予想だにしない異常は突然やってきた。 その日も真澄はただ、いつものようにシルヴィオの隣の自分の部屋で少し遅めの朝食を取っていた。 侍女が朝食後に新たなドレスを差し出してくるのも、ここ最近では普通になりつつあったいつもの光景だった。 しかし着替えが終わった途端、真澄のその朝食後の着替えが終わるのを待っていたかのように部屋の扉は急に開け放たれた。 いつもなら着替えが終わると着付け係の侍女が出て行って、それから手持ち無沙汰になって、真澄は仕方なく部屋でしばらくゆっくりするか城内散策に出かけるかのどちらかだった。こちらからは開けても、向こう側から開けられることは滅多にない。 だが今日はその扉が向こうから開けられている。 そして扉の前にはあろうことか、いつも以上に冷めた表情のシルヴィオが立っていた。 Kummer -04 「国外追放だ」 真澄はあまりに唐突の事態と低い調子で紡がれた彼の言葉とに、ぽかんと口を半開きにしたまま現れたばかりのシルヴィオを見上げた。 そして「コクガイツイホウ」という単語を頭の中で漢字に変換できずにしばらくその場に固まった。 そうして真澄が訳も分からず無言のまま立ち尽くしている間に、シルヴィオの背後から侍女がわらわらと現れた。 彼女たちはそのまま真澄の傍を通り過ぎると、どこか浮かない顔で、真澄の部屋にあった小物を端から手際よく片付けていく。 いったいこの瞬間に何が起きているのだろう。真澄は侍女とシルヴィオを、何度も何度もしつこいくらいに見比べた。 事情を飲み込めていない真澄に駄目押しとでも言うのか、シルヴィオはしばらくしてから再度口を開いた。 「お前はもう用無しだ」 「……それって、ラ・フランスの方の『ヨウナシ』じゃないわよね?」 言ってから、あ、まずい、と思った。 この世界では元の世界固有の単語を言葉にするとことごとく失敗する。そうと分かってはいるのだが、十数年の間に染みってしまった慣習からは未だに抜け切れなかった。 案の定、真澄の周囲でなにやら片付けに励んでいた侍女たちと目の前のシルヴィオとは、今のその一言になんとも解しがたいといわんばかりの複雑な表情で返してくれた。 意味分かんねえ。シルヴィオが呆れた溜め息をつきながらいつも通りにそう言ってくれるのを真澄は待った。 しかし数秒後、何も言わずにシルヴィオがくるりとこちらに背を向けたので焦った。 冗談だと思いたい。できれば冗談で済ませてほしい。 だがシルヴィオの冷淡な背中を見たとき、真澄は国外追放というその四文字の意味を突然理解することができた。 「ま、待って!」 どこかへ歩き始めていたシルヴィオは、真澄が叫ぶなりぴたりと足を止めた。 「国外追放って、なんで!?あたし、なにか気に障るようなこと……!」 そこまで言って、心当たりがありすぎることに気が付いた。 今まで散々国王であるシルヴィオに食ってかかって行ったのはどこの誰だったのか。その答えはもはや明瞭だった。 真澄が口を噤むと、代わりにシルヴィオが淡々と喋り出した。 「スパイ容疑だがあれは証拠不十分。で、お前みたいな人間をいつまでも城に置いておくのも面倒だ」 シルヴィオは言いながらまた歩き出した。 彼はそのまま己の部屋の執務机の近くまで行くと、机の上に散らばっている書類を気だるい動作で片付け始める。 「ただそのまま放り出しはしねえから感謝しろ。適当な荷物と、国を抜けるまで馬をつけてやる」 こともなげに吐き出される彼の言葉の一つ一つに強い拒絶を感じる。 自分の何がいけなかったのだろうか。