Kummer -05 急に真正面から吹き付けてきた肌を刺す冷風に、真澄は驚いて身を強張らせた。 「ああ、今日はちょっと寒いよね」 前を歩いていたサシャはゆっくりとした調子でそう言うと、少しだけこちらに振り返ってにこりと微笑んでからまた前を向いた。 いつの間にか、真澄の頭上にはラルコエド国の空が広がっていた。 不純物などなにもないくらい澄んでいて、そしてなによりもそんな青空の中に浮かぶ黄色い太陽らしきものは、いっそ眩しかった。 しかし真澄は焦っていた。 記憶がなかった。シルヴィオの部屋を出たところまでは覚えているが、それからどこを経由して、今どこを歩いているのかさえ定かではない。 どうやら自分は今の今までぼんやりしていて、サシャに手を引かれるがままに歩き続けていたらしい。 (……どこだろう) 周囲の風景は、城の外だということもあるのだろうが、馴染みのないものばかりだった。 もしかしたら自分があまりに呆けすぎていたせいで、城そのものから出てしまったことも気に留めなかったのだろうか。そう考えた途端、なぜかひどく不安になった。 しかしそうして真澄が辺りをぐるりと見回した時に、ふと目に入った建造物に、あれ、と思った。 どこかで見たことのある英国風の建物が大空を仰ぐようにして、今や真澄とサシャの眼前にそびえ立っている。 まだラルコエド城の敷地内にいるということに、自分でも驚くほどほっとしたのが分かった。 記憶違いでなければ、それはまさしく数日前にシルヴィオとサシャとの模擬試合が行われた稽古場近くの建物だ。 細かな装飾が至るところに施されていて、三角の屋根は若葉色のようなオリーブ色のようなそんな色をしている。 だがサシャは、真澄が一回入ったことのある稽古場へと繋がるアーチ状の建物ではなく、そこから横に続いている別の棟の入り口へと進んでいく。 サシャはまだ自分の前に立って手を引いてくれている。そうして真澄はサシャと共にそのまま建物の中に足を踏み入れた。 そこでも廊下は真っ直ぐに伸びていた。ラルコエド城内の廊下よりは少しだけ細くて装飾品もあまり見受けられないが、ただその廊下全体の色調は穏やかだと思った。 しかしここがどこなのかは未だに判然としなかった。 真澄はこっそりと、なにか目印になるものはないかと周囲の状況を窺った。その時、偶然にも誰かの姿がサシャの肩越しに見えた。 騎士か兵士だろうか、サシャと似たような服を着ている青年がこちらに歩いてくる。だが真澄は、彼に見覚えがあって目を瞬いた。 最初は分からなかったのだが、だんだんと彼の姿が大きくなるにつれて確信した。 それはシルヴィオとサシャの模擬試合が行われた時、真澄がふらりと入ってしまった貴賓席の場で世話になった青年だった。 こちらだけでなく向こう側も気付いたらしい。 青年はサシャの姿を認めてすぐに敬礼しようとしたが、しかし彼は真澄と視線が合うと途端にぎくりとした表情を見せた。 「た、隊長!?その方はもしかして国王の……!」 「ふふ。ちょっとお客さんだから静かにね。うるさくしたら承知しないよ?」 「は、はい。心得ております!」 青年はどもりながらも強くそう答えると、それきりこちらには目もくれず足早に立ち去ってしまった。 自分と話した時はにこやかに接してくれたのに、サシャを前にするとあんなにも真剣な顔をするんだ。真澄は少し意外に思った。 「あー、でもやっぱり心配だなあ。変な噂が広まらないといいけど」 また歩き出したサシャのあとを、真澄は一瞬躊躇ってから追った。騎士や兵士と出くわすのはさっきの青年が最後になった。 そうして無人の長い廊下をいくらか歩いて、ところどころ階段を上がったり、道を右に折れたり左に折れたりして、サシャは止まった。 この建物を歩いていて感じていたことだが、どこの廊下に面している壁にも似たような形の扉が整然と嵌め込まれて並んでいた。 