Heiland  -04









理想の世界なんてきっとどこにもないのだと思った。
窓の外に広がるラルコエドの空が元の世界の空と同様にして毎日違う色を纏いながらその姿を見せるように、どんな世界であれその世界なりにもがき苦しんで精一杯今を生きているのだと、そんな気がした。

「はい。終わりましたよ、真澄様」

考えの途中でいきなり響いてきた可憐な声に、真澄ははっとして正面を見た。
全身が映る縦に細長い鏡の中には、いつも通り煌びやかに仕立てられたドレスを着ているもう一人の自分が映っている。どうやら今日のドレスのコンセプトは少し濃い目の紅色らしかった。
そしてそんな自分の後ろには、こちらの表情を伺うようなどこか楽しげな侍女の姿も映っている。

あの日から三日、それとも四日が経っただろうか。
許婚がラルコエドの第一都市にいるのだと語って涙した侍女は、今日になって再び真澄の世話担当になっていた。
しかし彼女の表情から先日の憂いは微塵も見受けられず、真澄の名前を呼ぶ時に「様」をつけることも彼女は依然として改めようとはしなかった。

だが真澄は気に留めなかった。
それよりも気になったのは、三、四日前の彼女を抱きしめたときに感じた、自分と同じ機能が彼女の中にも備わっていて、それが「確か」に「動いている」ということだった。
違う世界の人間であるから、という文句はもはや通用しないのだろう。世界や言語が違えども、抱きしめたあの時彼女は確かに自分と同じ「人間」だった。

シルヴィオは何千何万ものこれらの存在を背負っているのだ。
そう考えると、今後のこの国のことが嫌でも気にかかった。勝っても負けても戦は誰も幸せにしないのだと、直接シルヴィオに言ってやりたかった。
戦は上の人間がするものだ、って、あれは誰が言ったんだったっけな。突然浮かんできたそんな言葉に、真澄は心の中で首を傾げた。

「……真澄様」

真澄の着替えの手伝いが終わってから、普段通りそそくさと片付けをしていた侍女が、ふと思い出したように名を呼ぶ。
しかしいつもとは違うそのひっそりとした声色には、なにか危機感めいたものが含まれていた。
それを訝しく思いながら振り向いた真澄に対し、きょろきょろと部屋を数回見回した彼女は真澄の耳元に手を添えると、出し抜けに言った。

「シルヴィオ様が、このあと隣室に戻っていらっしゃいます」

真澄は驚いたあまり、ゆっくりと間近にある彼女の顔を見た。彼女は真面目な顔でこくりと頷いた。

「真澄様には申さぬようとの命でしたが、そのようなことできませんわ。なにせこれが、出征前のシルヴィオ様とお話をする最後の機会ですから」

なぜ彼女がこんな白昼にそのようなことを言うのか、と考える前に、次の言葉の意味を脳味噌に通して一気に訳が分からなくなった。
しかし真澄は今度こそ驚愕をそのまま声にした。

「ちょ、ちょっと待ってください!それってシルヴィオが戦に出るって、こと!?」
「そうです」
「で、でもっ!シルヴィオは国王なんじゃないんですか!?」
「国王であれ、これはシルヴィオ様がお決めになったことなのです」

身を乗り出さん勢いの真澄の心情を推し量ってか、彼女は沈痛そうな表情で語り出す。

「真澄様はご存じないかもしれませんが、数年前に起こった大戦のときにも、シルヴィオ様の父上様にあたられます前国王様は戦地に赴かれました。もちろん、その際にはシルヴィオ様もご同行を」

なにを言っているのだろう。真澄はどくんどくんと唸る心臓の音を聞きながら、目を伏せて話し続ける侍女の顔を見詰めた。
シルヴィオが戦地に行く?第一都市であるエルミーラが落とされたであろうこんな時に?しかもそれが今日、いきなり?
なぜ今まで自分はこんな重大なことを知らなかったのか?なぜ周囲はそんな重大なことを知らせてくれなかったのか?なぜシルヴィオは一言も言ってくれなかったのか?

