオは自分にこの件を口止めしていたのだし、彼にとってもなんら不都合なことはないだろう。
しかしその考えに反するようにして、先程までこの部屋にいた侍女の言葉が真澄の頭の中で蘇ってきた。

―――このあとは、この機会だけはどうか逃さないでください。

そうだ。シルヴィオと会うことができるのは、もうないことなのかもしれない。
ラルコエドがこの戦に勝てばまたシルヴィオと会う機会もあろうが、だが何故か真澄はここで強くそう思った。

シルヴィオがこれからどこかへ行ってしまう。それはほぼ間違いない決定事項だ。
今までなにかと冷淡な態度を向けられたりもしたが、最終的にはこちらに気を遣ってくれたシルヴィオのことを思い出すと、真澄はやはり彼の姿を再度見ておきたくなった。
それに唯一、この世界で畏まらずに自分が素の自分でいられたのは、シルヴィオの前だけだったような気もする。

そう、今考えてみれば、自分はシルヴィオを国王としてではなく、国王という肩書がある普通の人間だと思っていたのかもしれない。
だからこそ、真澄は彼が戦地へ行くのが間違いではないかと思ったのだ。彼が戦場に行くという行為が、どこか現実からかけ離れているかのように感じられたのだ。

(……なんで、シルヴィオが行かなくちゃいけないの)

もしシルヴィオが自分がいた世界に存在していたとしたら、普通の十八歳だっただろう。
さらに同じ高校だったら彼は三年生だ。ああ、ということは先輩なのか。全然そんな気はしないけれど。真澄は色々と思考を巡らせた。
真澄はそっと足音をたてないようにして、シルヴィオの部屋へと繋がる扉まで近寄った。

「人払いを」

真澄がそっとこげ茶色の扉に触れた途端、一際低く、馴染みのある声が扉の向こうから聞こえた。
真澄はすぐに、それはシルヴィオの声なのだと分かった。

再び隣室には複数の足音が響いて、しかしそれらはすぐにどこかへ消えていく。
そうしてこちらの部屋も含め、真澄の周囲から音は一切遮断された。

真澄は扉を少しだけ開けて確認してみようかと思った。
「人払い」と、先程シルヴィオは言っただろうか。もしかしたら、シルヴィオだけは隣室に残っているかもしれないと考えたからである。
なぜシルヴィオがこの時になって自室に帰ってきたのかは未だ疑問が残るところだったが、今の真澄には深く考える余地などなかった。

しかし扉に触れたまではよかったのだが、いざ開けてシルヴィオの姿を一目見ようと試みた途端、どうしてか手が震え始めた。肝心の扉を開けようとする勇気さえも時間が経つにつれ失われていくようだった。
そうして扉の前で数分は葛藤しただろうか。結局、真澄はそこから一歩を踏み出すことができずにいた。
真澄はそんな自分の無力さに次第に嫌気がさしてきて、最後の足掻きとばかりに、えいやと扉に背を預けると静かに深呼吸した。

なぜこの扉を開けてシルヴィオの顔を見ることがこんなにも恥ずかしいことなのだろう。
もしシルヴィオがこちらに気付いてしまったらと考えると、次にどんな行動をとったらいいのかが分からなくなる。
手持無沙汰になった真澄は、未だに扉に背を預けたまま人差し指で扉の凹凸部分をなぞった。触れたところから、シルヴィオの温もりが伝わってくるような気がした。

「……行くの?」

答えを期待して言ったわけではない。
ただいろいろと考えあぐねた末、うっかり口から飛び出してしまったまでだ。
しかもそれは小声で、蚊の囁き程度にしかならないくらいの声量だった。

それにシルヴィオの部屋は、さすが国王の私室と思い知らされるくらいに広い。
恐らく彼がこの呟きに気付く確率は限りなくゼロに近いだろう。だがしかし、意外なことに答えは返ってきた。

「俺は行くぜ」

無愛想な声とともに、かたん、と、真澄が触れる扉が若干こちら側に傾く。
シルヴィオはそこに「いる」のだ。そうと分かった瞬間、真澄は嬉しいやら困ったやらで複雑な感情を抱いた。

