(……ん?) 部屋の中にふとなにかの気配を感じて、深い眠りに落ちていた真澄は薄らと目を開いた。 その感覚は地震がくる数秒前に偶然起きたりするものとどこか似ていた。 (誰だろう……) 西洋風の小物や家具で揃えられた、今は灯りをすっかり落としているこの部屋に、なぜか誰かが入ってきたような気がしたのだ。 しかし再び襲ってきた睡魔が思考回路を妨げて、真澄はそれ以上深く考えることができなかった。 そんな中で、ぱたん、と静かに部屋の扉が閉められた音が聞こえた。と同時に自分以外の気配もすべて消えた。 大方侍女の誰かが自分の様子でも見にきたのであろう。それか忘れ物でもして取りにきたかのどっちか。 こちらに危害を加えようとしないことさえ分かれば安心だった。真澄は起き上がるのをやめて、もぞもぞとベッドにもぐりこんだ。 (……ま、いいか) そうして真澄は再度、心地いい夢の中に意識を手渡した。 Heiland -02 窓の外からチチチと小鳥の涼やかな囀りが聞こえてくる。 しかし真澄はそんな穏やかな雰囲気に浸ることなく、自分の部屋にある大きな机の上を見詰めたまましばらく黙っていた。 机の上には今、切り取った羊皮紙の端に付けていたチェックマークがずらりと並んでいる。それらはとうに四十個を過ぎていた。 チェックマーク一つが一日換算だ。 それはつまり、自分がどこかで丸一日を寝過していなければの計算だが、ラルコエド国にきて既に一ヶ月以上過ぎ去ってしまったということになる。 まさかとは思っていたが本当にまさかの長期滞在に、真澄は心の中で頭を抱えた。 (……まずい) シルヴィオは先日、ここにいてもいいと言ってくれた。だが永遠にこの場所に居続けることは叶わないだろう。 「高木真澄」という完全な異国人の存在はこの先必ず厄介なことになる。それは真澄が一番感じていたことだった。 シルヴィオは国王なのだ。彼はたとえ晩婚であれ後継ぎを残すためにかなりの確率で結婚するだろうし、そうなればお偉いお姫様か誰かがどこからかやってくることになる。もしその時まで自分がこの場にいたら―――大問題だ。 早く元の世界に帰らなければ。と思うと同時に、心の奥が変に苦しくなって真澄は小首を傾げる。 そう言えば、とシルヴィオのことを考えた真澄は思わず背後を振り返った。 真澄が振り向いたそこには、シルヴィオの部屋と繋がる一枚の濃いこげ茶色の扉が相も変わらずに佇んでいる。 気になるのはもちろん濃いこげ茶の扉ではない。その向こうにいるシルヴィオだ。 なにせシルヴィオの姿が隣室から消えて何日も経っていた。朝夜を問わず、彼は帰ってこない。 たまに顔を見せる侍女もなにも言わない。それが至極当然とでも言わんばかりに、いつもの振る舞いや笑顔で現れる。 (……国王、ね) 彼は、シルヴィオは、どうしてそこまで大きなものを背負っても立っていられるのだろう。 もし自分が一国を治めなければならない状況にあったとしたら、即お手上げ状態決定だ。 「真澄様、よろしいでしょうか?」 やはり自分に国王は無理だと真澄が結論付けたちょうどその時、どこからか可憐な声が聞こえて、さっきまでは微動だにしなかった部屋の扉が静かに開いた。 扉の向こうには一人の侍女が微笑みと共に立っていた。 「真澄様、面会をしたいとの申し出がございますが、いかがしましょう?」 いかがするもなにも自分に面会を申し込んでくる知り合いはこの世界にはいないはずだ。 そう思いながらも真澄は驚き焦って聞き返した。 「面会って、あの、誰ですか?」 「アネル・ラングです。ラルコエド城の専属医でございます」 「……あっ!」 忘れていた。いや完全に忘れていたわけではないのだが、頭の片隅に放っておいたままにしてしまったというべきか。 真澄の脳裏にいつしかのアネルとの別れ際のやりとりが蘇ってきた。 確かにあの不自然な別れ方で、しかもそれきり音信が途絶えたのだからアネルはさぞかし疑問に思ったことだろう。真澄は咄嗟にアネルになんと言えばいいのか、なんと説明すれば音信が途絶えた理由を取り繕うことができるか迷った。 しかしこれはある意味好都合でもあった。 シルヴィオは今は隣室にいない。となれば堂々と、前回聞きそびれたガラヴァルのことについて言及できる。 真澄は若干アネルに申し訳なく思いながらもすぐに面会を受け入れた。