Garten  -10









ああ、どうしてこんなことになってしまったんだっけな、といくら考えてみたところで明確な答えは出てきてはくれなかった。
ひっと喉の奥が小さく引きつって、その度に息をするのが苦しくなる。指の間を縫って流れてくる生温い涙は一向に止まる気配を見せない。
さっきからそうやって同じことばかり繰り返して、そんなことしかできない自分にだんだん嫌気が差してきたが、止まれ止まれ止まれと何度自分に言い聞かせても、もう一人の自分はただ嗚咽を漏らして泣くだけでどうにもならない。

真澄は唇を噛み締めぎゅっと己の腕を抱え込んだ。シルヴィオの胸から噴き出した、あの禍々しいほどの赤色が容赦なく蘇ってきた。
研ぎ澄まされた剣が空を切るときの耳が痛くなる音。人が人でなくなるような斬り合いのあの瞬間。そして、血飛沫が勢いよく宙に上がる一瞬。思い出すだけでもどれもが怖くてたまらない。
やはりこの世界に来るべきではなかったのだ。この頃、なんの焦りもない生活に少し安心してしまっていた。

どうやってこの広大な城の中をかいくぐって稽古場から部屋まで帰ってきたのか、まったく覚えていない。
気づいたら真澄はただ自分の部屋に駆け込んで、ベッドに突っ伏したまま涙が止まらなくなっていた。

それはまるで今まで溜めてきた涙が、先程の酷い光景を境にして一気にあふれてしまったかのようだった。
この世界に来てからと言うもの、ことあるごとに心細くて泣きたかった。けれどそんなところを他人に見られるのはご免だというプライドがあったから、だからずっと涙は胸の内に溜めていた。
しかし、それなのにこのたった一回きりで涙が止まらないとはどう言うことだろう。真澄はすべてが悔しくて歯を食いしばった。けれどやはり、涙は留まることを知らないようだった。

もしかしたら、本当はわあっと泣きたかったのかもしれない。
少し落ち着いて比較的涙も引いたころに、真澄はぼんやりとそんなことを考えた。
自分の思い通りにならないこの運命に、子供のように泣き喚いて抗いたかったのかもしれない。泣き喚いたって元の世界に戻れるわけではないが、せめて涙が枯れるまで、泣いて泣いて泣いてしまいたかったのかもしれない。
だからこそ、今涙は頬を伝い続けるのではないだろうか。そんな感じがした。

「真澄ちゃーん?」

唐突に現れた馴染みのある声に、びくり、と肩が反射で震えた。
背後から聞こえた声だけで、真澄はサシャが隣のシルヴィオの部屋から声をかけてきたのだとすぐに分かった。
真澄は慌てて睫毛の上に溜まっていた涙を拭う。しかしそれよりも早く、サシャは部屋の扉を開けたらしく入ってくると、こちらの顔をひょいと覗きこんだ。

「ああ、やっぱり。ごめんねあんな血生臭い場面見せちゃって。怖かったでしょ?」
「だ、大丈夫です!」

真澄は咄嗟にサシャから離れようとした。が、その前にサシャに腕を取られた。
抵抗などする暇もなく素早く優しく引き寄せられて、気づけば真澄はばふっと柔らかい音と共にサシャに抱き締められていた。

ふわ、とどこからともなく可憐な花の香りがする。サシャは自分の家族ではない赤の他人だが、心のどこかが温かくなって少し安心する。
これは現実なのだろうかと、真澄はサシャに抱き締められながら思案した。
サシャの手が真澄の黒髪をなぞる。その度に、真澄は元の世界にいる両親の温もりを思い出した。

「真澄ちゃんの国、戦争ないんだもんねえ。いいなあ、私もいつか行ってみたいなあ」

揺りかごのようにゆらりゆらりとサシャに揺すられて、ぎしりぎしりとベッドが軋んだ音を立てる。
サシャのなんでもないその言葉に、じわりと心の奥から滲み出てきたなにかとてつもなく熱いものが瞳に溜まってきた。
どうやらそんな真澄の様子にサシャも気づいたらしく、サシャはぽんぽんと、まるで子供をあやすような仕草で真澄の背中を軽く叩いてくれた。

