Garten  -08









「この城の者はどうやら知識を詰め込むのが億劫なようでして、こちらとしても物足りないのですよ」

アネル・ラング。どうやらそれが彼の名であるらしかった。
だがそれはこの数分間の彼によるマシンガントークの中から辛うじて分かったにすぎず、この城の専属医だとかそういうことも断片的に聞かれたのだが、アネルは真澄が相槌を打つ暇もなく一方的に喋り続けていた。
すっかり色素の抜け落ちた白髪と白衣がどことなく医者っぽいなと思ってはいたのだがまさか本当だとは。真澄は蔵書室の真ん中に置かれた広いテーブルに彼と面と向かって座って、今も早口で喋り続けるアネルの顔を見た。

真澄の両親どちらの祖父母も、真澄が幼い頃に天国へ旅立ってしまったのだと聞いていた。
だからこうして老人の話に耳を傾けることは滅多にできることではなかったから普段から好きだった。
特に昔の話など、一見どこか現実とは違うように思える歴史と過去とは同じものなのだと感じる。

だが数分しか経っていないというのに疲労を感じるというのはいったいどうしたことだろう。
それにアネルの話題は世間話程度のものと思っていたのだが、どうやら「知識」という自分の苦手分野に向かって驀進しているようだ。

「コルネリアには知識人仲間が数人おりますが、あそこはもはや敵側に捕らわれ……。ああ、女性にこの手の話題はいけませんな」

真澄の反応が鈍くなったことに気付いたらしく、アネルはほっほと豪快に笑った。

「それで真澄様、でしたかな。あなたはここへどんな知識をお求めで?」
「え、えーっと……」

今度は一転、こちらの意見が求められているらしい。皺くちゃの顔がこちらを向いて真澄はいっそう焦った。
焦った、と言うのは、咄嗟にもしかしたら彼はシルヴィオの刺客かもしれないと考えたからである。
何か善からぬことを企んでいる見受けられただけでこっそりシルヴィオに伝えられそうだった。自分を今でもスパイとして疑い続けているあのシルヴィオのことだ、ありえない話ではない。

しかし真澄が黙りこくっても、アネルは急かすでもなくただにこにこと、こちらが話し出すのを待っていてくれた。
悪い人ではなさそうだ。数秒後にちらりとそう思った。

「あの、信じてもらえないのは百も承知なんですが……」

まずは無難な話題から切り出そう。
この世界について聞きたいことは山ほどあったが、とりあえず蔵書室へ来たその理由から話しておくべきだろう。

「あたしのいた世界、というか、まあそうなんですけど。そこはこことは別の場所なんです。でもあたしは、ここにこうやってちゃんと来たはずなのに、帰り道を知らないんです」
「別の場所……それは『異国』ということですかな?」
「よくそう聞かれます」

真澄は真剣な顔をして聞くアネルに申し訳なくて苦笑した。

「あの、信じられなかったらそれでいいんです。でもどうしても、この現実だけは現実なんです」
「ほう?」
「……あたし、その、別の世界から来たんです。あたしが今までいた元の世界にはラルコエド国なんて国ないんです。それにあたしの国、日本って言うんですけど、その国もこの世界にはないんです」

俯いたまま言い訳をするように一気に言ってしまったためか、顔を上げるタイミングを逃してしまった。
しん、と蔵書室が背筋を凍らせるくらい沈黙する。

だが何故か自分の国のことについて話しながら、アネルなら分かってくれるかもしれないと思っていたのも事実だった。
アネルはさっきの話からするに知識人だ。それならラルコエド国にまつわる奇怪現象や珍しい話にも通じているかもしれない、もしかしたら世界と世界を行き来する方法も分かるかもしれない。そう思ったからだった。

だが、「違う世界」などというあまりにも現実離れした話、いくら知識人といえど相手にするわけ無いだろうと、口にした途端に後悔した。
笑われるのはこの瞬間に覚悟した。シルヴィオだってなかなか信じてはくれなかった。サシャは今でも、真澄は違う「国」の人間なのだと思っている。

