何度呼びかけても揺すってみても、永遠に目覚めることのなかった母。 たとえ自分が呼びかけても、なにも返ってこないと分かるほどの姿をしていた父。 けれど彼女は、彼女だけはまだ呼べば答えてくれる。 きっとその黒の瞳をきょとんと瞬かせながら、怪訝そうな顔であろうがこちらを振り返ってくれる。 それだけでいい。それだけでよかった。自分がこの世界に立つ理由は、それで十分だ。 だが、彼女の閉じられた目蓋を開けるために声をかけるのは今ではない。 そう考えて無理矢理後にしたあの部屋は、彼女の面影でいっぱいだった。 Heiland -03 これは後で聞いたことなのだが、アネルのその後の用事というのは、どうやら戦地へ派遣される準備に赴くためだったらしい。 泣きそうになった。侍女たちの会話の中からちらとその話を耳にしたとき、身体から一気に力が抜けた。 アネルは一言もそんなことを漏らさなかったから、最後の言葉をかけることさえできなかった。 最近になって、大切な人が次々とこちらに背中を見せて先に行ってしまうような気がしていた。 今まで見たことのなかった戦火が日に日に自分の元へ近付いているのだと、もはや疑う余地はなかった。 しかしいざ目の前で人々が戦う光景を想像してみると、どうしようもなくぞっとする。 身体の心に冷え切った鉄を打ち込まれたかの如く、なにも考えられなくなる。 「真澄様、お茶のおかわりはいかがです?」 真澄は突然の人の声に驚いてぱっと顔を上げた。そこではまだ若い侍女が、こちらの顔を覗き込む形で微笑んでいた。 彼女の手には、繊細な彫刻が施されたティーポットが携えられている。 「え……あ、はい。もらいます」 ここでこんなことをしている場合ではない。 そうと分かってはいるのだが、この状況下で自分にできることなど、シルヴィオを始めラルコエドの人々に迷惑をかけないこと以外に、なにもなかった。 ただ自分は自分の部屋で退屈凌ぎに茶を飲みながら本のページをめくるしかない。 しかしアネルとの面会以後、真澄のもとには一日交替で一人の侍女がやってくるようになった。 彼女たちは真澄の話し相手となり、こちらを退屈させないようにと色々取り計らってくれたりもするのだが、真澄は正直なところを言うと申し訳なかった。 恐らく彼女たちにもやるべき仕事があろうに、それをこんな小娘の相手に費やしてもらうのがなんだか後ろめたくさえあった。 傍から見れば、面と向かい合って部屋のほぼ中央にあるソファに腰かけている自分たちは午後の茶会でも開いている、といった感じだろうか。 しかしそんな雰囲気はもはや表だけのものである。少なくとも真澄だけは、この空気に馴染めそうになかった。 先日アネルが座っていた場所に腰掛けて今もティーポットからカップになみなみと茶を注ぐ侍女の顔を、真澄はちらとだけ見た。 彼女は今起きている戦争のことを知っているのだろうか。一抹の不安が脳裏をよぎる。 「あら、残りがなくなりそうですわ。私、お茶を入れ替えて参ります」 突然そう言ってすくと立ち上がった侍女は、ティーポットを手にすると歩き出そうとした。 しかし今まで彼女の両手に支えられていたティーポットが、途端になぜか彼女の手からするりと離れて落ちる。 がしゃあんと、いっそ清々しいほどの綺麗な音をたててポットは割れた。破片と、まだポットの中に残っていた茶が辺りに飛び散る。 「あ、待って!あたしがやります」 飛び散った熱湯を両手に受けながらも、散らばったティーポットの欠片を拾い集めようとする侍女に真澄は慌てて駆け寄った。 こちらを見て戸惑う侍女の手の上に、はい、と近くにあった厚手のハンカチを当てる。 「……あたし、もともとお姫様っていう柄じゃないんです」 真澄は床に落ちている一つ一つの破片を拾い上げながらそれとなく言った。 