Garten  -09









勢いよく走り出したはいいが、そこで案の定迷子になったことはもはや言うまでもない。
真澄は前後左右を何度も見回しながら、どこをとっても同じ豪華絢爛な廊下に無意識にミノタウロスの迷宮をあてはめていた。
いや、ラルコエド城の構造はあれよりももっと複雑かもしれない。どちらにしろ迷ったが最後、抜け出せない。

(もしかして、また迷子……!?)

息が切れたので真澄は一旦立ち止まり、身体を半分に折って何回も何回も深呼吸した。
まさかドレスを着てまで走るとは夢にも思わなかった。
元の世界に戻ったらまず体を鍛えようと決意して、真澄は天を仰いだ。

蔵書室を飛び出したとき、アネルが持っていた懐中時計は確か二時五十分を指していた。が、恐らく城内で迷っている間に優に三十分は越えてしまっただろう。
まさか試合は既に終わってしまったのだろうか。
そう思って顔を上げてみれば、数日前に見た英国風の建物が何故か頭上に堂々とそびえ立っていた。

一瞬、ここがどこかのか判断に苦しんだほどだ。
気付けば今まで人気のなかった廊下では多くの侍女が足を止めて、その英国風の建物の方を見やってはきゃっきゃと他愛無い会話に笑い合っている。

数日前にこっそりと告げられたサシャの言葉を思い出す。
確かサシャは稽古場は、幾つか城壁を隔てた向こうの、独立した英国風の建物の辺りを指していた。
やはりそうだ。稽古場の場所はここで間違いない。

ぞろぞろと建物の奥へ進んでいく人の群れに混じって、真澄もどぎまぎしながらついて歩く。
建物は真ん中がアーチ状にくり抜かれていて、向こう側へと続く橋渡し的な役割を果たしているようだ。

そうして大きい建物をくぐり抜けると、そこには運動場がまるまる入ってしまうのではないかと思えるほどの短い芝が広がっていた。
この場所に詰め掛けている大勢の人の後ろからでも、広大な敷地をぐるりと取り囲むように建てられている見物用の立派な建物は易々と見ることができた。
敷地の中央には四角く白いラインの縁取りがしてあって、この中で模擬試合は行われるのだろうという大体の予想はついた。

しかし肝心の試合の行方はどうなったのだろう。
真澄は不審に思われないよう小さく辺りを見回す、が、もちろん見知っている人間などこの中にはいない。
いるのはほとんどが騎士や兵士など団に属している者。その他にちらちら見かけるといえば、ラルコエド城で働いているであろう様々な職種の人ばかりだった。

(なんか疎外感……)

内心自分で己の孤独に苦笑しながら、辺りを見回した時にふと目に留まった階段の方へ人混みを掻き分け近付く。
稽古場の隅にひっそりとある灰色の階段は、どうやら見物用の建物の二階へと続く階段らしい。
誰もこの階段を上って行かずに敷地の周りに詰め寄せる光景が異様だが、この先になにか不都合なものでもあるのだろうか。気付いたら足は既に段を踏んでいた。

一段一段を静かにゆっくりと上目指して上っていく。
いつまでこの階段は続くのかと言う懸念の前にすぐに視界は開け、空の青色がいっぱいに目に飛び込んできた。

二階と言えど結構な高さがあるらしい。
広い稽古場が眼前に迫るかのように迫力があって、なんといっても稽古場すべてが見渡せた。真澄は思わず息を呑む。
まるでどこかのスタジアムにいてスポーツ観戦でもしているみたいだなと思った。

「真澄様?」
「はいっ!?」

急に現れた低い声に真澄が驚いて振り向くと、いつの間にか真澄のうしろに来ていた一人の若い青年がにこりと微笑んで会釈した。
やはりこの建物に立ち入ってはいけなかっただろうかと若干心配になる。
しかし彼のいかにも優しげな瞳が「いい人」という漠然とした印象を与えて、真澄はとりあえずほっとする。