そして今、自分とサシャが立っているのも、そんな数多くある扉の中の一枚の前だった。 「一応これでも掃除はしているつもりなんだけど、汚かったらごめんね」 もしやこの建物はサシャの住んでいる場所なのだろうか。 目の前の扉を開けて、どうぞ、と促すサシャの顔をちらと見てから、真澄は恐る恐る部屋の中へ入った。 「わ……全然、そんなことないです。きれいです」 「本当?ありがとう」 小さな部屋にベッドが一つ、木製のテーブルに椅子が二つ、あとは必要最低限のものしか揃えられていなかったのだが、不便はないだろうと思った。 部屋に入って真正面にある窓からは、優雅な昼の暖かな日差しが差し込んでくる。 開けた扉に凭れてこちらを見るサシャは、振り返った真澄ににこりと笑み返してから言った。 「この棟は切込隊専用なんだ。この奥に行くとまた別の棟があって、そこはまた別の後続の部隊の宿舎でね」 「……まだあるんですか?」 「そりゃあラルコエド軍は大軍だからねえ。あ、あとね、隊長格以上なんだよ一人部屋が割り当てられるのは。それ以下は大部屋!四人以上で一部屋が当たり前って言う非常にむさくるしい窮地!」 苦い表情をしてみせるサシャに、真澄は思わず吹き出して笑う。 すると急にサシャは思いついた顔付きになって、ちょっと待っていてと言うと部屋の外へ姿を消したが、それからしばらくすると、トレイの上に載せたティーセット一式を手に戻ってきた。 「あはは。食堂に行ったらさ、みんなから白い目で睨まれちゃった。ひどいと思わない?」 国王の愛人を寝取るとでも思っているのかな。 サシャは苦笑しながらそんなことを呟くと、部屋の中にただ一つしかないテーブルの上にティーセットを置き、二つあるうちの一つの椅子に腰掛ける。 真澄もサシャに勧められて、テーブルを挟むようにしてサシャと向かい合うもう一つの椅子に座った。 「ああ、やっぱりお茶はいいよねえ」 「……あの」 「はいはい?」 「サシャさんは、あたしの国外追放のこと、知ってますか?」 「うん。ちょっとだけね」 やはりサシャは知っていたのだ。いや、それならばどうしてそのまま放っておかなかったのだろうと、真澄は同時に湧き出た疑問に首を傾げた。 シルヴィオの命令はすなわち国王命令だ。この国ではきっと重要なものだろう。 しばらくはどちらもなにも言わなかった。ただサシャが茶を入れる音だけが部屋の中に静かに響いていた。 どれくらいか経ってから、真澄はそれまで密かに聞きたいと思っていたことを、勇気を出して聞こうと決心して口を開いた。 「……サシャさん」 それでもなかなか顔を上げられずに、仕方なく顔を伏せたまま言った。 「サシャさんは、その……さっきの言葉、本気じゃないですよね?」 「そう?本気だよ」 「嘘です」 頑なな真澄の言葉を意外に思ったのか、サシャは弾かれたように笑った。 「どうして?こんな可愛い子、欲しいって思うのは当然じゃない?」 にこにこと、いつもと変わらない笑みを見せるサシャにつられて、真澄もこの時ほんの少しだけ笑った。 「嘘ですよ。だってサシャさんの目、違いますから」 真澄がそう言った途端に、茶を入れ終えたティーカップをこちらへ差し出しかけていたサシャは目をきょとんと丸くさせた。 「ん?違うって?」 「えっと……なんて言えばいいのかちょっと分からないんですけど、でも少なくとも、サシャさんが欲しいって思うのはあたしじゃないんです」 しばらくの沈黙があった。 まずいことを言ってしまったかもしれない。真澄は言ってからすぐに罪悪感に襲われた。 しかしサシャが自分を欲していないという事実は明白だった。あまり色恋沙汰に敏感なわけではなかったが、それだけは自信を持って言えることだった。 真澄はこわごわながらも目線を上げてサシャの顔を窺った。 サシャの怒っているところはまだ見たことがなかったが、もしかしたら怒らせてしまったかもしれなかった。 