それは肩から胸部にかけて大きく袈裟懸けだった。彼がここまで持ちこたえたのが不思議なくらいだった。 シルヴィオが慌てふためく侍女に導かれ、城内の出入り口を入ってすぐの一階の広間に着いた時、戦場になっているはずの第一都市エルミーラからなんとか自力でラルコエド城まで辿り着いたというその騎士はもはや虫の息だった。 彼は広間を入ったところの冷たい床石の上に仰向けに寝かされていた。 早くも騒ぎを聞きつけた、ラルコエド城で鍛錬に励んでいた騎士や兵士が彼を取り囲んでは医者はまだかと叫んでいる。 だが彼らはシルヴィオが早足で近付いてくるその姿を認めるなり、すっと身を引いた。 多くの人波をわけて自分の元へ近付いてくる人間がシルヴィオだと分かったのだろうか。 まだあまり自分と変わらない歳であろうその騎士は、苦痛に喘ぎながらも言葉を発した。 「エルミーラでは……もはや、止められな……」 シルヴィオの後から駆けてきた医者に応急手当を施されながら、彼は息をするのも苦しいだろうに無理矢理口を開く。 「王、申し訳ございません。どうか、どうか……お助けくだ、さい……」 ごふっと彼の口から鮮血が溢れる。後ろで事態を見守っていた侍女がひっと息を呑む音が聞こえた。 周りで何人もの人間が固唾を呑んで見守る中、シルヴィオは彼の額に己の手をそっと当てると強く頷いた。 「ああ、必ず助ける。この国を、いい国にしよう」 そう言うと彼はほっとしたような安心したような表情を見せ、それからすぐに目蓋を閉じた。 先程まではあれほど荒かった息も整えられて、一見すると眠ってしまったかのようだった。だが医者の手はにわかに慌しくなった。 「この者を至急医療部隊へ」 シルヴィオの言葉と同時に彼は用意されていた担架に乗せられ、瞬く間に奥に運び込まれていった。 その光景を、シルヴィオは強く強く脳裏に焼き付けた。いや、焼き付いた。 天を仰いだときに目に入った広間の上部の吹き抜けがあまりにがらんとしていて、どうしようもなく頼り無かった。 今までにない危機感があった。 それはちょうど、数年前にジルヴィラート国との大戦で味わったものと酷似していた。 このままではいけないことは既に分かっていた。 そして国の最後の希望の灯を消さないためにどうにかしなければならないことも、ずっと分かっていた。 Kummer -02 ここで少しだけ待っていてくれる? 城内を一通り大雑把に巡ったあと、そう言ってサシャはひらひらと手を振りながら去っていった。 サシャはあえてそれ以上何も言わなかったが、もう戻ってはこないのだろうなと思う。 では誰が来るのか?それも不明だった。 ただ自分はこの城内ではお荷物な存在だ。できるだけ厄介ごとには首を突っ込まれたくない、というのが城内の人間の意見が一致するところであろう。 真澄は一人残された城の上部に位置するテラスで、外の風景を眺めるなどして時間を持て余していた。 高所恐怖症ではなかったのが救いだ。都会の高層ビルにも匹敵するであろう高さにあるテラスの手摺りにもたれて、時折外に向かって大きく身を乗り出してみるなど、高い場所がとことん駄目な人にとっては恐怖以外の何物でもないだろう。 しかし、身を乗り出すと普段は滅多に見受けられない城の下部がよく見えた。そうして真澄は城観察に時間を潰していた。 あそこが城の正門だろうか、などと勝手に色々想像してみたりする。 まだ城内を巡り巡るだけで出入り口までまで辿り着いたことはないが、何故かそこではないかという気がしていた。 真澄が正門ではないかと推測したそこでは、一頭の馬が先ほどから嘶いていた。 サシャと共にテラスに着いた時には既に馬はそこにいて、正門前の広い広場みたいな場所をしきりに行ったり来たりしていた。 今、数人の人間に宥められようやく落ち着いたその馬は、彼らの引く手綱に導かれるままどこかへ連れられて行ってしまった。 まさか、と思う。少し前から、真澄はそんなことばかり考えていた。 いつのことだったか、ある映画で、突然現れた敵に襲われ血まみれになりながらも自国の危機を知らせるために必死で馬を走らせ城まで駆けてくる青年の登場する、戦記物語のようなものを見たことがあって、それが自然と思い出される。 今はもうない一頭の馬の姿。そしてさっき、顔面蒼白で走ってきた侍女。 ありえないことではない。ガラヴァルも言っていたではないか、今ラルコエド国に隣国が攻めてきているのだと。 もしかしたらあの馬は、何かよからぬことを報せに来たのではなかったか。 (……そんな気がする) 確証はない。が、これがいわゆる動物の勘と言うやつだろうか、首筋をそろりと撫でるような嫌な予感は拭いきれなかった。 それでも真澄は心の中で首を大きく横に振った。まだ完全に決まっていないことを今から考えてもそれは無駄だと分かっている。 得体の知れない不安を心の奥に押し込んで、違う退屈しのぎのための観察の対象を見つけようと、真澄はまたぐるりと城のあちらこちらを見回した。 「真澄」 そうして再び観察を始めてから幾許も経たない内に現れた自分の名を呼ぶ声に振り返れば、数メートル離れた場所からシルヴィオがこちらへ歩いてくる姿が目に入った。 真澄はテラスの手摺りから手を離してシルヴィオの方へ向き直った。 「もう……いいの?」 「ああ、多少はな」 やはりどこか無理をしているな、と思った。