「そうやって無理ばかりしてると、せっかくの可愛い顔も台なしになっちゃうよ? ほら、オネエサンの胸でどーんと泣きな」

先程よりもいっそうぎゅうと強く抱き締められて、苦しかった。
それでもやはり安心できたのは、きっと、サシャが明かしてもいない自分の心内を理解してくれたからなのだと思った。

「……すみません」

真澄は自分でも思ったより元気な声が出せたと思ったが、語尾に照れ隠しみたいな笑い声が混ざった。
サシャはそれで少し安心したのか、ふふと薄く笑った。

「もう、そんな健気なところ見せられたら、思いっ切り抱き締めたくなる!」

ここまでくると強く抱き締められる、と言うよりは、むしろサシャの腕に押し潰されそうだった。
それでも真澄はただ笑っていた。サシャも笑っていた。要するに、お互い馬鹿みたいに笑い合っていた。
真澄は、もし自分に姉がいたらこんな感じなんだろうなとも思った。ああでも、こんな綺麗なお姉さん、欲しいかも。

「……おい、サシャ」

カタン、と部屋の扉の方から軽い音がすると同時に、凄みのある低い声が響く。
真澄が視線を目の前のサシャから扉の方へ移動させると、そこには治療を終えたシルヴィオが、開け放した扉に寄りかかるようにして腕組みしながら立っていた。
彼はどうやら上着を着直す気はないらしく、上着の前のボタンを止めないまま羽織っている。胸部に白い包帯がぐるぐる巻きにされているのが見えた。

「あ、不機嫌な国王様のご到着ですこと」

サシャは部屋の出入り口で眉間に皺を寄せて立つシルヴィオを認めるとすぐに真澄から離れた。

「じゃあね、真澄ちゃん。ごゆっくりー」
「え? あ、はい」

サシャはブラウン色の髪をなびかせ、戸惑う真澄に天使のように微笑むとさっさと部屋を立ち去って行く。
しかしシルヴィオはサシャのその後ろ姿を、見えなくなってもしばらくは般若の形相のままで睨みつけていた。
別に国王の私室を経由するくらいいいではないか。真澄の部屋に来るまでにシルヴィオの部屋を通らなくてはいけないのはどうしようもないだろう。

「おい、お前」

どこか苛立った調子のシルヴィオの声に、真澄はようやくここでシルヴィオと二人きりになっているのだと気づいて慌てて残りの涙を拭い取った。
シルヴィオは長く深い溜め息をつくと、真澄がいるベッドではないまったく違う方向を見て出し抜けに言った。

「抵抗くらいしろよな」
「……え?」
「それともなにか、お前はサシャに気があるのか? ただ単に気づいてないのか?」

シルヴィオの言わんとすることがまったく分からないのだが、どうやら彼は何かに苛立ちを覚えているらしい。それだけは分かった。
しかし真澄もこのときばかりは頭に血が上って、話をはっきりさせないシルヴィオに苛立って声を荒げた。

「だから! なんの話!?」
「ああ、そういやお前は勘違いしたままだったな。と言うか、アイツも人の悪い野郎だな……」

話がまったく見えてこない。
するとシルヴィオはようやくこちらをその銀色の瞳で一瞥してきた。

「気づいてないんだったら今後のためにも言っておく。サシャは正真正銘、本物の男だ」

一瞬、シルヴィオがなにを口走っているのか理解不能に陥った。
真澄はぽかんと、腕組みしながら見下ろしてくる高慢な態度のシルヴィオを見上げた。

「……………………はい?」
「サシャは男だ」

真澄の脳裏に、美しく微笑むサシャの顔が猛スピードでよぎっていった。
男と言うと、シルヴィオと同じで自分とは正反対の、アレだろうか。

「サシャさんが……男?」

いや、ちょっと待て。サシャが男? まさか、それはあまりにもありえないことだ。
そう思いながら真澄は最後の足掻きでこわごわとシルヴィオに問うた。心の片隅で、もしかしたらシルヴィオは冗談を言っているのかもしれないと思っていた。