しかし真澄の心配をよそに、テーブルの向こうに座っているサシャは怒るでもなく、ただ苦笑していた。 「シルヴィオはね、きっと躊躇しているんだろうな」 真澄は温かいティーカップを手に、また伏せていた顔をちらとだけ上げた。 「私がこの騎士団に入ったのは六歳の頃でね、あ、と言っても最初は訓練生なんだけど。その頃のシルヴィオは三歳だった」 いったいなんの話だろう。 真澄はこの先の展開が想像できなかったので、ぼんやりとサシャが話す姿を見つめた。その間もサシャは喋り続けた。 「シルヴィオのお母さん、妃様が亡くなられたのはそれから二年後。シルヴィオは五歳、私は八歳」 サシャは明後日の方向からこちらに視線を移すと、ふふ、と笑った。 「歳が近いってこともあったんだけどね、よくシルヴィオが剣の練習をしに騎士団にくるから、シルヴィオとは身分関係なしに仲良かったんだ」 「……そう、なんですか」 「でもさ、妃様がお亡くなりになられてからシルヴィオはそれきり今のあの中庭、元騎士団の練習場の片隅でただぼうっと座り込んでるの。五日もそんなことしてるものだからこっちも心配になっちゃって、思わず声をかけずにはいられなくなっちゃって」 真澄は目の前にあるサシャの瞳に、なにか哀愁のようなものが漂っていることに気付いた。 「で、彼の肩を叩いて、シルヴィオって声をかけたら、でも普通にだよ?それだけなのにさ、シルヴィオは真面目な顔をして振り返って、それから急に目にいっぱいの涙を溜めてわんわん泣き始めたんだ」 「……」 「だけど、あれには参ったね。まるで私が泣かせたみたいだったもん」 サシャは口では事を明るく話しているが、違う。 真澄は、今まで自分は重大なことを見落としていたのだと知った。 普段は仲が悪いのだろうかとも思わせるほどだが、そうやって自分が思っているよりもシルヴィオとサシャの繋がりは深くて、そしてシルヴィオが昔も今も背負っているものは、尋常ではない。 「それから何年かあとにはクラウス様もお亡くなりになって……それからかな。シルヴィオがあんなに陰険な雰囲気を纏うようになったのは」 この時、サシャが自分を連れ出した理由が分かってしまって、真澄は嬉しさなのか自分の不甲斐なさなのかで泣きたくなった。 サシャが自分を伴侶にすると言っても信じられなかったその訳が、ようやく飲み込めた。 (……やっぱり、優しい人だ) サシャにそう言ったらどんな顔をするだろうか。 きっと訳が分からないという、呆気に取られた顔をするだろうという予想はついた。 もちろんサシャはシルヴィオのことを誰よりも心配している。だが、同じくらい自分のことまでも心配してくれているのだ。 幼馴染だからと言って国王命令を覆すことは、いくらサシャでも見逃されるはずはないだろう。 けれどそこまでして自分を連れ出してくれたのは、この国外追放の件をなかったものにするため。そして追放を逃れた自分に、サシャは恐らく、シルヴィオの「なにか」を伝えたいのでは―――。 「真澄ちゃん、シルヴィのどこが好き?」 それまでの話題とは打って変わったいきなりの質問に、真澄は面食らった。 なんと答えるべきなのかがすぐには分からずに逡巡する。 「あ、あの、だからあたしは愛人とかではなくて……」 「じゃあ正妻でいいよ。シルヴィオのどこが好き?あんな顔だけで融通の利かない人間の、なにがいいの?」 早口でまくし立てられて気圧されたということもあるが、言葉の意味を理解してもどうにも答えられそうにない問いだと思った。 するとこちらが口を開かないうちにサシャが続けて話し出した。 「お節介かもしれないけれど、シルヴィオの傍にいるってことはね、相当の覚悟が必要なんだよ」 こちらを見るサシャの瞳がいつもとは違って真剣なものに変わる。 「この城にいる使用人はみんなシルヴィオに忠誠を誓っている。私もこの国のためなら命だってかける覚悟だ」 いま自分の目の前にいるのはただの見目麗しい騎士ではない。