何かが変だと自覚した時、そこに違和感があるのだと思い至った。 いつもなら朝目覚めるたびに頬をつねっては痛い痛いと呟く少女の声が隣室から聞こえていたのだが、今日は水を打ったように静まり返っている。 (……悪巧みでもしてなければいいんだけどな) 大方また何か下らないことでも考えているのだろう。 手にした長剣の装飾部分が触れ合って、かちゃりと新鮮な音を立てた。 どちらにしろ今日は真澄を相手にしている暇など微塵もない。 国王が模擬試合に出るとあって城中までもが騒がしい。もう少し静かでいいものを、シルヴィオは自嘲気味に小さく苦笑する。 甲斐甲斐しく世話を焼いてくる侍女が仕度はまだかと急かす。同時に決心にも似た浅い溜め息を心の中でつき、廊下に通じる方ではないもう一つの扉を横目に部屋を後にした。 Garten -07 右を見、左を見、そしてまた右を見てからようやく真澄はふうと安堵の溜め息をついた。 僅かに開けた扉の隙間から見える隣のシルヴィオのだだっ広い私室は、今や閑散としていてどこか不気味でもある。 部屋に人気が無いことを確認した真澄は、よし、と胸元で拳をぐっと固めた。 これで第一段階はなんとかクリアだ。が、問題は第二段階と言っても過言ではない。なにせラルコエド城はいったいどこが始まりでどこが終わりなのか分からないほど広く、最近城内の出歩きを許可された真澄にとって、そこは未知の領域だった。 誰かが一人くらい残っているかもしれない。念のため、物音はしないものの用心深く扉を開けた。 「あのー、ちょっと水欲しいんですけど……」 自分の頼りない声が瞬く間に広い部屋に吸い込まれていく。 この見事な静まり返りようは普段では考えられない。まったく返答がないことからしてこの部屋には本当に誰もいないことが分かった。 真澄は自分用の部屋を出て、更にシルヴィオの広い部屋を突っ切って、廊下へ通じる扉の前まで来る。 今だけは自分の行動力に感謝できる。でなくては、シルヴィオがいない間にわざわざ目くじらを立てられるであろうことを進んでやろうとは思わないだろう。 身長以上もある大きな扉を開けたその先には長く広い廊下が伸びている。 真澄はそっと静かに扉を閉めながら、ここからが正念場だと強く自分に言い聞かせた。 これから行く目的地の場所はほとんど覚えていない。あの時は頭が混乱していたし、なにせシルヴィオが先頭に立って腕を引いてくれていた。 (蔵書室、ね……) どこかに城内地図でも転がっていないだろうか。 そう考えたがまさか転がってる訳がないので、何が何でも自力で行くことに肝を据えた。 思えば発端は、この諦めの悪い性格の所為だと思う。 とにかくラルコエドに来た時と同じ方法では元の世界に帰ることは出来ないことは先日の実験で検証済みだ。 それならば少しでも可能性のあるところをしらみ潰しに叩いていくしかない。そう決心したのも昨夜寝付く前だった。 シルヴィオが蔵書室に連れて行ってくれたとき、そこで目にしたあの石碑の文字が、ここ最近になって嫌に気になり始めていた。 今となっては遠い記憶の中の言葉だ。だがもう一度見たら何かが変わるかもしれない、勝手にそう結論付けた。だが行動しないよりはましだ。 「でも道が分からないし……」 無事部屋から抜け出たはいいが、その部屋の扉の前で左右に伸びる廊下を何回も見比べる。 どちらの廊下の姿も大して変わりない、もしかしたらこの城自体が監獄のようなのかもしれない。そう考えた途端、額に冷や汗が流れた気がした。 「真澄様?」 突然背後から響いてきた高い声に、真澄は肩をびくりと震わせて振り返った。 そこにいたのは、いつ現れたのだろう、一人の若い侍女が食器類を手に大きい瞳を瞬かせている。 真澄は思わず後ずさった。 何と理由をつければいいのだろう。外へ?そうだ、散歩へ行きたいから外出したのであって他意はない。強ち間違ってはいないだろう。 きょとんと首をかしげている侍女に対して、真澄は緊張する顔に無理矢理笑顔を作った。 「あ、あの。ちょっと蔵書室へ行きたくて……」 「蔵書室へ?ええ、今は鍵が開けられていますから、入れます」 にっこりと笑む彼女にひとまず胸を撫で下ろしながらも、問題はそこではないと思い直す。 「道順も、えっと、よく分からなくて……」 「あら、そうでしたか。そうですね、分かりやすい道程でしたら、この廊下を真っ直ぐこのまま歩いて、それから突き当たりで左に、それから二度目の角を右、そして第五階段を上って左の道をずっと行けば蔵書室の近くまでいけます。そこからなら蔵書室が見えますからその見える方へ歩いていけば着きます。簡単ですよ」 自分でも知らない内に口が半開きになっていたので、真澄は慌てて表情を元に戻して微笑む。 そしてぺこりとお辞儀をして去る侍女に礼を言い、彼女の姿が見えなくなるとがっくりと肩を落とした。 簡単ではないと思ったのは自分だけだろうか。 