「パラレルワールド、と言う訳ですか」

アネルの、唐突に現れた低い声に驚いて顔を上げた。
そこには宙を見詰めながらなにやら難しい顔をして考え込む、アネルの姿があった。

「信じて、もらえるんですか!?」
「信じるも信じないも、この世界は未だに多くの謎に包まれております。何が起ころうとそれを受け入れ疑問視し、物事の本質を見極めて真実を導く、それが知識人としての役目です。しかしまあ……パラレルワールドとはまた違うような気もいたしますが、それにしても別世界ですか、また遠い場所からおいでになられましたなあ」

それは換言すると、信じられていないと言う意味合いが強いのではないだろうか。
少し期待してしまったが、真澄はようやくそこで冷静になれた。

「戻りたいんです。あたしの、ここじゃない元の世界に」

あくまでも真面目な顔で、アネルにそう告げた。
するとアネルも真剣な態度を崩すことなく、テーブルを挟んだ向こうで強く頷いてくれた。

「では微力ながらこちらでも調べてみましょう。ですが、わたしの知る限りこの蔵書室にそういう書物はありませんな。コルネリア辺りには独自の文化が残っておりますから、そこに行けばなんらかの情報もあるのでしょうが……なにせ今あそこは……」
「あ、大丈夫です。そんなに急ぐわけじゃありませんから!」

嘘だ。可能ならコルネリアという都市に今すぐ飛んで行きたい。
だが分かっている。今この城から出て行けば、間違いなく戦争とご対面と言う宜しくない展開に巻き込まれる。

仕方なく真澄はこの話題をここで終わらせなければならなくなった。
しかしそうは言ってもまだ聞きたいことは色々と残っているのだ。知識人に会うのはこれが最後かもしれない。
真澄の脳裏に、何十年か前に自殺した姫君と、神出鬼没の黒髪長髪少年の顔が浮かんだ。

「あ、あと、もう少し訊いてもいいですか?」
「ええ。どうぞどうぞ」

アネルは余程嬉しいのかテーブルに身を乗り出して、心なしかわくわくしているようにも見える。
本当に大丈夫だろうか。真澄は不審に思いつつも、恐る恐る口を開いた。

「エディルネさん、って言う人のことなんですけど、あの、余計なことだったらすみません」

エディルネ、とその名を言っただけでアネルの瞳が大きく見開かれたので、やはり聞くべきではなかったと思いすぐに頭を下げた。

「すみません、どうしても気になって……。でも、アネルさんがなにかご存知だったら、伺いたいと思って……」

再び二人の間に居心地の悪い沈黙が訪れた。
どうして今日はこうも地雷を踏み続けるのだろう。やはり最初にガラヴァルという少年のことを聞いておくべきだった。
自責の念にも似たようなものが頭の中をぐるぐると駆け巡って、息が詰まりそうだった。

「あなたは、歴史が好きですかな?」

神妙なアネルの声に、真澄は少し躊躇ってから小さく頷いた。

「少しなら……」
「結構。それではラルコエドの昔話から入ってしまいますが、そこからお話ししましょう」

アネルはこほん、と咳払いを一つすると、驚くほどすらすらと語り始めた。

「ラルコエドの建国者は遍歴の魔術師であったと言われております。後にその力を欲した、当時はまだ弱小であったラルコエド王族の元へ臣下として仕えましたが、老いてからはまた旅に出て消息を絶ったのだとか。しかし建国したにもかかわらず、王族にその統治権を譲り彼が王にならなかったのだから、寛大と言うべきか欲が無いというべきか……驚き呆れるほどです」

アネルが困ったものだ、とわざとらしく肩を竦めてみせたので、真澄は思わずつられて笑った。
するとアネルも満足したように頷いてからまた口を開いた。

「言い伝えによると彼の魔術師はガラヴァルと意思疎通が図れたとのこと。ガラヴァルは古より私たちの神であります。そのガラヴァルと交流を持つと言うことはすなわち彼は神からつかわされた人間、神の信託者と人々に認識されるのも当然のことでしょう」

思いがけずガラヴァルと言う単語を耳にして、真澄はまっすぐアネルの顔を見詰めた。
するといきなり、アネルはこちらに顔を近付けて声を潜めた。

「なぜ今の年号が『カスファ』であるかご存知かな?」

真澄は無言のまま首を横に振った。

「この国の王はその建国時より血の繋がりがある者が継ぐと言う掟があります。しかしどうしても子孫が続かずに血族が絶えてしまう時もある。そんな時に家の流れが変わります」
「……家の、流れ?」
「ええそうです。シルヴィオ様の故祖父王様からキア王家の流れは変わっております。家の流れが変わると同時に年号も変わります。ですから、カスファ歴はまだ三十七年という浅い時を刻んでいるのです」