秘書として自分を扱ったのはシルヴィオではないか。ここにいていいと言ったのはシルヴィオではないか。ならばその自分には、少なくとも今のこの時だけラルコエドに組み込まれている自分には、それを知る権利はあったはずだ。それなのになぜ自分には教えられなかったのか?
一瞬のうちに様々なことを考えた真澄は、そのとき急に、ここ数日隣室が空白であった訳を理解した。

「シルヴィオ様はとてもお強い方です。そのお強い方が、しかも国王がその人とあっては、同じ戦地に立つ兵士たちは覇気を得ることでしょう。その見込みがあってこその出征なのです」

彼女は申し訳なさそうな表情でぱっと顔を上げると真澄に詰め寄った。

「責めないでくださいませ。責めるならば、私たち仕えの者を責めてくださいませ。シルヴィオ様は真澄様を邪険に思われてこの箝口令を敷かれたのではありません、決して」

語尾の「決して」の部分を強調すると、彼女は真澄の手を取って己の胸元にそっと当てた。
祈るようにして目蓋を閉じる彼女は、しばらく経ってから躊躇いがちに口を開く。

「これ以上はとてもとても、私の口からは申し上げられませんが……。ですが真澄様、このあとは、この機会だけはどうか逃さないでください」

痛切すぎるとも言える彼女の懇願に、真澄はそれが彼女自身にできなかったことを言っているのだとすぐに思い当たった。
恐らくは彼女は戦の渦中にある許婚と、戦争が始まる前に言葉を交わすことができなかっただろう。
その彼女の心情を自分に置き換えてみた途端、自分のことではないのに真澄は無性に悲しくなった。

真澄の手から、静かに彼女の手が離れる。
だがその一連の行動が、自分はこれからやらなければならないことを託されたように感じられて、真澄はふと何故か孤立感を味わうまでに怖くなった。
あとは自分の行動次第なのだと、彼女の向こう側にある「なにか」が示唆している気がした。

「では失礼しますわ、真澄様」

彼女は終始心配そうな顔をして部屋を出て行った。
そんな彼女の表情が真澄の中に色濃く残りはしたのだが、しかしこの時ばかりは別のことで真澄の頭はいっぱいになっていた。

シルヴィオが、ここ数日顔さえ見ることができなかったシルヴィオが、来る。
そう思ったとき身体中が尋常ではないほどに熱くなって、どうしてか気が先に先にと急いて、口の中が一気に乾いてしまった。

シルヴィオとなにか話せと言われても、話すことが思いつかない。
いや、そもそもシルヴィオが戦地に赴くということすらまだ理解しがたいことなのだ。
どうしよう、このあとどうすればいいのだろう。真澄は侍女が部屋から出て行った時と同じ場所に立ち尽くしたまま、動き回るでもなくただ慌てて、時折頭に手をやってみたりしながらあれこれ考えた。

それにシルヴィオは一人で来るのか、それとも侍女や秘書が傍にいるのかも分からなかった。もし誰かがシルヴィオの傍にいたら迂闊なことは言えない。
だが万が一シルヴィオが単体で来てしまったら―――と考えた真澄は、そこでありとあらゆる意味でぞっとした。
それは本当に言い表しようのない感情だった。例えるならば、人間の喜怒哀楽という括りをすべて解いた感情を、狭い均質な空間に強引に捻じ込んだかのような混沌としたものだった。

不意に真澄の脳裏にシルヴィオの端正な顔がよぎった。それは笑いもしなければ怒りもしない、つんと澄ましたような顔だった。
しかしその顔が一瞬にして、ふっと柔らかく笑んだ時の顔に変わった。
そんなシルヴィオの残影に心臓は次第に早鐘を打ち始める。名案は考えようとしても煮詰まるだけでどうにもならない。

シルヴィオが隣室に来るその瞬間を、せめてあと数時間待ってほしいと真澄は思った。そうすれば今は思い付かなくても、なんらかの解決策が数時間後には見付かるはずだという根拠のない確信があった。
だが真澄の願いも空しく、そんなことを考えたまさにその時、隣の部屋の扉が開く音がした。













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2009/06/06