久しぶりに元の世界の夢を見た気がする。
真澄は懐かしい家の匂いをいっぱいに吸ったお陰で、気分がどことなく楽になったと感じていた。

その夢の中での真澄は、ここ最近のひらひらのドレスではなく高校の制服を着ていた。そして何故か理由もなく慌ててリビングに駆け込んでいた。
リビングではすれ違いざま父と鉢合わせた。慌てながらも目に入ったその父の紺のスーツを、長いこと見ていなかったような気がした。
ダイニングテーブルにつくと、目の前には既に自分の朝ごはんだけが取り残されたように用意されていた。和食だ。
台所では緩やかなウェーブを描く髪を揺らしながら母が食器を洗っている。玄関から行ってきますとのんびりとした口調の父の声が聞こえる。

早く支度しなさいよ。父の食器を片付けながらそう言った母に真澄は箸を持ったまま口を尖らせた。分かってるよ。
今日は帰り遅いの?普通だよ六時ちょっとすぎくらい。最近物騒だもの六時だって暗くなるじゃない。大丈夫だって部活やってる子はもっと遅くまで残ってるんだから。そう言えば隣の鈴木さんからプリンもらって冷蔵庫に冷やしてあるから帰ったら食べていいわよ。今食べたい。もう時間無いでしょう早く学校行きなさいって。えー今食べたいのに。

リビングにあるテレビに映っているショートカットのニュースキャスターが淡々と時刻を告げた。八時だった。
そろそろ家を出なくては学校に間に合わない。真澄はまた慌てて駆け出した。
あれ、朝ごはん食べたっけ?走りかけてテーブルに視線を戻すと食器類もなにも残されていなかった。ああやっぱり食べたんだ。

行ってきます。真澄はいつの間にか手にしていた学生鞄を持つ手とは反対の手で玄関のドアを開けた。
途端、風が真正面から強く吹き付けてきた。真澄は反射でぎゅっと目を閉じた。

広い部屋だった。目を閉じたのはほんの一瞬だったのに、再び目蓋を持ち上げると目の前にあったのは玄関のドアを開けた先のアスファルトの道路とか空とかではなく、それらとはまるっきり違うもの、西洋風の広い部屋だった。
その部屋には自分の家にはない高価そうな家具がずらりと並べられていた。肌で感じる空気もさっきとまったく違っていた。

どくん、と心臓が高鳴って、忘れかけていた記憶が一気に蘇ってきた。
どうしてあたしはラルコエドのことを忘れていたんだろう。
真澄と対峙するように、部屋の遙か向こう側の大きい窓の傍には銀髪で長身の青年が立っていた。シルヴィオだった。

―――お前はなんで元の世界に帰りたいんだ?

窓際にいるシルヴィオはいつもの偉そうな口調でそう言った。
真澄は思わず後ろを振り向いた。自分を基点として前後が別の世界になっていた。背後には自分の家の玄関があった。

―――お前はどうしてそれほどまでに帰りたがる?

真澄はシルヴィオの声に再度、西洋風の部屋の彼の方を向いた。
しかし何故かさっきまでは遠くにいたシルヴィオはすぐ目の前にいて、こちらを間近から見下ろしていた。

(あたしがいるのは、いったいどっち?)

真澄は分からなくなって焦った。どっちが自分のいるべき世界なのか、自分は元々どっちにいたのかが分からなくなった。
今、前に進めばラルコエド国に行き、後退すれば元の世界の、家族の待つ自分の家に戻れる。そう思った。
しかしたとえ「ラルコエド国が自分のいるべき場所」なのだとしても、元の世界に帰るのだという意志だけは変わらなかった。

真澄はこの気持ちを何と説明したらいいのかもどかしく思いながらシルヴィオの顔を見つめ返した。瞬間、ようやく理解した。
自分が元の世界に固執するわけ。ああそれは、きっと―――。









Kummer  -01









この世界に来て初めての睡眠不足だ。
確かラルコエドにきた初日でさえもぐっすりと眠れていたから、初めてで間違いはないだろう。

真澄はげっそりと痩せこけた顔を気にすることなく、ふらふらと迷宮めいた城内をうろついていた。
これだけではただの亡霊だが、もともとシルヴィオの部屋が隣接するあの部屋では気分が落ち着かないのだから、気晴らしの手段はこれより他にはなかった。
それというのも昨日、立て続けに色々な出来事が起こったためである。

第一に、シルヴィオになんだかんだで抱き締められてしまったことだ。
あの時はそれほど動揺しなかったのだが、それからあとで一人になって、それがかなりとんでもないことだったと気付いた。
シルヴィオ自身に他意はなかったようなのだが、それを元の世界で誰彼構わずやったらとんでもないことになるだろう。いい意味でも悪い意味でも。
とりあえず己の気持ちを落ち着けるために、この世界では慰めるのにそれがたとえ異性であれ抱き締めるのが普通なのだと思い込んだ。

そして第二に、今まで女だとばかり思い込んでいたサシャが実は見目麗しい男だったことだ。
一夜明けてもまだ解せない。シルヴィオが嘘などつくはずもないが、あの時泣いていた自分を少し元気付けようとでもしてついたのなら頷けないでもない。
ただそんな嘘など、金輪際ご免こうむりたい。

