Kummer -03 見渡す限り、どこまでも続く幻想的な淡い色彩の庭園にいっそ陶酔してしまいたい。 城の上部に造られたとは思えないほど広大で開放的な空間に、シルヴィオが出入り口の大きな扉を閉めるまで、真澄はしばらく絶句していた。 「なに?ここってなんなの!?」 ようやく我に返った真澄の興奮冷めやらぬ様子に苦笑したシルヴィオは、仕方ないといった風に口を開いた。 「王族専用の庭園だ。城内でも上にいる一部の人間しか知らない、本物の理想郷だ」 「理想郷……。そうね、理想郷だわ……」 確かめるように口に出して呟く。するとますます本物の幻想を見ている気がした。 「言っておくが今回は特別公開だ。絶対に口外するんじゃねえぞ」 「え、なんで?」 「サシャにでも言ってみろ。アイツ、一日に一回はここで茶を飲むとか言い出すだろうからな」 それっていいことじゃない。と、真澄はぷっと吹き出して笑った。 すると珍しく、ほんの一瞬だけだったが、シルヴィオも柔らかく目を細めて口元をふっと緩めた。 真澄は驚いてそんなシルヴィオの顔を見詰めた。 ああ、そうだった。彼も人間なのだったと、本人に知られればまずいであろうことを心の中では平気で考える。 また強い風が庭園中に吹いた。幾つもの花びらが宙に舞って、真澄はまたその風景に心を奪われた。 扉の近くには庭園を一望するためなのか、木製の小さなウッドデッキらしき場所がある。 真澄はそれらにもたれかかって心地良い時間に内心で微笑んだ。シルヴィオも真澄の横で木製の手すりに肩肘をつくと、真澄と同じ方向をただ漠然と見つめていた。 「お前は、なんで元の世界に帰りたいんだ?」 だが、しばしその幻想的な光景を眺めたあと、唐突にシルヴィオが切り出した話題はこの場にそぐわないものだった。 真澄はあまりの意外性ゆえに、ガン、と後頭部を鈍器で殴られたに近い衝撃を精神的に味わった。 しかし今の言葉にどこか引っかかるものを感じた真澄は、すぐに頭を抱えた。 「あ、待って!それ前にも聞いたことがある!」 「は?」 まったく思い出せないのだが、どこかでこれに近い言葉を聞いたような気がする。が、いつだっただろう。 元の世界云々を知っているのは、シルヴィオの他に多く見積もってもサシャとアネルだけだ。しかし理由を聞かれたことは今までにあっただろうか。 真澄が考え込んでいる間にも、シルヴィオはさらなる追い打ちをかけてきた。 「聞いたんだろ。元の世界に戻るにはどうしたらいいのかとかエディルネ様のこととか、アネル先生に」 勢い、そこか!と叫びそうになった。 恐らく先日の負傷の件だろう、そこでシルヴィオはアネルと話をする機会がありそのことを知ったのだ。 しかしまさか、こんなにも早くアネルとの交流が経たれるとは思っていなかっただけに後悔もひとしおに感じられた。 ガラヴァルの件を保留にしたままだった、それが今になってかなり悔やまれる。 「……なんだお前」 「ああ、だめだわ。せっかく掴んだチャンスをふいにするだなんて……」 テラスに身を預けたまま真澄は項垂れた。 その横でしばらく口を閉ざしたらしいシルヴィオは、しかしすぐにまた口を開く。 「元の世界にお前の好きな野郎でもいるのか?」 「はあ?」 今度ばかりは撃沈する、ということはなく、真澄は怪訝な顔でシルヴィオを見た。 アネルとの交流が絶たれるとばかり思っていたのだが、もしやその可能性はないのだろうか。 それに彼はいったい何を言っているのだろう。今日のシルヴィオは言動すべてがおかしすぎる、と今更ながらに思う。 もしかしたらこのシルヴィオは本物のシルヴィオによく似た影武者なのではと思ったが、それを証明するための確実な証拠は見付かりそうになかった。 シルヴィオは相変わらず明後日の方向を眺めながら黙ったままだ。 そこで真澄はようやく冷静になり、気持ちを整えるために浅い溜め息をついた。 今まで見ていたシルヴィオとは違う方向に視線を持っていき、つっけんどんな口調で言う。 「いたら今頃こうやって悠長に暮らしてないわよ。毎日しつこいくらい彼氏の名前叫んでるわ、きっと」 「それもそれで煩わしいな……」 なんだか不思議な空気だった。 