このとき自分でもなにを喋っているのか分からなくなったが、恐らく、これも他愛もない退屈しのぎの会話くらいにしか思っていなかったに違いない。 「このお城では秘書なんてことやってますけど、元はあたし、この世界でいう平民なんです。あ、そうそう。たとえばお小遣いがなくなったらその月は何も買えなくなっちゃうし」 真澄はそこで元の、今までの自分の生活を思い出し、自嘲気味に小さく笑った。 「こうやって畏まられるのにも慣れてないし、だからこそあたしの名前に『様』とか、使ってもらわなくて全然いいんです。むしろこんなあたしでよければなんでも気軽に話してください、って感じで。……あ、でももちろんシルヴィオには言いませんよ?あいつに言ったら言ったでなんか面倒なことになりそうじゃないですか、ほんと」 真澄は言いながら、破片を拾うために折っていた腰を上げた。 傍に立つ侍女はこちらを放心したように見つめながらなにも言わない。 「そう言えば火傷しませんでしたか?あれ、この世界って氷あったっけ……。あの、水を凍らせると氷っていう冷たいものができるんですけど、冷凍庫……はないか」 侍女が無言なのでとりあえず一人で喋りまくっていたのだが、次第に場の空気がまずくなっていくのが分かった。 少し喋りすぎただろうか。さすがに真澄は口を噤んだ。 「……っ、私……」 真澄がそろそろ自分も黙っておこうと思い始めたとき、今まで沈黙を貫いていた侍女は唐突に両手で顔を覆うと震える声で言った。 「だ、大丈夫ですか!?やっぱり熱い!?」 真澄が焦って聞くと、彼女はふるふると首を横に振った。 そして少しの沈黙の後で、身体の奥から絞り出すようにしてぽつりと呟く。 「エ、エルミーラ……。あそこには私の家族と、許婚が……」 ここで真澄はふと、顔を覆っている彼女の両手が小刻みに震えているのに気が付いた。 「怖いんです、怖いんです。どうすればいいんでしょうか。あと数年ここで務めを果たしたら、故郷に戻るつもりでしたのに、でも、でも……っ」 この時、真澄ははっとして思い出した。 以前ガラヴァルは「ロゼリス」という第二都市が敵の手に落ちたと言っていた。 「エルミーラ」は確かラルコエド国の第一都市の名前だ。それは、いつか見た地図では「ロゼリス」の近くにあったはずだ。 今も肩を震わせて俯く侍女の姿を、真澄は信じられない気持ちとともに凝視した。 ―――まさか。 「家族と彼がいなくなったら、私は……っ」 彼女の指の間から漏れる悲壮な声色が胸に突き刺さるような気がして、真澄はいたたまれなくなった。 それでも真澄は一瞬躊躇ってから、ぎゅっと彼女の華奢な身体を抱きしめる。 彼女は次の言葉を続けることができずに、そこで声を詰まらせると咽び泣いた。 この世界も嫌になるくらい元の世界と同じだ。 真澄は彼女を抱きしめたまま天を仰いだ。視界すべてに部屋の広い天井が映った。 自分だけではないのだと思った。この状況を嘆いているのは、自分だけではない。 どちらも感情をもった同じ人間なのだ。敵味方関係なく、この戦争にかかわっているすべての人々が、彼女のように同じ想いを抱き泣いている。 けれど真澄はあえてなにも言えなかった。 たとえどんなに自分が雄弁であっても、それはこの場を取り繕うだけのものでしかない。 そんな表だけの単なる慰みに過ぎない言葉は、今はない方がいい。 腕の中で尚もしゃくり上げる侍女に感化されたからなのだろうか。それとも本当にそうしたかったからなのだろうか。 真澄はここで自分も彼女のように一気に泣いてしまいたくなって、どうしようもなくなった。 BACK/TOP/NEXT 2009/05/04 |