アネルはそこで一息つくと、昔を懐かしむように口調を柔らかくして言った。

「エディルネ様は美しく聡明な方でした」

同時に真澄の頭にもアネルの話すエディルネと言う人の姿がありありと浮かんで見えた。

「教養もあり性格もとてもお優しい方でした。しかし彼女は妾腹でしたので、後宮で暮らさねばならなかったのです。それでも故祖父王様は彼女を正妻の御子、シルヴィオ様の父様と同じく慈しみ育てられました」

なんだか話がややこしくなってきた。
真澄は脳内で勝手に家系図を作りながら、今話題に上がっているエディルネの位置を当てはめようと試みた。

「当時の実権を握っていた王家の流れは故祖父王様の従兄弟様の方にありました。しかしその従兄弟様が亡くなられたのですが彼には後継者がおらず、そこで遡って一番近かった故祖父王様に家の流れが変わったのです。ですが……それもまあいきなりのことでして、故祖父王様も予期されなかったことでしょう。なにせあの方はまさか自分が王位を継ぐとは思わなかったために、エディルネ様の母様の他にあと四、五人愛人を囲っておられましたから」

愛人云々はともかく、既に真澄の脳内家系図は見るも無残に崩壊していた。
シルヴィオのお爺さんの従兄弟がそれまで王家の実権を握っていて、それで子供がいなかったからずっと家系を遡って、それでシルヴィオのお爺さんに白羽の矢が立って王家の流れと年号が変わった。とりあえずそんな感じだろうか。
しかしまた難しい王家だ。真澄はアネルの話を聞きながら、心の中で溜め息をついた。

「それとエディルネ様が奥で暮らしていたのは妾腹だけが理由ではございません。なによりもエディルネ様には、『魔力』があった。故に表舞台へはそうそう出られなかったのです」
「魔力は、持ってちゃダメなんですか?」
「男性ならば稀なこととしても受け入れられたでしょう。女性の魔術師と言うものはかなり希少性の高いものです。魔術師は国に一人二人いるだけで十分だと言われますから、その中でも女性は特に。珍しい血を引くお方だったのです」

真澄が今までいた元の世界だったら、魔術師が一人いるだけでも大騒ぎになるだろうな、と思った。

「恐らくはエディルネ様の母様が魔術師の血を引いてらしたのでしょうな。エディルネ様にはそれを手中にする素質があったのでしょう」

途端、アネルはじっと真澄の顔を食い入るように見詰めた。
なんだか嫌な予感がして、それでも真澄は固い笑顔を作ったままアネルの視線を受け止めた。

するとアネルの目尻にいきなりじんわりと涙が浮かび始めたので真澄はぎょっとした。
やはりエディルネのことを訊くのはご法度だっただろうか。
真澄の複雑な表情に気付いたアネルはああすみませんと苦笑して、目尻の涙を拭いながらぽつりと呟いた。

「真澄様、あなたはとてもエディルネ様に似て……、いいや生き写しだ。その黒い髪が銀になり、あともう少し長かったならば」

真澄はすぐに視線を手元に落としてふるふると首を横に振った。

「違います。あたしは、そんなご大層なお姫様じゃないです」

まただ。また「彼も」、自分のことをエディルネに当てはめようとしている。
それはぐさり、と心臓に銛が刺さったかのような感覚だった。あたしは彼女ではない。まったく全然違うのに、そう信じたくないのに。

エディルネと言う人は愛されていたのだと思う。事実、アネルに涙を流させるくらい、彼女は周囲に優しかったのだと分かる。
しかし自分は違う。ラルコエド国との繋がりは何らないし、アネルに涙を流させるほど親切にしたこともない。

―――それにしても本当に良く似ておる。遠くから見たとき、我はてっきりエディルネだと思った。

アネルと同じく、ガラヴァルのこちらを見て驚く顔が蘇ってきた。
違う、違う。自分はエディルネではない。
今まで普通に暮らしてきた、この前まで普通に女子高生をやって笑っていた、どこにでもいる一人の人間だ。