だが口に出して言おうとは思わなかった。 真澄がそれきり何も言わないでいると、シルヴィオはこっちへ来いとでも言いたげに顎をしゃくってみせた。 黙って歩くシルヴィオの後に続いて、真澄も静かに歩き出す。 歩調を緩めてくれたのだろうか。真澄よりも遙かに足のコンパスは長いはずなのに、いつの間にか真澄はシルヴィオの隣に立っていた。 「真澄」 呼ばれて一瞬遅れてから隣のシルヴィオを見上げる。 それというのも、真澄とシルヴィオは今、大きな見たこともない扉の前に立っていたからだった。 二人がそれとなく歩き出してから数分後、長い廊下をひたすら歩いた末に眼前に現れたのは、道の行き止まりとも言えるこの扉だった。 いったいこの扉の向こうには何があるのだろう。 内心首を傾げていた真澄が急に自分の名を、しかもはっきりと聞き取れないような声で呼ばれて躊躇ってしまったのも、あながち無理ないことだった。 真澄から見た今のシルヴィオは、至極いつも通りの調子でいるようだ。 しかしくるりとこちらを向いたシルヴィオは、いつもは滅多に言わないようなことをさらりと言ってのけた。 「いいか、これから俺が良しと言うまで目え閉じてろよ」 彼の言葉の意味するところが分からなくて、シルヴィオの銀色の双眸を見詰めながら真澄は数回瞬きをする。 「……え?」 「二度も言わせるな。目え閉じろ」 簡潔すぎるその言葉が逆に心臓に悪いという事実はもはや言うまでもない。 「はっ!?な、なんで!?」 真澄はしどろもどろになりながら、シルヴィオから大きく後退する。 するとシルヴィオは眉間に皺を寄せて深い溜め息をついた。 「お前相手にやましいことなんざする訳ないだろうが。しかも前にも似たようなこと言わなかったか?あ?」 「べ、別にそういうことを言ってるんじゃなくて……!」 「面倒なやつだな」 すっとシルヴィオの右腕が素早く伸びてきて肩を掴まれる。 そのまま訳の分からない内に彼に引き寄せられてみれば、反論する暇も無く視界を遮られた。 「暴れんなよ」 耳元に囁きかけられた言葉と同時に、背中越しにシルヴィオの存在を感じる。 恐らく視界を遮っているのは彼の手のひらだ。意外に大きい彼の手によって完璧に前は見えない。 シルヴィオに後ろから膝でとんと前に押し出されて、渋々ながら真澄は前へ歩を進めた。 目隠しされながら歩くのはかなり怖かったが、シルヴィオがぴったり後からくっついてきてくれるのが幸いだった。 しかしなぜ目隠しなのだろう。暗闇の中で考え込む真澄の前で、ぎいと軋んだ音を立てて扉の開く音が聞こえた。 ひゅう、と、今まではなかった心地良い風が頬を撫でていく。 いつもなら「わあ気持ちいい」の一言で片付けてしまうが、この時の真澄にとってそれは一大事だった。 なにせここはさっきのテラスがあった場所と同じ階だ。下には言わずもがな、素晴らしい風景が口を広げているだろう。 「あ、あれ?ちょっと待って、なんか外に出た気がするんだけど!」 「ああそうだよ。だから少し黙れ」 「突き落とす!?突き落とすの!?」 「しねえよ。だいたいこんなにくっついてるんだからお前を突き落としたら俺も落ちるだろうが」 「……?そうだよね……?」 かなり混乱していたのだろうと思う。 シルヴィオは真澄の背後にいる訳だから、彼が真澄を突き落としたとしてもかなりの確立でシルヴィオだけは助かるのだと言うことに、この時の真澄は気付かなかった。 しかし依然として見えないというものは怖い。真澄は思わず、前に何が来てもぶつからないようにと片手を伸ばした。 するとどうやらシルヴィオの、視界を遮っている方ではないもう片方の手が、怖いものなんて何もないという風に真澄が伸ばしたその手を掴んだ。 奇妙なくらい温かかった。まるで互いの手から心臓の拍動まで読み取れてしまうかのようだった。 そして扉をくぐってから数十歩とも行かないところでシルヴィオが止まったので、真澄もシルヴィオから離れまいとして立ち止まる。 いつ突き落とされるのか。心の隅に残るそんな考えに尚も一抹の不安を過ぎらせながら、しかし目の前は急に明るく開けた。 「わ……!」 頭ではなく、心から声が出た。 今まで視界を塞がれていたために嫌に眩しいような気もするが、いや違う、これはこの風景そのものが眩しいのだ。 「空中庭園みたい!きれい!」 シルヴィオの手が外されて真っ先に目に飛び込んできたのは、青空の中をひらりひらりと舞う無数の淡い色彩の花びらだった。 それはまるで桃源郷が現実に現れたかのように幻想的な光景だった。 真澄は興奮が抑えきれずに駆け出していた。 大きな扉をくぐった先に待ち受けていたもの、それは感嘆してしまうほど綺麗で広大な園だった。 敷地のところどころに立っている、繊細な彫刻を施された白い像が、いっそうこの世界を神秘的と言う単語のもとに引き立たせている。 遠くへ行けば行くほど扉から円状に段々と位置が低くなっていって、ただでさえ広いこの園を余計に広く見せていた。 それになんと言っても、あちこちに植えられた花が風に揺られて咲いている様には、賞賛するための言葉など見付からなかった。 真澄とシルヴィオはそんな幻のような風景を見下ろす、比較的高い位置にいた。 (……すごい) 花の香りをのせて吹き付けてくる風を一身に受けながら、真澄はただ呆然と立ち尽くしていた。 BACK/TOP/NEXT 2008/09/14 |