侍女は真澄の返答を聞くと身を翻し、代わってアネルが扉から顔を出した。 「ああ真澄様、無沙汰にしております。事前に断りもなく唐突に面会など、申し訳ございません」 「いえ、ちょうどあたしもお会いしたかったところです!」 真澄が慌ててそう答えるとアネルは嬉しそうに目を細めた。 「なんのこちらこそ。光栄にも以前、またわたしにお会いしたいと真澄様が仰られたのが忘れられませんでして……。シルヴィオ様からの言伝ついでに参りました」 アネルの柔らなかな言葉の中にいきなり「シルヴィオ」という単語を見つけて、真澄はどきりとする。 「シルヴィオから?」 「はい」 シルヴィオからの言伝の内容を聞くのがどこか少し怖いような気がしながらも、真澄はアネルを部屋の中に招き入れ、部屋にあるソファに面と向かい合って腰掛ける。 アネルは部屋の扉が完全に閉まり、部屋の中に誰もいないことを横目で確認すると、比較的落ち着いた声色で話し出した。 「ですがそれはあとでお話しいたしましょう。まずは真澄様のご用件を伺いたいのですが」 「あ、前にあたしが言いかけたこと……ですよね?」 「ええ、そうです。しかし実はこれから用事が入っておりまして、少ししか時間が取れませんで。なるべく答えられるように尽力はいたします」 最初の物腰柔らかな態度とは打って変わって、アネルの真剣な瞳がこちらを見据えた。 「あ、あの、そんなに大事って話でもないので軽く聞いてもらえますか?」 勢い身構そうなアネルに、真澄は苦笑して手を横に振ってから口を開いた。 「えっと、まだ数回しか会ったことがないんですけど、こうさらーっとした長い黒い髪の少年なんですけど。アネルさんは彼のことご存じですか?」 「はて、黒髪ですか……。珍しい容姿のお客人なら忘れるはずはないのですが……」 「その男の子、名前はガラヴァルっていうんです。それと服装が軍服みたいでした」 今まででも十分考え込んでいたアネルは、真澄のその発言でさらに深く考え込む姿勢になった。 そこまで深く取り合ってもらわなくてもよかったのだが。真澄は予想外のアネルの対応にどぎまぎしながらソファから腰を半分上げた。 「あ、すみません!やっぱりあたしの勘違いかもしれないです!」 「……はあ。そうでしょうか?」 小難しい表情のまま顔をあげたアネルに、真澄は頭を掻きながらえへへと苦笑して座り直した。 「見間違えたんです、きっと。黒髪ってこの国では珍しいから、なにかの間違いですよねやっぱり……」 自分がこの国に来ただけでも周囲の人間はことあるごとに「黒」に注目するのだ。 この国の人間が黒髪を持つ人間をあっさりと見逃すはずはない。アネルは恐らく彼を見たことがないのだろう。 真澄は言葉の上では否定の言葉を並べながらも、心ではガラヴァルという少年は実在すると確信していた。 だが真澄の頭を掻く手はこの時、自分でも知らないうちにぴたりと止まった。 ガラヴァルという少年は本当にいるのだと心の中で強く思ったまさにその瞬間、とてつもない不安が背後から襲いかかってきたように感じられて真澄は絶句した。 (……何?) 真澄は心の奥底から湧き上がった疑問に、ついに自分自身で分からなくなった。 いっそ背筋を凍らせるこの大きい不安の原因さえもまるで見当がつかない。それでも目に見えない恐怖は健在だった。 そもそもガラヴァルのことになると、いつも自分はなにかフィルターのような壁のようなものを設定してしまっている気がする。 ここまで彼のことを知ればいい。これで十分だ。という風に、いつも肝心な部分を曖昧にしている気がする。 なぜなのだろう。真澄は唖然としながらも自分自身に質した。答えはやはり見つからなかった。 途端に、真澄は身体中が恐ろしく冷え切っていくのを感じた。 自分はなにか、ガラヴァルと言う少年からとても大切なものを聞き逃しているような気がする。 それをおざなりにしたまま、自分はのうのうと時間が指し示すままに進んでしまっているのではないか。これでは―――。 「ガラヴァル、ガラヴァル……神の名を持つ少年ですか。まるで言い伝えにある救世主ですな。いや、本当に現在のこの状況下では救世主が現れて欲しいものですが……」 真澄の思考を横切るようにして呟かれたアネルの言葉に、真澄ははっとして顔を上げた。 「そ、それ……っ!」 「はい?」 「それ、今の話、あたしまだ聞いてないです!」 