しかし彼との間には堅固な扉がある。所詮互いの顔など見えやしない。
いつもの調子で答えるシルヴィオに、真澄は冷静を装った声で、そう、とだけ言って返した。

なにか言わなくてはならないことがあるはずなのに、まるで言葉が見付からない。
いってらっしゃい?それは彼の戦地入りを祝福しているようではないか。駄目だ、却下。
行かないで?いや、それこそ場違いだろう。たかが居候の小娘がこんな時に言うべき言葉ではない。

だがシルヴィオから返答があったのだ。すぐになにか会話の種となるものを提示しなくてはいけない。
頭の中で急いであれこれと語句を並べてみる真澄だったが、しかし次の瞬間、どうしてか自分の身体ががくんと後方に傾くのを感じた。

(……え)

今まで背中を預けていた扉の感触が、ない。さっきまで木目をなぞっていた人差し指には今、なにも触れていない。
このままではすぐに仰向けに倒れてしまう。真澄は体勢を立て直すために、慌てて振り返った。

今まで見たことのない白色があった。
真澄が焦って背後を振り返ったとき視界に入ったのは、金や銀の細かな装飾で飾り立てられた白の「軍服」だった。
ばたん、と、背後で勢いよく扉が閉まる。真澄の腕は誰かの手に掴まれて、シルヴィオの部屋まで引き寄せられていた。

再び閉じられた扉に、今度は自分の部屋を背にして真澄は背中をくっつけた。いや、つっくけざるを得なかったのだ。
なにせすぐ目の前には、振り返った時に目に入った豪華な「軍服」を着たシルヴィオが立っていた。

しかしそれはあまりに異様な光景だった。
シルヴィオの透明感のある銀髪が服の白色と相成ってそこにあるという現実がどこか幻想的で、譬えるならば、まるで彼は死に装束を纏っているみたいだった。そう思ったとき、真澄は泣きそうになった。

「お前にやる」

眼前に立つシルヴィオは、唐突にある物を真澄に握らせた。
真澄は泣くのをこらえて、強引に渡された、自分の手のひらに収まるほどの大きさのそれを見た。

しかしよくよく眺めてみて真澄は驚いた。
確かこの世界にきた翌日に目にしただろうか、それは今は亡きシルヴィオの母の形見だという紅の入れ物だった。
綺麗な金細工がいつしか見た時のまま輝かしい。言わずもがな、ずっと大切に保管されてきたという証がそこにはあった。

「ちょっと、待って!これってシルヴィオのお母さんの形見……」
「お前に持っていて欲しいんだ。だから渡した」
「でも……!」

すぐさま返そうとする真澄を、シルヴィオは素っ気ない態度で制す。
そしてシルヴィオは素早く身を翻すと、廊下へ通じる扉の方へ颯爽と歩いて行った。

もしやシルヴィオはこれを渡すために人払いをしたのだろうか。
しかし自分にこれを受け取る資格はない。こんな大事なものを持つ謂れなど、自分にはまったくないのだ。
それに彼に言うべき言葉は、自分でも歯痒さを覚えるほどまだ見つからなかった。どうすればいい?なんと言えば自分の満足のいく結果になる?

未だに解決策は見付からなかったが、真澄はとりあえず身を乗り出して口を開きかけた。
アネルにも侍女にも言われたではないか。この先後悔しては遅いのだ。
だが真澄がなにかを言おうとしたその時、部屋から出るために扉を開けようとしていたシルヴィオはそこでぴたりと行動を止めた。真澄もそのシルヴィオの一瞬の躊躇を見逃さなかった。

すると今度、シルヴィオはこちらに向かってまた歩き出してきたではないか。
なにが起こっているのか。急な展開の連続に閉口する真澄の顔の傍を、シルヴィオの手が掠める。ばんと、真澄の耳元で背後にある扉が唸る。