「あの、どうしてあたしの名前を……?」
「ええ。城内の者でしたら皆存じ上げております。神の色を持たれる、国王のお客人ですから」

ああこれか、と真澄は人差し指で自分の髪を触って確かめた。
確かに場内を見渡す限り、茶色だったり色素の薄い色の髪を持つ人がこの場ではほとんどだ。

突然背後から現れた青年はこれまた唐突に、僕でよければご案内します、と言うので、なにがなんだか訳の分からない真澄はとりあえず頷いた。
ご案内って、もしかして処刑場に?いやいやまさかそんなことはあるまい。と一応苦し紛れの自己暗示をかける。
それに彼は着ている服からして騎士か兵士だろう。
サシャの服装と似たような軍服を身にまとっている青年は、また控えめに笑むとすっと紳士的に身を引いた。

「ここでは場所が悪いですから、観覧席からご覧になられてはいかがです?よく見えますよ」

青年が指差したのは、階段から少し離れた場所に設けてある、王族が試合観戦のために座るような一等席だった。
しかしそんな試合場から丸見えな場所から観戦するなどとてもではないが出来ない。万が一でも試合場にいるシルヴィオと目が合ってしまえばかなり気まずいものになるだろう。
彼の好意は大変嬉しかったが、真澄は躊躇ってから苦笑して首を小さく横に振った。

「大丈夫です。それに、あたしがここに来たこと知ったらシルヴィオも怒るだろうし」

青年が真澄の言ったその言葉に対し不思議そうな顔をする。
何と解釈されたのかは分からないが、もう何も気にするまいと誓った。

「えっと試合、まだ始まってないんですか?」
「はい。隊長、サシャ殿が支度に手間取っているようでして、ただいま三十分の遅延になっております」
「え、サシャさんが?」
「どうやら髪が上手くまとまらないとかで……。ですが隊長にはよくあることです」

達観したように話す青年に、真澄は苦笑する。

「この建物ってなんか人が少ないんですね。下にいる人たちはどうして上がってこないんですか?」

見回してもいるのは青年と同じような服装の騎士が壁際に数人だ。
さっき勧められた一等席には、空いているのに誰ひとりとして座っていない。

「はい。こちらは貴賓席ですので、騎士兵士でも警備以外では滅多に上がれません。一般人なら尚更です」
「え、あたしやっぱり戻ります!」
「いえいえ。国王のお客人が下におられるなんて、それこそ失礼に当たります」

自分より年上の人に敬語を使われてまったく恐縮してしまう。
真澄は小声ですみませんと礼を言う。すると青年もまたいいえと微笑んで返してくれる。
少なくともシルヴィオよりはいい人だ。ラルコエド城にはどうやらいい人が多いらしい。

真澄がそんな少しのやり取りを嬉しく思ったその時、わあ、と大きいどよめきが起こったので、思わず視線を下方の試合場へと移した。
下方に広がる白いラインに縁取られた大きい試合場では、ちょうどシルヴィオとサシャとが同時にライン内に入ってきたところだった。

シルヴィオはいつもよりかっちりとした服に身を包んではいるが、不遜な態度も眩しい銀髪もそのままだ。
そして反対側から現れたサシャは、周囲の観客にひらひらと手を振りながら歩いてくる。

「手加減するんじゃねえぞ」
「もちろん、本気で行くつもりだよ。だってシルヴィオってば普通の練習の時だって手え抜いてくれないじゃん」

サシャがいつもの調子であははと笑う。
しかしシルヴィオは真剣な表情のままむっと眉間に皺を寄せる。と同時に、この建物界隈の温度が三度くらい下がったような気がした。

「ほ、本日の模擬試合!国王、シルヴィオ・キア様、対するは、第一切込隊隊長、サシャ・ハインツ・ネッセルローデ」

ライン外にいた中年の審判員までもがシルヴィオの冷たいオーラに声が上擦っている。
紹介されてシルヴィオは小さく、サシャは可憐に、互いに向かい合って礼をする。

「では試合、開始いたします」

しかし審判員の厳粛なその一声で、今までにこやかだったサシャの笑みが顔から消えた。
真澄は正直、心配でたまらなかった。
あの人を無情にも切り捨てる冷徹な性格のシルヴィオと剣を交えて、果たしてサシャは大丈夫なのだろうかと。