ガラヴァルのことなら、なんでもいい、知らなければ。真澄はその一心でアネルの方に身を乗り出していた。 どくんどくんと心臓が拍動している。身体中をめぐる血が熱い。ガラヴァルがこの国の神だということは聞いていたが、しかしガラヴァルが救世主とはいったいどういう意味なのだろうか。 真澄の気迫に負けたのか、しばらくしてからアネルはゆっくり口を開く。 「ええと……。真澄様は、確かラルコエドの成り立ちについては知っていらしたのですかな?」 「はい、前に聞きました!」 答える時間さえもどかしくて、真澄は威勢よく即答した。 するとアネルは一気に真面目な表情になり、身を乗り出す真澄の方へ同じく身を乗り出して声を潜めて言った。 「では、わたしの一存でこの話はさせていただきます。本当は国外の者には他言してはいけないというラルコエド国における暗黙の了解のような掟がありますが、お相手が真澄様だからこそ、わたしはお話しいたします」 アネルは一拍置くと、先と変わらぬ冷静で静かな口調で語りだした。 「大昔のことです。ラルコエドが成立して幾許ともいかない頃でしょうか、ラルコエドに危機が起こりました。国と国との衝突です。ラルコエドの土地を我が物にしようと企んだとある国が挙兵し、ラルコエドには多くの敵国の兵がなだれ込みました」 この話を聞くのは初めてのはずなのに、真澄の脳裏にはアネルの言葉と同時にその大昔の光景がまるで前に見た映像のように映り始めた。 そんな自分自身に悪寒を感じて、腕にはぞわりと鳥肌が立つ。 「しかしその時です。ラルコエドが敵の急進に苦戦しているまさにその時、異国の人間がどこからともなく現れ、当時もラルコエドの神として崇められていたガラヴァルと意思疎通を図り、そのガラヴァルの手を借りて国を守ったということです」 どくん、と全身をめぐる血流が一瞬だけ大きく脈打った。 真澄はどうしてか呆然としながら、それでも話し続けるアネルの顔を見続けた。 「国を守ったその方法までは分かっておりません。ですが学者の間では、恐らくその異人はかつてラルコエドを建国した魔術師の末裔なのでは、という見方が強まっております。だからこそ、その言い伝えがあるからこそガラヴァルはわたしたちの神なのです。どんな窮状に陥っていても、ガラヴァルはわたしたちの最後の頼みの綱なのです。そしてそのガラヴァルと意思疎通を図れる者は、救世主以外の何者でもございません」 アネルのその言葉と同時に、真澄の耳には別の誰かの声が聞こえてきた。 それは途切れ途切れで、必死に耳を澄まそうとするのに、掴みどころがなくて易々と逃がしてしまう。 「真澄様は蔵書室にある石碑をご存じではないですか?以前、石碑の近くにおられたのでそうではないかと思ったのですが。あれに刻まれてあります碑文は今の物語のさわりみたいなものでして、よく子供を寝かしつけるときに親が語ったりもしまして―――」 アネルの言っていることが遙か彼方から聞こえるように感じる。 逆に、さっきまで聞き取ろうとしていた誰かの言葉が次第に明瞭に聞こえてくるようになる。 ―――彼の、が危機に……する時、異……の救済者……。 真澄は気付いた。アネルではない別の声は、他の誰でもないシルヴィオの声だ。 その内容はかなり前の、彼にスパイではないかと疑われた時に連れ出された蔵書室で石碑を朗読していた時のものだ。しかしそれが今となっては不思議なくらい思いだせない。 真澄はじんわりと手に汗を感じて、アネルからは死角になっているところでドレスの裾をぐっと握った。 走ってもいないのに、どくんどくんと心臓の鼓動が速くなる。 脳裏にはシルヴィオのなにかを喋っている横顔がフラッシュバックする。 "あの時のシルヴィオは、なにを言っていた?" 「失礼します。アネル様、そろそろお時間です」 「おお、もうそんな時間ですか」 心配そうな表情で扉から躊躇いがちに顔を出した侍女に、二の句が継げない真澄に気付かないアネルはゆるりと視線を送る。 「どうでしょう。真澄様のご期待には添えられたでしょうか」 「……あっ、はい」 再びこちらを向いたアネルに、正気に戻った真澄は慌てて答えた。 「では最後に、シルヴィオ様からの言伝を申し上げます」 今の話の余韻など微塵も感じさせない穏やかな口調で、アネルは切り出した。 