真澄はそう思った。 国王の傍にいる意味を理解した上でそれでもなお国王の傍にいることを自ら決断した、一人の人間としての騎士なのだ。 「それで、真澄ちゃんは?」 期待には応えなければ意味がない。真澄は正面にあるサシャの真面目な顔を見てから、俯いて唇を噛んだ。 期待されているだけ自分には味方がいる。それはこの世界で最初から一人だった自分にとって、なによりも幸せなことだ。 サシャのその質問のあと、一拍置いて、真澄はゆっくりとサシャに問うた。 「……あたし、子どもですよね」 「ううん。そんなことないよ」 本心から言ってくれているのであろうサシャの言葉に、心の奥から温かいものが滲み出てくるようでつい口元が緩む。 「あたし、シルヴィオのこと、よく分からないです。ほんと、あいつって仏頂面だし偉そうにするし。実際偉いけど。でもそうかと思えばたまに妙に一般人くさいところもあるし」 これまでのシルヴィオの印象をずらりと並べたら、サシャは苦笑した。 「……ただ、それでも」 「ん?」 真澄は次の言葉を言う前に軽く息を吐いて、気合を入れ直した。 そうしてなんとなく見やった窓の外は清々しすぎるほど青かった。だがその青が今はなぜか恨めしくて、それが影響したのか、真澄は吐き出すようにして最後の文句を言い放った。 「あたしにできることが今ここにあるのなら、あたしはそれを終えてから帰ります」 サシャは国王命令を覆した。それなら自分は神様が決めた運命を覆そう。 そう思って口にした言葉は、自分でも思った以上に決意がこめられているように感じられて驚いた。 「……惜しいね」 「え?」 「真澄ちゃんがもし私みたいに幼い頃から騎士団に入っていたなら、結構上に行けたのに」 「そうですか?あたし、剣とか絶対上手くないと思いますよ」 そう返すと、サシャはすぐに手と首を横に振った。 「そうじゃないそうじゃない。瞳の強さって言うのかな?今の、真澄ちゃんが言い切った時の表情、ゾクゾクしたもん。あ、変な意味じゃなくてね」 いつの間にかサシャの雰囲気はいつもの、周囲を和ませる明るい雰囲気に戻っていた。 そんなサシャに真澄も自然と笑うことができた。 「ありがとうございました」 ティーカップに入っている茶を一気に飲み干すと、真澄は礼を言いながら席を立ち上がった。 まだ椅子に腰掛けっぱなしのサシャは、いきなり立ち上がった真澄を驚いたように見上げた。 「あれ、もういいの?」 「はい。やり残したことがあったの、思い出したんです」 精一杯笑んだつもりだった。しかし、胸の奥に残る一抹の不安のせいか、微妙な笑顔ができあがってしまった。 「残念。数時間だけの夫婦ごっこも終わりかあ」 「あたしは承諾していないですよ」 「私は大歓迎なんだけどなー。実は親から早く結婚してくれってやたらせがまれててさあ。せめて孫だけでも残してくれって、私が早死にする前提で言ってくるんだから困っちゃうよ」 もしかしたら本人は冗談のつもりではなかったのかもしれないが、冗談と受け取った真澄は笑った。 だがサシャなら自分でなくとももっと他にいい人が見つかるだろう。少なくとも、サシャの隣にいるべきなのは自分ではない。 「サシャさん」 だが部屋を出る寸前に、真澄は思わずサシャの方に振り返った。 「シルヴィオにまた門前払いになったら、こんなあたしでも……貰ってくれますか?」 「うん。もちろん」 扉を閉める前に見せられたサシャの笑顔に、真澄はやっと心の底から安堵した。 サシャのあの笑顔に、あの優しい言葉に、甘えそうになってしまいそうだ。 どんなに辛いことがあってもサシャだけは最後の居場所を作って待っていてくれるのだと、安易な気持ちが先行してしまいそうな気がする。 だが真澄は既に決めていた。 次にシルヴィオに厄介払いされたとき、それは自分がこの国から消えるときだ。 BACK/TOP/NEXT 2009/02/01 |