どう形容すればいいのか分からない、居心地が悪いともいいとも言えないような雰囲気が漂っていた。 シルヴィオはまだ黙っている。ちらりとその顔を窺った時に、ふっと笑われたのは気のせいだろうか。 真澄は一回だけ深呼吸した。 なぜ元の世界に戻りたいのか。その理由が、なぜか自分の中では既に出来上がっているような気がした。 「元の世界に帰りたい理由って……だって、あたしがこの世界にいる理由こそないでしょ?そうじゃなかったらあとは、あれかな、昔に読んだ本の内容を思い出したって言うか……」 真澄は大空の中を吹き渡る風に髪を弄ばれながら、ゆっくりと口を開いた。 「もし……もしもよ?もしラルコエドにきたのがあたし一人だけじゃなくて十万人くらいだったら、こう、今まで生活が保たれてた世界の中に一気に十万人増えるわけでしょ?そうしたら十万人分の質量が余計にこの世界に加わって、酸素も余計に消費されて、今まであるべきはずだった歴史がざっと変わるんじゃないかと思うのよ」 話しながらそれとなくシルヴィオの方を見ると、彼はあまり前面には出していなかったが、どこかぽかんと間抜けた顔をしていた。 それが今の自分の言葉の後半部分によるものだと気付いた真澄は、大袈裟な咳払いをしてから話を続けた。 「大袈裟な話、あたしの世界の人間が丸々こっちの世界に来ちゃったら、絶対に世界のバランスが崩れるじゃない?」 「そりゃ崩れる以前の問題だろう。俺だってお前みたいな人間を世話するの、一人だけでも手一杯なんだ」 シルヴィオの呆れた言葉にカチンときたがやり過ごした。 「で、話を続けるけど、それはあたし一人がこの世界に来るのとどう違うのかってこと。あたし一人が来ただけでもこの世界のどこかに些細な変化をもたらしてるのよ、きっと。その多少の変化を、何人までなら世界に支障はない、じゃあ何人からは支障があるって、誰が決めるの?もしかしたらあたしがこの世界に来たその時点で、この世界に異常をもたらしてるんじゃない、かな……とか……」 言っていて、どこかぴたりとこの現状に当てはまるような気がして、それ以上を口にするのが怖くなって口を噤む。 真澄は恐る恐る口元を押さえた。心臓が嫌な音を残して拍動した。 今まで考えたこともなかった。今ラルコエドと隣国との間で起きている戦が仮に自分の来訪と関わっているのだとしたら、それは完全に自分の所為だと言える。 初めてこの世界に来て、シルヴィオに短刀を突きつけられたときと同じように、頭の中が綺麗すぎるくらい真っ白になった。 続きに何かを言おうとは思うのだが、まるで言葉が紡げない。 シルヴィオは気付いただろうか。今の言葉が含んでいた可能性を読んでしまっただろうか。 横に立っているシルヴィオがどんな顔をしているのかを見るのが怖くて、それでも真澄は意を決して顔を上げた。 「それで、お前は帰りたいわけだ?」 しかしシルヴィオはそんなことなど初めから考えていないのだと言う口調で、的外れのことをずばりと言ってくれた。 真澄は多少驚いて視線をしばらく宙に彷徨わせてから、自信なさげにぽつりと呟く。 「……帰、れれば、いいなあ」 「なんだその曖昧な返事は」 曖昧でも何でもいい。シルヴィオが笑っていられるのなら何でもいい。 たまに凄まじい冷気を伴ったオーラを発したり口調は悪かったりと、本当に一国の王なのかと疑ってしまうが、ふとした時に見せる優しさが失われてしまうのはなんだか辛かった。 本当に今まで考えたこともなかった。 今の戦争が自分に端を発している可能性も否定できないということに、ちっとも気付かなかった。 自分がこの世界に来てなんらかの変化が起きて、それがもし隣国の王にラルコエド国を攻める気にさせたのだったとしたら―――。 そこまで考えて真澄は首を横に振った。ネガティヴになればなるほど、暗闇の中へ落ち込んでいって自分というものが無くなりそうで、そうなったらなにもかもが崩れていってしまいそうで、それだけは阻止しなければと思う。 真澄はいつの間にかウッドデッキの手すりから手を離していた。 