しかしシルヴィオの鋭い視線は未だに真剣で、真澄が微妙な笑顔とともに返したと言うのに少しも緩むことがない。
そこでようやくシルヴィオが今の言葉に、嘘などこれっぽちもついていないのだと分かった。

「ええ!? そ、それ本当に!?」
「ここで嘘言ってどうなるんだ」
「だってサシャさん女騎士で綺麗で、しかもさっき『オネエサン』って自分で!」
「遊ばれてるんだよ、阿呆か」

もうなにも言い返すことができなかった。
ああ、あたし騙されてたんだ。そう考えたら、耐えるべきものが耐えられなくなった。

「阿呆じゃ、ない……っ」

ぷっつりと涙の線が切れてしまったみたいで、止まりかけていた涙が再びどっとあふれてきた。
だがこれはサシャに騙されていてショックだったとかそういったものではなく、何故かサシャが本当は男だと知って安心して、それとシルヴィオが変わらずに自分に向かって散々な雑言を吐くのにも安心したからだった。

泣きながら、真澄は心の中で狂った笑いを抑えられなかった。
騙されていた。それに気づかなかった自分も自分だ。情けなくて、馬鹿らしい。

このとき、もうすべてがどうでもよくなっていたのだと思う。
真澄は目蓋を両手で押さえながらひたすら自分の愚かさを呪っていた。シルヴィオの前だったが、プライドなんてものはもはや存在しなかった。
ただ子供みたいだなとか、きっとシルヴィオには呆れられているんだろうなとか、いろいろな思いは一気に去来した。

だから真澄は気づかなかった。
涙を止めるために目蓋を押さえて周りが見えなくなっていたこともあるが、なによりも外界のすべてのものを遮断して懺悔していたのだ。
こちらへ静かに近づいてくる足音など、感知できるはずもなかった。

「お前に泣かれると、こっちの調子が狂うんだよ」

どういう状況になっているのか、サシャに抱き締められたとき以上に真澄はわけが分からなくなった。
唐突に肩に触れた温もりと、そのあとすぐに身体をすっぽり包み込んだ感触に驚いて顔を上げる。だがシルヴィオの顔が間近にありそうな気がして、真澄はすぐに顔を伏せた。

それがシルヴィオに抱き締められているのだと気づくのに、いったいどれくらのい時間がかかったのだろう。
真澄の肩にはいつの間にかシルヴィオの大きい手が回っていて、身体はすべて彼の方に引き寄せられていた。
しかしシルヴィオの胸はサシャより大きくて硬くて花のような香りもまったくなくて、すると言えば薬品のきつい匂いだけだった。それなのに真澄は、なぜか安心した。

ひょっとしたらこれは彼なりに慰めてくれているのだろうか。
真澄は目頭に残る冷めた涙を鬱陶しく思いながらも、いつもは偉そうなシルヴィオの意外な行動に、手元で小さく笑った。

しかしときが経つにつれ、真澄はその「安心」を忘れてはたと思い留まった。
先程の言葉からして恐らく彼は自分を慰めているには違いないのだが、今顔を押し当てているのは異性の胸元だ。そう考えてすぐに「安心」は「不安」になり、ついには真澄の顔は沸騰したヤカンのように熱くなった。
ここで突き放したりなどしたら嫌がっているみたいでまずいだろうか。異性の身体にここまで近づく、もとい抱き締められることはあまり経験することではないので、対処の仕方が分からない。

やはり恥ずかしくなってしまった真澄は、シルヴィオに悟られないよう少しだけ身体をシルヴィオから離そうと試みた。
するとそのときふと、シルヴィオの胸にぐるぐる巻きにされている包帯が目に入った。

包帯の下には傷口に沿って脱脂綿が敷き詰められていているようだが、微妙に血が滲み出て白い脱脂綿を赤に染めている。
胸の奥がぞわりと粟立った。真澄は目を逸らしたかったが、逸らせなかった。
しかしどうしてか、真澄は自分でも気づかない内に、そっとシルヴィオの胸部の包帯に触れていた。