最初辺りの道順は辛うじて覚えているが、第五階段という聞きなれない単語が出てきた辺りで脳内がごちゃまぜになってしまった。 とりあえず最初はまっすぐこのまま、だ。それから後はなんとでもなる、ような気がする。 しかしこの決断が甘かったのだと、数分後に思い知らされる羽目になる。 歩き始めてすぐに懸念通りに道に迷い、道行く少ない侍女を呼び止めては道を聞き直し、それから何度同じことを繰り返したのだろう、気付けば何度も同じ道を行ったり来たりしていた。 「や、やっと着いた……!」 蔵書室の面影が見える部屋を認めた時の感動と言ったら言葉では言い尽くせない。 真澄はただひたすらに本が見える片面ガラス張りの天井の高い部屋へと歩き続けた。それだけだ。 細やかな装飾が施されたドレスをこの時ほど鬱陶しいと思ったことはない。 真澄は蔵書室の、両開きの構造になっている大きな扉を半ば力いっぱい押すようにして広い室内になだれ込み、そこでようやく一息ついた。 埃っぽい蔵書室にはいつ見ても変わらない、背の高い本棚が所狭しと林立していた。 以前と何ら変わることの無い静かな光景がじんと身に染みる。 弾む息を抑えようと深呼吸して息を整えて、真澄は折っていた身体を戻し立ち上がった。 (石碑……) 最終目的はあの石碑だ。蔵書室に来ただけでかなり疲弊してしまったが、ここで挫けてはこの先やっていけない。 しっかりしろ、と両手で頬をぱんと叩いて気を引き締める。 きょろきょろと辺りを見回した真澄は、あの石碑が一面のガラス窓近くにあったことを思い出し、本棚の森を奥へ奥へと進んでいく。 ゆっくりと蔵書室の奥へ歩を進めながら、ふと誰かに見られている気がした。 気配はしない。だが、本棚に並べられている本から、とでも形容すればいいだろうか、奇妙な視線を全身に感じた。 そっと触れた自分の腕が嫌に冷たい。ごくりと唾を飲み込みながらも、歩くことをやめようとは思わなかった。 そうしてまるで水族館の水槽のように大きい窓が目の前に現れて、真澄はようやく立ち止まった。 探し求めていたものはすぐに目に留まった。 巨大な窓から差し込む日の光を受けて、国を見下ろすような形は以前と同じまま、幾つもの本棚から避けられた一角にそれはあった。 しかし今、石碑の上には滑らかな赤いビロード調の布が掛けられていた。埃除けかなにかだろうか。 真澄はその前に屈むと、顔の前で両手を合わせて祈る。 (大切なものだけど、ちょっとだけ失礼します!) 心に強く念じて石碑に掛けられている赤い布をそっとめくる。 恐る恐る触れた石碑の板はひんやりしていて、背中に感じる日の暖かさとは正反対だな、と思った。 「え、っと……彼の国が、危機に……近付く、じゃない。ええと瀕する時、異国の……救済者、在り」 覚えたてのラルコエドの言語を一つずつ追っていきながら口に出して確かめる。 「救済者は……なにこれ。く、国?と神?神が伝説の……伝、説……。あーもう!」 このまま最後まで解読できるのではと期待もしてみたが、次第に今まで見たことも無いような系統の言葉が現れるにつれて、頭の中までもが複雑に絡み合った。 もう一度シルヴィオに音読してもらおうか。いやしかし、頼むまでもなく不審に思われること必須だろう。 シルヴィオの眉間に皺が寄った顔を想像して真澄はうんざりと顔を曇らせた。 「カミサマかあ……」 人差し指で石碑の文字の部分をつつきながらぼそりと呟く。 神と言えどラルコエド国で神と崇められているのは人間の姿形をした神ではない、ガラヴァルと言う名のカラスだ。 そう言えばこの国に来てからまだ一度もこの世界のカラスを見ていない。真澄はあれ、と思って、それでもやはり訳が分からなくて無意識に首を傾げる。 結局石碑の意味するところはよく飲み込めなかった。それに気になっていた元の世界の手がかりも見つけられずに消化不良だ。 真澄は少々残念に思いながらも、渋々と石碑の上に赤い布を掛け直す。 「エ……」 それまで窓の外から聞こえる微かな風の音以外、蔵書室に響くものと言えば自分の声以外何もなかった。 そんな空虚な空間に突如別の人間の声が聞こえて初めて、どきりと心臓が強く拍動した。 真澄が驚きと共に振り返ったそこには、小柄でぽっちゃりとした白髪の老人がこちらを見て呆気に取られた顔をしていた。 いったい誰なのだろう。太陽の光を受けて白く光る白衣が眩しい。 真澄は石碑の前に屈んだ姿勢のまま、傍らに立つ小柄な老人をただ呆然と見上げていた。 「いや、これは良く似ておりますな。一瞬我が目を疑いました」 照れ隠しをするためか、禿げかかった白髪を掻いて老人は豪快に笑う。 誰に似ているんだろう。真澄は単純にそう思う。 その時、前にも似たようなことを言われたと気付いて、今の言葉が心の奥で一本の糸になって浮かび上がってきた。 BACK/TOP/NEXT 2008/05/19 |