真澄は呆けていた頭を無理矢理切り換えて、とにかくシルヴィオからの伝言も大切だと自分に言い聞かせて数回頷く。 「今後一切、真澄様はこの部屋からお出になってはなりませぬ」 真澄は突然の出来事にまたも驚いて何も言うことができなくなった。 物言いは穏やかであるのにもかかわらず、アネルのその言葉にはしっかりとした厳しさが含まれていた。 そんな真澄の心中を理解したのか、アネルは居住まいを正してから再度口を開く。 「この部屋は元は歴代国王の寝室であります」 「はい!?」 もちろんここで真澄が驚いたのは、国王の寝室である場所に今まで自分が寝泊りをしていたということだ。 素っ頓狂な声を出した真澄を気にとめることもなくアネルは続ける。 「シルヴィオ様の祖父にあたられます祖父王様が王位に就いておりました時、エディルネ様が育てられた恩を、ということでこの部屋に直々に魔術を施して、敵のいかなる攻撃からも半永久的に守るようになされました」 エディルネという人は聡明であるばかりでなく、そんな大それたことまでやってみせたとは。 これはもはや容姿が自分に似ている似ていないどころの話ではない。自分とエディルネとは、根本からまったく違う。真澄はそう思った。 「でも、シルヴィオは隣の部屋……?」 「はい、その通りです。シルヴィオ様は即位してからというものこちらの部屋をお使いになりません。それは、シルヴィオ様は……なんと申し上げればいいものか、魔術に守られている部屋で生活するなど戦場で敵に背を見せるようなものだ、卑怯だと仰られて、周囲の反対を押し切り、寝室を執務室と同じ隣室に移動されてしまったのです」 いかにもシルヴィオがやりそうなことだ。真澄は内心苦笑した。 と、その時、真澄ははっと思いだした。 ―――成程な。この部屋なら安心だ。 そうだ。ガラヴァルと二度目に会った時、彼は窓の外を眺めながらそう言ったではないか。 それはもしかしたらこのことを指していたのだろうか。いやしかし、彼の年齢は何十年も生き続けているには幼すぎる。ならばどうしてガラヴァルはこの部屋の秘密を知っていたのか。 ガラヴァルのことを思い出した真澄は、そこでまたも名状しがたい感情を覚えた。 怖いような、恐ろしいような。いや、それでもどこか懐かしいような、親しみやすいような。 「いいですか、この部屋から今後出てはなりませぬ。扉の前には誰か侍女を常駐させるから、用件は彼女たちに、とのことです」 アネルは言い終えてからややあって目を伏せると、しみじみとした表情を見せた。 「……真澄様を見ていると、シルヴィオ様は本当にあなたを大切にしたいのだと分かります」 「あ、いや、そんなことは……」 「シルヴィオ様のお気持ちが、理解できなくはないでしょう?」 アネルの心配そうに念を押す姿に、真澄は反論する余地もなかったので黙って首を縦に振った。 しかしそこで真澄は察した。シルヴィオは、我儘を言ってここに残るといった自分を最後まで世話してくれているのだ。 迷惑をかけないつもりだったのに、結局は彼のお荷物になってしまっている。そんな自分を見つけたとき、やはり国外に追放されるべきだったのかと真澄は一瞬戸惑った。 だが次にアネルが喋り出したとき、彼の語り口の中にそんな気配は見られなかった。 「真澄様、これがあなたの選んだ結果であるならばわたしは口出しいたしません」 「あ……はい」 「ですがしかし、いいですか。未練は残されても後悔はなさいますな」 それだけ言うと、扉の向こうから急かす侍女に促されてアネルはそそくさと退室していった。 真澄は誰もいなくなった広い部屋で、ただ一人ぽつんとソファに腰かけたまましばらくは動こうとしなかった。 さっきまでは軽やかに囀っていたと思っていた小鳥の声が今ではどこか煩わしく感じられる。 この数十分の間にいろいろな情報が入ってきすぎたのか、なんだか頭が痛い。 ガラヴァルのことも、そしてこの部屋とエディルネとの繋がりも、もっと早くに聞こうとしていたら聞けていたはずのことだ。 自分は後悔しているのだろうか。真澄はアネルの最後の言葉を反芻し、自身に問うた。 この世界にきてこんな状況に陥っていることを、自分は後悔しているのか。いや、それともこの先後悔することになるのかもしれないのか。 しかしそのどちらにしろ、今の真澄にははっきりと答えようがなかった。 BACK/TOP/NEXT 2009/04/17 |