「言わないでおこうと思ったが、やっぱり言っておく」

シルヴィオの両腕が、真澄の顔の両側に突き出されたそのまま扉にあてられているため、彼から目を逸らそうにも逸らせない。
真澄はシルヴィオの思い詰めたような声色に、彼の顔を呆然と見上げた。

「……ずっと、ここにいてくれないか」

暫しの沈黙のあとでシルヴィオの口から紡がれたその言葉を、混乱していた真澄は咄嗟に理解することができずにきょとんと目を見張る。
シルヴィオの表情は今は伏せられているためかよく見えない。
真澄はしばらく思案して言葉を探して、だが結局、恐る恐る気になったことを問うた。

「……ずっと、って……どれくらい?」

真澄が訊くと、シルヴィオは表情ひとつ変えずに言った。

「ずっとはずっとだ。何年でも何十年でも、俺が死ぬまで、いや、死んだとしても。ずっと」

この瞬間、かっと胸の奥が熱くなってどうしようもなくなった。
恐らく顔も真っ赤になっているだろうと、自分でもそれくらいの予想はついた。
ひょっとすると、これは彼に求められているのだろうか。ここにいてもいいのだと、彼は自分の存在を必要としているのだと思ってもいいのだろうか。

嬉しくないわけがない。
今までシルヴィオには嫌われているとばかり思っていた。スパイ容疑をかけられたほどだ、自分は不要で仕方ないと半ば諦めていた。
だからこの時の心情をありのまま吐露するのなら、それは素直に嬉しかった。それと、なぜかひどく恥ずかしかった。

だがすぐに、真澄はその言葉を額面通り受け取ってはいけないということに気付いた。最近ずっと心の奥底にあったシルヴィオへの申し訳なさが、ここにきて勢いよく芽を出した。
真澄はシルヴィオの顔を見上げて、顔をくしゃくしゃに歪ませながら言った。

「……でもあたし、シルヴィオのお荷物になる」

しかし真澄のその言葉に対して、シルヴィオは心外だと言わんばかりにむっと眉根を寄せた。

「お前、俺の言ってること分かってないだろ」
「わ、分かってるわよ!」
「いや。分かってない」

すっとシルヴィオの手が伸びてきて、真澄の顎を掴んで上に向かせる。
一体なんなのだろう。シルヴィオに触れられてびくりと肩を震わせた真澄は、訳が分からぬままシルヴィオの顔を見つめた。

「なら改めて言ってやる。俺の女になって欲しい」

シルヴィオはこれまでとまったく変わらぬ口調でさらりとそれだけを口にすると、黙った。

「………………はっ?」

改めて、というか、あまりにも予期していなかったダイレクトな発言に、真澄は耳を疑った。
自分でも驚くくらい間抜けた声が出た。

「な、なん、で……っ?」
「俺がそうしたいからだ」
「え……?それって、愛、人……」
「どうして未婚でいきなり愛人をつくるんだ」

完全に理解不能だった。そもそも今国を挙げた戦争を目前にしているという意識は、真澄にさえも十分にあった。
それなのに、こんな非常事態の真っ最中だと言うのに、いったいシルヴィオはなにを言い出すのだろう。

「意味、分からない……」

思ったことをそのまま言ってしまったが、その通りだったのだから仕方がない。

「だって!シルヴィオ、政略結婚するんじゃなかったの!」

シルヴィオが先程の衝撃の告白をしたきりなにも言ってこないので、この不自然なまでの沈黙に耐えられなくなった真澄は声を張り上げた。
無理矢理シルヴィオの手を振り払って、いつだったか侍女がこぼしていたことをそのまま話題として突き出す。

「誰が言った?」
「みんなよ!みんな!この城にいる全員が、あたしも含めてそう思ってるわよ!」

話がやや脱線しているような気がしたが、構わず真澄は続けた。
顔が熱い。身体が熱い。全身をめぐっている血液すべてが沸騰してしまったかのようだった。
真澄は動揺のあまり思わず、これはもしかしたらシルヴィオにからかわれているのではと勘繰ったが、そう考えても身体中に広まってしまった熱は収まらなかった。