とにかく真澄はシルヴィオと顔を合わせるのが気まずくて部屋を抜け出していた。
シルヴィオは早朝からどこかへ行ってしまったらしく、隣の部屋を覗いた時、シルヴィオは既に部屋から姿を消していた。

(あと数日は顔を合わせたくない……)

次にシルヴィオと会った時、今まで通りの態度で接することができるか危ういところだ。
それに自分は仮にも秘書の身分である。シルヴィオに呼ばれれば拒否などできない。拒否でもしたらまた面倒なことになる。

「真澄ちゃん、おっはよー!」
「うわ、はい!」

考えの途中に入り込んできた自分の名を呼ぶ声に振り向いてみれば、そこには軽やかな足取りで駆け寄ってくるサシャがいた。
途端に真澄はだらだらと、額に冷たい汗が吹き出てくるのが分かった。

「気分はどう?大丈夫?トラウマになってたりしない?」
「は、はい!万全の体調です!本日はお日柄もよく!」

サシャは本当は男、という今までに体験したことのない緊張のあまりよく分からないことまで喋っていた。
さすがにそれで気付いたのか、いつも以上に笑顔全開だったサシャは、ぴたと表情すべてを止めると訝しげに眉をひそめた。
小さく首を傾げたサシャに顔を覗き込まれそうになる。この時真澄は不覚にも、わずかばかり後退してしまった。

「ちぇ、シルヴィオが喋った?」
「……伺いました」
「ああもう、シルヴィオのバカ」

表現が間違っている気がしたが、ぷうと頬を膨らませるサシャはどこからどう見ても綺麗な女性だ。
真澄はちらと顔を上げてサシャの顔を今一度よく見た。

「あの、本当にサシャさんは女の人じゃないんですか?」
「そ。外見からよく間違われるけどね。まさか真澄ちゃんからシルヴィオとの結婚を勧められるとは思わなかったなー」

道理でシルヴィオとの結婚話を頑なに断るはずだ。真澄はいつしかのお茶会での会話を思い出して納得した。
それにサシャを男性と前提の上でよく見てみれば、体格がどことなくしっかりしているようにも思える。

しかし一目で男か女かを見分けられるのかと問われれば、難しいだろう。
真澄はサシャの頭の天辺から爪先までをじろじろと眺めながら内心溜め息をついた。この美貌の一欠けらでも欲しいものだ。
するとこちらの視線に気付いたサシャは何かを思いついたらしく、考え込む真澄の顔の近くに自分の顔を寄せると言った。

「なんだったら、脱いで見せようか?」
「えっ!?」

耳元で静かに囁かれたサシャの言葉に真澄の顔は一気に赤くなる。
サシャが自分をからかっているのだとしても、これほどに心臓に悪いものはない。サシャが男だと知ってしまった後だから尚更だった。

「今『バカ』と言ったな、お前。誰がバカだと?」

背後から聞こえてきた、空間すべてを凍結させるかのごとく低い声とオーラに覚えがあって振り返る。
次から次へと、ここは城内の何本もある廊下の一つにすぎないのに、顔見知りとの遭遇率が高いのはどうしてなのだろうと真澄は頭を抱えたくなった。
案の定、振り返った先にいたのは侍女を数人従えたシルヴィオだった。

「やだな、冗談だってば。地獄耳なんだから」
「お前が初対面の人間だったらとっくに投獄してる」

怯むことなく笑うサシャと真面目顔のシルヴィオとの温度差にひやひやする。
サシャがシルヴィオになんらかの報復を受けないのだが未だに不思議なくらいだ。いや、自分もその部類に入るのであろうが。

思えばサシャとシルヴィオは互いに呼び捨てにしているし、もしかしたら身分を超えた親友なのかもしれない。
そう結論付けた真澄がちらとだけシルヴィオの顔を盗み見ると、同時にほんの一瞬だけシルヴィオと目が合った。

「シルヴィオ様!」

視線が合って驚きと恥ずかしさとが入り混じった気持ちがふっと現れた気がしたが、それはすぐに掻き消された。
今のシルヴィオを呼んだ甲高い声の持ち主であろう、蒼白な顔で走ってきた一人の侍女は、シルヴィオの前で慌てて一礼すると勢い口を開きかけた。しかしすっと彼女の前に伸ばされたシルヴィオの手がそれを静止させる。

「サシャ、そいつを上に連れて行っておけ」
「御意」

辺りの空気が一瞬にして張り詰める。真澄はそれが何よりも怖くて、逃げ出してしまいたかった。

「真澄ちゃん、良かったらちょっとこれから城内巡りの旅に出ない?」
「あ、はい」

サシャに優しく手を取られて、その場を後にする。
廊下の角を曲がってシルヴィオの姿が見えなくなるその前に少しだけ彼の方を、肩越しに振り返った。

さっきの侍女が涙目になりながらシルヴィオになにかを訴えている。
シルヴィオの表情は見えなかったが恐らく笑ってなどいない。周りに控えている侍女も珍しくおろおろと取り乱しているようだ。
真澄はそれが意味するものが分かってしまって、心臓が糸でぐるぐる巻きにされて締め上げられるようなそんな感覚を覚えた。

(……来た)

世界が、壊れていく気がした。
きっかけはほんの些細なことなのだろう。しかしその些細なきっかけからすべてが崩れていく、そう思えた。













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2008/08/25