それなのに彼らは自分のことをエディルネに似ていると言う。
だが他人の空似だろう。真澄はずっとそう思ってきた。
どこかでこの世界には自分に似ている人が三人いるという噂も聞いたことがある。その系列なのだと思い込もうとした。

しかし「エディルネ」という見たことすらない赤の他人の少女のことが、どうしてこれほどに気にかかるのだろう。
そしてアネルとガラヴァルの言葉が呪文のように頭にこびり付く。
それはまるで、自分があたかも時と世界とを越えて、死んだエディルネという少女の―――。

「今のは単なる老人の戯言です。気に留めなさいますな」

気付けば、真澄はものすごい力でドレスの裾ををぐっと握っていた。
はっとして顔を上げればアネルがこちらを気遣うように優しい目で見ている。
途端に何故かとても申し訳なくなって泣きそうになって、それでも出かけていた涙を無理矢理奥に引っ込めた。

「わたしがエディルネ様について知っていますのはこれくらいです。ご期待に添えずに申し訳ない」
「いえ、すごく助かりました」

慌ててそう言うとアネルは頬を緩めて、またほっほとゆっくり笑った。
真澄様はお優しいお方ですな、と微笑んで言われたその一言が、とても嬉しかった。

「おや、そろそろ模擬試合の時間ですか。今日の試合は確か、シルヴィオ様と第一切込隊隊長殿でしたか……。ああ真澄様、お時間は宜しいので?」

懐から金の懐中時計を取り出したアネルは、時計のパネルを見た後でそう問うた。
どうしよう。アネルにはあとガラヴァルのことも訊きたかったのだが、模擬試合はサシャに強く誘われている。行かない訳にはいかない。

しかしここで機を逃せば、もう二度とガラヴァルのことを知る機会を失ってしまうかもしれない。
だがアネルはこの城の専属医らしい。探せばまた会えるかもしれない。
けれど部屋を出ようとしてもシルヴィオにどこへ行くか問われるに決まってる。案外シルヴィオが妨害になるかもしれない。

「……あ、ああああのっ!」

考えがごちゃまぜになった頭が鬱陶しくて、真澄は思わず椅子から立ち上がりながら叫んだ。
アネルは呆然としながらも立ち上がった真澄を見上げている。

「いつかまたお会いできますか!?」
「……え、ええ。可能でしょうが」
「もしあたしが部屋から出られなくても、なんらかの方法で会ってもらえますか!?」
「はあ、努力はいたします」

真澄の言わんとしていることが飲み込めないのだろう。
それでもアネルは、呆気にとられているにもかかわらず、まともな返事をしてくれた。それはこの時、焦りまくっていた真澄には幸いだった。

「すみません!今、何時ですか!?」
「ええと……二時と五十分ですね。そろそろ試合が始まりますな。真澄様は、やはりシルヴィオ様の勇姿を観に行かれ……」
「有難うございました!」

アネルの言葉を遮るようにして蔵書室を飛び出すと、そのまま階段と言う階段を駆け下りた。
確かサシャに教えられた稽古場は一階にあったはずだ。それなら尚更、下に行き着かなければならない。
しかもタイムリミットはあと十分だ。アネルと予想以上に話し込んでしまったために完璧に時間配分を間違えた。

広く長い廊下からも、気のせいではないだろう、人の気配が薄くなっている。
きっと人々は見物のため、既に騎士団の稽古場に集まっているに違いない。そう思えば思うほど稽古場に向かう足が縺れた。

しかし何故、アネルは模擬試合が近いからと言ってすぐに真澄に話をふったのだろう。
時間が分かったのは幸運だったが、どうして模擬試合イコール真澄、と直結してしまったのだろう。
そう考えてすぐに思い当たる節があって、真澄は思わず走りながら叫んでいた。

「シルヴィオー!」

あいつだ。元凶はきっと、シルヴィオだ。
シルヴィオが真澄用の部屋を自分の私室の真横にしたせいで、もはや城中で真澄はシルヴィオの愛人として認知されているようだった。

この模擬試合が終わったらすぐさまシルヴィオに直談判をして部屋を変えてもらおう。
そして自分は愛人などではないのだと、サシャがシルヴィオの恋人と噂された時と同様に、宣言の一つくらい出してもらおう。
真澄はまた下へと続く大きい階段を見つけて、そこへ飛び込みながらそう考えた。













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2008/06/08