もっと彼の言う通りに従順にしていれば、国外追放などと言われることはなかったのだろうか。 真澄は混乱する頭を抱えながら、しかしそんな頭の片隅では必死に打開策を考えていた。 「秘書じゃなくていい!」 この瞬間、自分でもなにを口走っているのか分からなくなった。 ただ彼に見放されたくはかった。ここでどこか別の土地へ行って生活するなど、とてもではないが想像できない。 真澄は思わずシルヴィオを追って彼の部屋まで駆けていた。 「別に秘書にこだわる訳じゃないし、何だったら裏方で雑用でもなんでもするから!ゴミ捨て担当だっていい!薪割りでも!」 「駄目だ」 「もっと使い捨ての役職でも構わない!え、えっと、なにがある!?お給料が少なくてもいい!あ、ううん、なくていい!」 「真澄」 どこか怒りを含んだ自分の名を呼ぶ彼の声に恐怖を感じると同時に、心臓が嫌な音を立てて唸る。 きっとシルヴィオは本気だ。真澄はこちらを振り返ったシルヴィオの鋭い瞳を見て直感した。 「とにかく、お前に用はないんだよ」 ずきり、と胸の奥が痛みを発したのが分かった。 これ以上シルヴィオから真実を聞くのがどうしようもなく怖くなった。 だが真澄はそこでふと確かめずにはいられないことを思い付き、なぜかそれが嫌に気にかかって、今一度彼に確認したくなった。 また残酷な言葉が彼の口から紡がれるのかもしれない。 けれどそんなことはないのだと、自信あり気に思い込んでいる自分もいる。 今度こそは、今度のシルヴィオこそは、さっきと違って自分の望む答えを返してくれるのだろうか。 真澄はこちらを向いたままのシルヴィオの無愛想な顔をすがるような表情で見つめた。 「それはあたしが……いらないってこと?」 恐る恐る、真澄はシルヴィオに静かにそう問うた。 どうしてもここで否定して欲しかった。そうでなくとも、不要だなどとは言い切って欲しくはなかった。 真澄は早鐘を打つ心臓を抑え付けながら、じっとシルヴィオの返答を待った。 彼も同じくこちらの顔を真っ直ぐ見据えている。だが早く何かを言ってほしいのに、彼はいつまでも黙り込んでいる。 そしてシルヴィオはしばらくの沈黙のあとで、ゆっくりと、それでも簡潔に言った。 「そうだ」 足元ががらがらと崩れていくように思えた。世界が真っ暗になって見えなくなった。 真澄は思わず座り込んでしまいたくなった。さっきよりもいっそうひどく痛む胸を強く押さえて、シルヴィオの姿を直視できずに咄嗟に下を向いた。 シルヴィオにとって自分はいらない存在なのだ。 頭の中でそう繰り返し繰り返すほど、胸の奥が潰れてしまうのではと思えるくらいに辛くなる。 自分と言う人間はシルヴィオにとって不要で、だから「国外追放」なのだ。 改めて自分の立場を確認した時、目頭になにか熱いものが溢れてきた。爪先から頭の天辺までを、じんと痺れる感覚が一気に突き抜けた。 どうしてなのだろう。真澄は胸元でぎゅっと両手を握って自分自身に質した。 彼からは今までに短刀を向けられたり乱暴に扱われたことさえあったのに、どうしてこれほどまでに悲しいのだろう。 じわりと滲み始めた視界の隅で、シルヴィオがまた何かを言い出しそうなそんな姿がちらりと映った。 だがちょうどその時、コンコンと誰かが扉を叩く音が広い部屋に響いた。 「……誰だ?」 「シルヴィオ!」 真澄は誰かの来訪のために目の前を去ろうとするシルヴィオを留めようと手を伸ばそうとした。 しかしそれよりも早くシルヴィオは身を翻すと、呆気ないと感じるほどに部屋の真ん中を横切って扉まで歩み寄る。 「あ、シルヴィオ。ちょっといい?」 