自分でも何故だか分からないが、このもやもやとした気分を打開するために走りたくなった、というのが一番の理由だろうか。 行ける所まで、例えばそう、園の限界まで全速力で駆ければ何かが吹っ切れそうな気がする。単純にそう思ったからである。 しかし真澄が走り出そうとしたその一歩で、呆気なく突然の気晴らしは中断させられた。 いきなり後ろからぐんと腕を引かれて身体がそれ以上前に進むことができずに、前につんのめりそうになる。 真澄は怪訝な顔で何事かと振り返る。 腕は、今や自分のものではない大きな手にしっかりと掴まれていた。 その手の元を辿っていくと、何故だろう、シルヴィオが自分の腕をとっさのことのように掴んでいた。 「……なに?」 きょとんと目を瞬く真澄に、腕を掴んでいる当事者のシルヴィオはさっと銀色の瞳を伏せた。 それから静かな声で、なんでもない、とだけ言う。 またさっきのあの微妙ななんとも言い難い空気が二人の間に漂っていた。 なんだかその空気が今はひどくもどかしく思えて真澄は心の中で叫んだ。元の世界は諦めるにしろ、この世界だけは丸く収まってしまえ。 そして真澄は離れつつあったシルヴィオの腕を逆にしっかり掴むと駆け出した。 「ほら、あっちに噴水もあるみたい!行こう!」 「は?いきなり何言ってんだ?」 「いいから、早く!あたし、この庭の端っこまで見てみたいの!」 ああ、そうだ。自分がしっかりしていなければ駄目なのだ。 自分が悲しい顔をしていたら、ただでさえこの戦争に疲弊しているであろうシルヴィオにも伝染してしまう。 真澄はなかなか動かないシルヴィオの腕を引いて、庭の真ん中に躍り出た。 爽やかな風がどこまでも追いかけてくる。そうして舞い続ける花びらの中をかいくぐれば、さっきまでの暗い気持ちも吹っ飛んでいく気がする。 お前、はしゃぎすぎ、と肩を竦めるシルヴィオに思いきり意地悪な笑みを見せて引っ張り回す。 庭のほぼ中央には白い大理石のようなもので造られた噴水が天に向かって水飛沫を上げている。冷たい水を手のひらに受けながら、その横を通りすぎて庭の限界へ限界へと駆ける。 立ち止まってしまったらゲームオーバーだ。そんな意味もないマイ・ルールを自分に課して、意味もなく笑いながら走る。 しかしそこはさすが王族専用の庭園と言ったところだろうか。 庭園の端をぐるりと取り囲んでいる低い石塀までやっとのことで辿り着いた時、真澄の息は完全に上がっていた。 「……あ、あれ……息が、できな……」 「それ見たことか」 身体を半分に折って息を整えようとする真澄の横で、あんなに走り回ったというのにシルヴィオはけろっとしていた。 長剣をあれほど振り回すだけのことはある、と、真澄は内心皮肉っぽく考えて苦笑する。 シルヴィオは今は庭園の外を、心なしか口元に薄らと笑みを浮かべながら見詰めていた。 何があるのだろう。真澄もシルヴィオに倣って、石塀に掴まりながらもなんとか身体を起こす。 だがそこで見たものは、今までに見たどんな高級な料理よりもどんなに素敵だと言われている夜景よりも素敵な風景だった。 ここは本物の空中庭園だ。真澄はそう思った。 どうやらこの庭園は空にやや張り出すような形で造られているらしく、そんな高場から見下ろすラルコエド国は一言で言い表すのならば「雄大」だった。 城のすぐ下には色取り取りの屋根が特徴的な城下町が栄えていて、そこから大分離れていくと今度は長閑な田園が広がり、遠くで地平線を成しているものは緑豊かな山脈だ。 湿り気を含んだ風が横から吹き付けてくる。 黒髪を風に流されながら、真澄はこの世界の美しさにただ呆然としていた。 「一般公開すればいいのに……」 銀髪が風になびいているシルヴィオが、ちらとこちらを見た。 「そうすればあたしも、いつだってここに来ることができるし」 低い石塀から身を乗り出してみれば、城の全容をほぼ見ることができた。 あれはやはり正門だ。遙か下のあの大きなアーチ状の建物は、きっとそうに違いない。と、さっきの仮説が正しかったことを知る。 「そんなに下を覗きこんでると、その内落ちるぞ」 「大丈夫だって」 テラスの時だってどんなに身を乗り出しても平気だったのだ。