「もちろん、普通ならそうなるだろうな」

真澄の言い分を最後まで冷静に聞き終えたあとで、ふっと浅い溜息をついてシルヴィオは真澄から視線を逸らした。
意外にもこの話を真面目に受け取ってくれたらしかった。

「だが、お前以外の女に興味はない。それより、お前が他の男のものになる方が気に食わねえよ」

一旦は退けたシルヴィオの手が、静かに真澄の黒髪に触れてくる。
嘘だ。嘘だ。シルヴィオはこんな時でも自分をからかって遊んでいるのだ。
真澄は身を強張らせてぎゅっと固く目を閉じて、繰り返し繰り返しそう自分自身に言い聞かせた。

「俺が嘘をついているとでも?本気じゃない?」

こちらの考えを見透かした彼の問いに、真澄は少し躊躇ったが、こくりと首を縦に振った。

「だって……どう考えてもおかしいでしょ。あたしは、この世界の人間じゃない……っ」
「周りの人間はどうとでもなる」
「大国の王が、それでやっていけるわけないじゃない!」

シルヴィオは分かっていないのだ。
自分が今なにを言ってこれからなにをしようとしているのか、その結果起きる様々な弊害を、彼は分かっていない。

「じゃあ、証明してやろうか?」

真澄がその言葉に意表を突かれてぱっと目を開いたとき、こちらの顔を覗き込んでいたシルヴィオは儚げに笑っていた。
それは今までのどんな場面で見たシルヴィオの表情とも異なっていた。
まるで親しいものにしか見せないような柔らかいその笑みは、真澄が一番好きな類の彼の表情だった。

卑怯だ。こんな顔をして言われたら、拒否権などまるでないではないか。
いや、拒否しようとも思わなかったけれど。

「……馬っ鹿じゃないの」

しばらくして真澄が吐き捨てると、真澄の顔に近付きつつあったシルヴィオの動きが止まった。

「あたしの国では十六歳で結婚するって早いのよ。この歳で未亡人だなんて、絶対に嫌なんだから」

こうなればこの場はひとまず、シルヴィオの言葉を受け入れるしかない。
そうすればシルヴィオはかなりの確率で戻ってくるような気がした。たとえ後でこの話はなかったことにされても、彼が生きて帰ってくるのなら、その方がよっぽどマシだ。

しかしそう思って口にしたのに、言葉の後半は自分でも言いながら悲しくてつかえそうだった。
それでも強引に言い切ると、こちらを驚き顔で見ていたシルヴィオは真澄が言いたいことを理解したのか、途端にふっと目を細めて苦笑した。

「分かってる」

シルヴィオの手が優しく頬に触れる。
シルヴィオの顔が、彼の吐息が感じられそうな距離にまで近付く。

ああ、そうか。
元いた世界に戻ると口にしてもどこか釈然としなかったその理由を、真澄はここにきて理解した。王族専用の庭園で、シルヴィオに帰りたい理由を訊かれて戸惑ってしまったそのわけが、今なら説明できるような気がした。
つまるところ自分はなんだかんだでこの世界に未練があって、シルヴィオの傍に、隣にいたかったのだ。
ラルコエドに来た当初は間違いなく傍若無人な国王だとしか思っていなかったのだが、いつから彼に惹かれてしまったのだろう。

けれど肝心なその人は、これから戦地へと旅立っていってしまう。
そして彼の言葉は嬉しかったが、自分が彼の隣に立つなどということは、恐らく今後一切ないだろう。
シルヴィオに引き寄せられてすぐ真澄の唇に宿った温もりは、最初はどこか感触を確かめるように軽く、次第に深くなっていった。

だが、これだけはどうか現実であって欲しい。
シルヴィオとサシャの対戦試合を見た衝撃で涙した際に慰めてくれたとき。庭園から落ちそうになって抱きしめられたとき。大喧嘩の挙句、ここにいてくれと言われたとき。他にもふとしたときの彼の優しさを含めてぜんぶぜんぶ。
あれは確かに愛されていた証拠なのだと、今だけは自惚れてもいいですか。かみさま。













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2009/08/08