大きな扉からひょいと顔を覗かせたのは、サシャだった。 彼は部屋の中をぐるりと見回すとすぐに真澄に目を留めてから、それからややあってシルヴィオに視線を移す。 「ごめん。取り込み中だった?」 「いや」 サシャは自分の国外追放のことを知らないのだろうか、きょとんと瞳を瞬かせてからいつもの調子で軽口を叩く。 「あれ、もしかして痴話喧嘩?」 「んな訳あるか」 はあ、と深い溜め息をつきながらサシャを相手にするシルヴィオの姿を眩しく思うと同時に心が痛む。 ついこの前まではその高慢で不遜な態度で自分にも接していてくれた。 しかし今の彼は自分を腫れ物扱いして、まるで本当に要らないもののように―――。 「……サシャさん」 真澄は震える声を振り絞って出した。 どうしてもここから追放されたくはない。どうにかして、なんとかしてここに残りたいという気持ちが勝った。 国王であるシルヴィオに国外追放を言い渡された今、頼れるのはサシャしか残っていないように思えた。 「あたし、どうすればいいですか。どうすれば、この城に置いてもらえますか……」 泣かずに我慢するつもりだった。 だが一粒涙が頬を伝ってしまうと、止める術もなく続いて溢れ出した涙が零れ落ちた。 今までの、ラルコエドでの生活が走馬灯のごとく脳裏を過ぎっていった。 その中でもかなりの割合を占めていたのは、シルヴィオの姿だった。 数日前、シルヴィオとサシャの試合を見て泣いた時、そして庭園で助けられた際に抱き締められたのは、ただの慰めにすぎなかったのか。 もともと自分は要らない存在だったのだ、そんなことなどしてくれない方がマシだった。 少しは自分にも居場所があるのだと思っていた。シルヴィオが自分の名を呼ぶとき、ここにいてもいいのだと思って安堵していた。 しかし勘違いしていたのだ。それは自分ひとりの、勝手な思い込みだったのだ。 「真澄ちゃん、私のところに来る?」 ゆったりめのアルトの声が、急に頭上から降ってきて真澄は思わず顔を上げた。 どういう意味なのだろう。扉の傍に立つサシャは真っ直ぐこちらを見ていた。 「……え?」 「あ、居候ってことじゃなくてね?私の伴侶になるかって意味で」 真澄は驚いてサシャのブラウン色の澄んだ瞳を見返した。 伴侶とは、もしかしたらサシャの妻になると、そういう意味のことなのだろうか。 急な展開の連続に閉口する真澄の態度を肯定の証と取ったのか、サシャはにこりと笑んだ。 「あとは、まあ、真澄ちゃんは一応まだシルヴィオの秘書だからね。彼の許可貰わないと」 ちら、とサシャが微笑を湛えたそのままシルヴィオの顔を窺い見る。真澄もつられてシルヴィオの横顔を見た。 しかしそこで見たシルヴィオの視線は、今までのどれよりも鋭くて冷たいものだった。 「勝手にしろ」 冷たく吐き捨てたシルヴィオの言葉に、真澄はもうなにも感じることができなかった。 見捨てられて、見捨てられて、ここまできてもやはり見捨てられてしまっては、もう心が喚くこともなかった。 「おいで」 サシャに手を引かれて、真澄は呆然とする暇もなくシルヴィオの傍を通り過ぎ、大きな部屋を後にする。 真澄はしばらくサシャの背中を呆然と見つめながら、ふと思い出して後ろを振り返ってみた。 そこにはあまりにも長くて広い廊下が伸びていた。 シルヴィオの部屋は時間が経つにつれ瞬く間に遠ざかっていき、もちろんシルヴィオの姿などは見ることさえできなかった。 自分の腕を掴むサシャの手のひらは温かかった。しかし肝心の心の奥が、すっかり冷え切ってしまったような気がした。 BACK/TOP/NEXT 2008/11/12 |