「……怪我」
「は?」
「怪我、痛い?」

急ではあるが静かに聞く真澄に、シルヴィオは少し躊躇ってからあくまで無愛想に言い放った。

「少しはな。だが慣れた」

嘘だ。きっと本当は痛くてたまらなくて、傷だってまだ開いているくせに。
シルヴィオはどうしてそこまで己の殻の中にひとり閉じこもるのだろう。けれどこのときの真澄に彼の心情は理解できなかった。

二人の間の会話はまたそこでぷつりと途切れる。
それから居心地の悪い沈黙が流れると、シルヴィオが口を開いた。

「そういや、お前の国には戦争がないって?」
「え……うん」

いったい彼はなにがいいたいのだろう。真澄はそう思ったが一応答えておいた。

「あ、でも他の国にはあるけど。あと事件とかなら、起こったりする」
「ああ、内乱か」
「いや、そんなに大きいものじゃなくて……」

真澄が否定しようとするとシルヴィオは可笑しいものでも見たかのようにハッと嘲笑った。

「戦に大きいも小さいもあるか。人が死んでるんだ。お前の国に戦がなくても他国にあるんだったら、そんなんじゃ戦がないとは言えねえよ」
「……そう、だね」

シルヴィオはたまにずばりと的を射たようなことを言う。
それが違う世界に生きていても同じ人間に変わりはないのだと身に染みるきっかけになる。

――シルヴィオのどこが好き?

いつしか訊かれたサシャの問いがこのときになってふと蘇ってきた。
あのときはなんて答えたんだっけな。思い出そうとするが思い出せない。きっと真剣に悩んで答えていないのだろう。

「シルヴィオがあたしの名前を呼んでくれるときが、好き」

真澄は直感で思ったままを言った。するとシルヴィオは、当たり前だが、意味が分からないとでも言いたげな怪訝な声で返してきた。

「は? なんだそりゃ」
「だって『ナンバー7』って、ちょっと……品性を疑」
「あ?」
「……なんでもない」

真澄はいつものシルヴィオの調子に閉口しつつも、内心で苦笑する。
模擬試合でもしかしたらシルヴィオはこのまま戻ってこないのかもしれないと思ってしまったが、そうではないのだと分かってほっとする。
シルヴィオの胸から噴き出した鮮血が宙に舞ったとき、胸が張り裂けそうなくらい辛かった。

「ったく、お前は国王にずけずけと物を言いすぎなんだよ」
「そっ、そんなに言ってないでしょ!?」

今度こそ呆れた声色のシルヴィオに反抗するために、真澄もつい躍起になる。
さっきまで心にあった恥じらいは、既に綺麗さっぱり吹っ飛んでいた。

しかしすぐに真澄の身体はぼっと尋常ではない熱を持つようになる。
シルヴィオの自分の肩を掴む手にぐっと力が込められて、さらに強く引き寄せられて、真澄は驚いた。

「んなことはどうでもいいからとっとと泣き止め。……真澄」

恰好をつけたようだが、彼の最後の自分の名前を呼ぶ声だけがどこか不器用で、真澄は思わず涙に濡れた顔で笑った。

「なんで笑ってるんだよ」
「……ごめん」

だがいっそ麻薬じみたその笑いを抑えることはできなかった。
思い出さないようにと努めれば努めるほど、さっきのシルヴィオの投げやりな声とか仕草とかを思い出して笑いが止まらなくなる。
それとなく顔を上げてみれば、シルヴィオは顔をやや赤くしながら目線を脇にずらして、眉間に皺を寄せている。

さっき泣いてしまったときも嗚咽が止まらなくて苦しかったけれど、今度は笑いすぎて息ができなくなった。
シルヴィオがチッと不機嫌そうに舌打ちをする。それでも変わることはなかった。

真澄は笑いの名残を引きながら、目尻に残る涙を拭って、そう言えばとほんの少しだけ後悔した。
とてもではないけれど、この状況の中でこんなこと言えないではないか。
部屋をここから変えて欲しい、だなんて。













BACK/TOP/NEXT
2008/08/16