建物に囲まれた広い試合場は、今や一つの歓声も残さず静寂のみに包まれている。
なんだか息苦しささえ覚えるその中で、いち早く剣を鞘から抜いて動いたのは、サシャだった。

サシャのあまりの速さに真澄の目は追いつかない。
キン、と耳をつんざく鋭い音に我を取り戻すと、既にシルヴィオとサシャは中央で剣を交えて押し合っていた。
だがすぐにシルヴィオに力で押されてサシャは後方へと身を退く。

「ああ、もう。力技じゃかないっこないってば……」

ぶつぶつと何かを悔しそうに呟きながら、それでもサシャは攻撃の手を緩めない。
相手の懐に飛び込んでいっては、互いの剣がかち合って硬質音を辺りに残す。

「さすが隊長です。あのシルヴィオ様と互角だとは」

隣で二人の試合に感嘆する青年の瞳は、期待に光っている。

「サシャさんって強いんですか?」
「はい、それはもう。シルヴィオ様はかなりお強い方ですから、互角は騎士や兵士でもサシャ殿を含め一握りしかおりません。練習の時でも、シルヴィオ様やサシャ殿がお相手ですと一端の兵ならすぐに隙を突かれて一撃で失神します。ですからお二人はよく練習なさっているほどで」

もしや自分は今までとんでもない人物に突っかかっていたのではないだろうか。
真澄は心なしか額に冷や汗が流れるのを感じた。

こうして青年と会話をしている間にも、シルヴィオとサシャの絶え間ない攻防戦は続いていく。
だが本物の剣が現実に振り回される光景を見たことのない真澄にとっては、どちらかがふとした瞬間に怪我をしてしまいそうで、気持ちがそわそわとして落ち着かない。
サシャが傷を負うのだって見たくはないし、シルヴィオでさえも怪我をするのはいやだ。

そうは思っても、サシャは果敢にシルヴィオに突っ込んでいくし、シルヴィオは多分本気で剣を振るっている。
二人のギリギリの試合に、詰め掛けた観衆からわあ、と歓声が上がる。

いつまで剣を交えれば試合は終わるのだろう。
真澄がなんとなくそんなことを考え始めたとき、サシャがシルヴィオの剣を押しやることに成功して、さっと身を翻してシルヴィオの懐に飛び込んだ。
サシャの戦い方は普段の行動からは考えられないほど素早くて目が回りそうだ。

「もーらい」

にやり、とサシャの口の端が持ち上げられて、シルヴィオはチッと舌打ちをする。
シルヴィオがサシャの刃を避けようとするが避けきれずに、剣をまともに身に受けるような形になる。

真澄はこの瞬間、思わずぎょっとした。まさか、このまま剣はシルヴィオの身体を貫かないと信じていいのだろうか。
だってこれは模擬試合だ。多くの観衆が詰め掛けているくらいだ。流血戦にだけはならないだろうと思っていた。
いつもお茶をしていて楽しかったサシャの笑みが、今はこんなにも怖い。

サシャの剣がシルヴィオの胴めがけ、下から上へと勢いよく振り上げられる。
するとシルヴィオの胸元を真っ直ぐに駆け上った剣の軌跡上から、サシャが剣を振り上げてから一拍置いて、赤い飛沫が上がった。
周囲の観衆からどよめきが起こる。審判員の試合終了の声が、高々と試合場内に響き渡る。

「真澄様?」

真澄は自分でも知らないうちに、口元を押さえてやや前かがみの姿勢になっていた。
目を閉じても開けても、今し方の赤い飛沫が脳裏に焼きついて離れない。

「ご気分が優れませんか?」

隣にいる青年が気遣ってくれているのが分かる。
しかし何か胸に詰まるような、気持ち悪いものが喉の辺りまで迫ってきてしまってどうしようもない。
有難うございますとか大丈夫ですとか言いたいのに、口が開けない。