人間、そうそう落ちるわけがない。 やはり高所にいても平気で行動できるのは強みだな、と思った。 いつだったか友人の一人が歩道橋の上でさえ別の友人にくっつきながら歩くのを見て、高所恐怖症の人は本当に高所が駄目らしいと知った時の驚きは今でもよく覚えている。 だが少し強い風が吹いて、ぐらり、と身体が大空の中へと傾いでいった時、一瞬自分自身の状況に呆気に取られずにはいられなかった。 あっ、と思って油断している間に、身体の重心は瞬く間に外へと移っていた。 まさかこれは外に向かって落ち始めている兆しなのだろうか。いや、そんなまさか。 (でも、これってまずいような……) 少しも焦ることのない真澄に、もしかしなくてもかなりまずい、ともう一人の自分が冷静に頭の中で告げた。 落ちる時の浮遊感が全身を包み込んで腹の底から気持ち悪くなる。 ぐるん、と視界に入っていた風景が半周して、目の前には小さな風景がびっしり現れた。 城の前の広場みたいな場所の地面は、見た限りいかにも硬そうな白い石で整備されていた。 真澄はすぐに理解した。あそこの上に落ちたら間違いなく、死ぬ。そう思ったとき、なによりも恐怖で全身に鳥肌が立った。 「おい、馬鹿!」 身体が外に投げ出されてしまう。 怖くて目をぎゅっと瞑る、そのほんの前に、シルヴィオがこちらへ乗り出してくる映像が瞳に映った。 何かが強い力で真澄の片腕を乱暴に掴む。 身体中の骨がすべて引き抜かれてしまうのではと思ってしまうほど、何かにどこかへ引っ張られる。 そして最後の決定打は、顔面強打だった。真澄は顔から何かに勢いよくぶつかって気を失いそうになった。 「……痛……」 「痛、じゃねえよ……」 耳元で、誰かが荒い息を漏らしながら低い声で呟く。 真澄が痛みを堪えて目を開いてみると、真っ先に銀色が飛び込んできた。 「落ちるって言っただろ。だからって落ちる方もどうなんだかと思うがな……」 顔が、熱くなった。全身をめぐる血管が一気に膨張したかのように、身体そのものが変に火照った。 それは今のシルヴィオの声が調子が、とかそういう訳ではない。 真澄は顔にぶつかったものが何であるのか、そして今自分はどんな状況下にいるのかを知って、慌てた。 背中にはしっかりと二本の腕が回されていて、顔は誰かの衣服に強く押し当てられている。 今回は慰めだとか、そういう意味合いのものでは決してないのだろう。 彼は落ちそうになった自分を助けてくれたのだ、その結果がこれなのだ、そう強引に考えても恥ずかしさだけが先に立つ。今の真澄はあろうことか、またシルヴィオに抱き締められていたのだった。 真澄は何度も何度も瞬きして、この夢のような天国のような光景を掻き消そうと試みた。 しかしいつまで経ってもこの現実は変わることがなかった。 どくんどくんと耳にまで届く自分の心臓の音が、触れ合う場所からシルヴィオにまで伝わってしまいそうだ。 「シ、シルヴィオ、この体勢きつい……!」 なんとか理由をつけて彼から離れたかった。 しかし、本当にこの時の姿勢が辛かったのも事実といえば事実だった。 覆いかぶさるようにして今もシルヴィオはしっかり真澄を抱え込んでいる。このままでは身体を上に反らしすぎて背骨のどこかが折れること請け合いだ。 「シルヴィオ?」 だがいつまで経っても真澄は彼から解放されることがなかった。真澄は恥ずかしさを忘れて小首を傾げる。 もしかしたら彼は寝ているのではないか。そんなことを考えながら顔を上げようとした。 しかしシルヴィオの手によってだろうか、頭をぐいと押さえ付けられて、真澄はまたシルヴィオの衣服に強引に顔を埋める形になる。 「お前も秘書なら滅多なことで口出すな」 「……了解」 今の一言にどこか痛切な感情が込められていたような気がしたのは、単に自分の気のせいだったのだろうか。 (……シルヴィオ?) 彼の気の済むままにさせよう。 そうは思ったものの、真澄が彼の腕の中から解放されたのは、それから大分後のことだった。 BACK/TOP/NEXT 2008/10/11 |