それでも真澄はそれらのもやもやとしたものを辛うじて飲み込んだ。
青年がこちらを覗き込んでくる。が、この気持ちを悟られたくはない。

「すみません。ちょっと、驚いただけです……」
「顔色が悪いですよ。部屋の前までお送りしましょうか」
「あ、いえ。大丈夫です」

真澄は頑なにそのまま下がって、ここまで上ってきた階段を一気に駆け下りた。







屈辱だ。今のは単に隙を突かれただけだ、己の力量不足などではない。
しかし傍ではサシャが勝ち誇ったようにうっとりと明後日の方向を見つめながら笑っている。

シルヴィオは地面に仰向けに倒れながら、剣によって裂かれた服を掻き合わせて止血代わりにすると、ふうと一息ついた。
サシャに斬られた部分が熱を発してじわりじわりと熱い。

「てめえ……寸止めしろよ」
「腕が鈍ってるんじゃない?猛者と称えられた国王様が『たかが隊長』ごときに手傷を負わされるとは。こりゃあ私が国王の右腕になれる日も近いかもね」
「ハッ、言ってろ」

どうやらいつしかシルヴィオが言った言葉を根に持っていたらしい。
面倒だな、と思うシルヴィオの頭上で、誰かの医者を呼ぶ声が聞こえる。
シルヴィオが起き上がろうとすると、サシャの腕が素早く伸びてきてそれを止めた。

「今起きたら傷に触るよ」
「お前の所為だろうが。こんな出血数年ぶりだぞ」
「大丈夫。手加減しておいたから」
「国王が死んだらお前、どうするつもりだ」
「じゃあその暁には私が仮国王になるってことで」

シルヴィオとサシャが話している間に、呼ばれたらしく若い医者がすっ飛んできた。
彼はテキパキとシルヴィオに応急手当を施すと、さらに別の医者数人に向かって担架を持ってくるよう頼んでいる。
そこまでの傷だろうか。数年前のジルヴィラートとの大戦で右腕を負傷した時は、確か今よりもずっと痛くて治りも遅かったっけな、と思い出す。

「傷はそれほど深くはないですが、念のため安静になさって下さい」
「三日で何とかなるか?」
「早ければ。浅いですが感染症にかかれば厄介です。ですが、最長でも一週間でしょう」

あとで医務室に来てください、と言いながら、若い医者はこれでもかと言うくらいぐっときつく包帯を巻く。
シルヴィオはこの医者の力加減に感服しながら、青い空を見上げてぼうっとしていた。

「あれ、真澄ちゃん。来てたんだ」

サシャの声に、稽古場の出入り口付近を見てみれば、この場に似つかわしくないひらひらのドレスと黒い髪が見える。
シルヴィオはまた起き上がろうとしたが今度は医者に抑えられた。
サシャがいつもの調子で真澄の名を呼ぶ。しかし真澄はこちらには目もくれず、背を向けたまま足早に稽古場を去ってしまった。

「なんだアイツ」

シルヴィオは自分が無視されたわけではないのに眉間に皺を寄せた。
まったくもって意味が分からない。彼女の世界では呼ばれたら無視すると言う規則でもあるのだろうか。

「まずかったかなー」
「あ?」

サシャはぽつりと呟いてから、真澄の消えた稽古場の出入り口を小難しい顔をして眺めている。

「真澄ちゃんの国ってさ、思えば戦争なかったんだ。この血とか見て気分悪くしてなきゃいいんだけど」
「んなもん、怪我すりゃ嫌でも目にするだろう」
「普通の怪我でここまで出血ってないでしょ」

あはは、と笑い飛ばすサシャに軽く殺意を覚える。
しかしすぐにそんな気持ちが失せたのは、真澄の後ろ姿が気になって仕方がなかったからかもしれない。













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2008/07/19